2016年04月30日

パソコンの「新型感」喪失について

昨日の夕方、注文していたパソコンが予定通り到着した。
BTO(ビルドトゥーオーダーの略らしい)の通販で購入した。
過去2代にわたってソニー時代のVAIOを使い、その前はパナソニックのレッツノートを使っていたので、世間的にあまり名の通っていないBTOパソコン購入には一抹の都落ち感を感じぬでもない。

今回のパソコン購入は、先代機のVAIO(ノートPC)がかなり調子が悪くなったことから決断したものである。
どうもCPUの放熱が上手く行かなくなったようで、2〜3時間継続作動していると前触れなく固まる。
そもそもパソコンはそんなに柔らかくはなくてむしろけっこうしっかり硬い。
しかしあのフリーズ時の「固まった感」はハンパない。
マウスもキーボードもタッチパッドもどのインターフェースからの呼び掛けにも反応しなくなるので、しょうがなく電源長押しで強制終了して少し間をおくと、一応また立ち上がって使えるようになる。

さすがにこれはまずいなあと思いながら半年くらい引っ張って、今回やっと新型にした。
前のVAIOからはおよそ4年半ぶり。
前のVAIOが熱暴走したのは(たぶん熱暴走だと思うが)、狭いノートPCの箱に大熱量のcore-i7が入っていたことが原因なのではないかと推測する。
で、今回もBTOした時に、いちばん速そうなcore-i7 6700HQというのにしたので、また同じように熱で壊れるのかなあと今になって思ったりしている。

ところで昨日の夕方マシンが届いて、箱から出して使えるようになるまで1時間少々だった。
OfficeソフトとAdobeのIllustrator等は今のライセンスを使いまわしに出来たのでその分ソフト代が浮いた。
セッティングの1時間少々は、OfficeとAdobeのインストールとGoogleドライブとDropboxのセッティングに掛かった時間である。
5年くらい前なら、PC内のファイルを移すのが大変だったのに、クラウド時代はそういう苦労もほとんど要らない。

あと、デスクトップデザインを前のPCとそっくり同じWindows95風にしておいた。
そして先代機同様に外付けモニタに繋げて、前から使っているマウスとキーボードもそのままで、デスクトップの見た目も結局同じになった。

中身のCPUやメモリはバリバリにパワーアップしているはずなのであるが、目の前の画面の風景、手に触れるマウスやキーボードの感触は昔のままなので、まるでPCが変わっていないような錯覚に陥った。
クラウドと同期したフォルダの中身の風景もそっくり昔のまま。
使い回しのソフトのバージョンも同じだから、操作の見た目は当然以前の通り。

新型PCを箱から出して2時間足らずの間に、その新型機はすっかりこの場に馴染んで「新型感」を喪失したのだった。
それでもパソコンというのは、今なおけっこう良いお値段がするわけであるが、しかし20年くらい昔に感じた「先端テクノロジー感」がそうとう薄まってしまったなあと、なんだか思った。

まあ最先端感が無くなったからといって、パソコン本来の機能やそれをつかった仕事ぶりにはまったく関係のない話ではありますが。
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2016年04月29日

もの分かりについて

会社で上司に怒られて、「これからはちゃんとしろよ分かったか」と言われて「はい分かりました」と言う時の「分かりました」は、たぶん分かっていない。

ひとつのお約束として、今後もこの部下は同じような感じで何度も怒られるだろうからである。
本当には分かっていないから何度も同じ失敗をするということもあるし、それ以上に、怒られて「分かったか」と訊かれたら「分かりました」以外の返答が難しいということがある。

この時の「分かった」は、会話の流れ上の特に意味のない「分かった」であることを多くの上司は半ば意図的にスルーしていると考えられる。

そもそも本当に分かる、ということはかなり難しい。
いや、実を言うと、本当に分かることはものの原理として、たぶん不可能なのである。
そう思う。

ごく一般的な出来の悪い部下は、上司から「分かったか」と怒鳴られたらとりあえず何も考えずに「分かった」と応える。
少し真面目な人の場合は、「オレは本当に分かっただろうか」とやや逡巡しながらも「分かりました」と言うのだろう。
そして少し脳みその血の巡りが良い人間であれば、本当はよく分かんないけれどシチュエーション的にそう応える他はないと考えて、神妙に「分かりました」と言うに違いない。

「分かる」というのは、所詮は分かったと「感じる」ことに他ならないのである、と思う。
これはあくまでわたしの想像であるが、長年生きてきているといろいろ体験した結果が脳みその中に格納されて、さまざまな概念として記憶される。
それらの概念が組み合わさって、自分の中にものの道理がだんだん出来てくる。
もの分かりが良くなるっていうのは、あらゆるものの理解に対応出来る程に脳内にたくさんものの道理が出来ている、ということの証だろう。

したがって長年生きていると、だんだんいろんなものが分かるようになる、そういう理屈になる。
だいたいものが分からないのはけっこうなストレスである。
本当は分かっていないことも、分かったことにした方が精神衛生上もよろしい。
しかし一方で、本当にものが分かることが実はマボロシのようなことである、と分かってしまうと、それはそれで気が楽になる気がする。

あるいは科学者が宇宙の真理を追究するベースとして、そもそもすべてが分からないことについて分かっている必要があるのだと思う。

というようなことで、これからはもの分かり悪く生きる、というのをしばらくテーマにしてみようかな、と思ったりしている。

ネット通販でパソコンを注文したのを今そわそわしながら待っているのだけれど、なかなか来ないなあと思いながら、そんなことを考えてみました。おしまい。
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2016年04月28日

潜水艦受注競争

かねてから注目されていたオーストラリアの潜水艦受注競争で日本の提案が破れてフランスが受注獲得した。

アメリカの後ろ盾の元、初の大規模な「武器輸出」プロジェクトとして日本国家を挙げて取り組んでいたと聞こえていたが、何かあっけない幕切れだった。
おそらくGDP600兆円達成を掲げる現政権としても、本プロジェクトを弾みにして各国への武器輸出を軌道に乗せようと考えていたはずで、三菱・川崎両重工だけでなく現政権にも大きな衝撃であったと推測する。

今回の潜水艦プロジェクト、下馬評では4000トン級の通常動力型大型潜水艦では日本の技術は他国の追随を許さず、かつ太平洋地域の安定強化を強く望むアメリカが「日本押し」と見られて日本有利と盛んに報道されていた。

今回受注を獲得したフランスのDCNSという造船会社は、フランス政府直轄の軍需企業であるらしい。
フランスは国別に見るとアメリカ、ロシアに次ぐ世界第3位の武器輸出大国で、潜水艦以外でも軍用機なんかをたくさん輸出している。
イギリスがアルゼンチンと戦ったフォークランド紛争でも、フランス製のシュペール・エタンダール攻撃機が発射したエグゾセミサイルで数隻のイギリス軍艦が撃沈された、というのを思い出す。
アメリカがイラクに侵攻した湾岸戦争時も、イラク軍の装備はロシア製とフランス製で構成されていて、この時もエグゾセミサイルがアメリカ軍艦を沈めたと記憶している。

アメリカやイギリスが遠征先で次々遭遇するほどに、あちこちにフランス製の兵器は輸出されているわけだ。
そうやって長年にわたって武器輸出のノウハウを積み上げてきたフランスにとって、日本の提案をひっくり返すのは朝飯前だったのでは、と思える。

そしてアメリカの後ろ盾が役立たなかった件であるが、報道でも言われているように中国との綱引き、という側面があったようである。
フランスとしても水面下の働きかけを中国に行い、親中派政権が誕生していたオーストラリア政府にじわじわにじり寄っていたらしい。

さらに、日本の提案はオーストラリア政府の真のニーズを射ぬけなかったこと。
オーストラリアとしては今回のビッグプロジェクトを国内雇用のカンフル剤にしたかったのに、どうも日本の提案は、日本国内の経済効果の方ばかり向いていたということらしい。

最近の大型国際投資プロジェクトで、原発でも鉄道でも今回の件でも、どうも日本の提案が破れるケースが目立つように思うのだが、貧すれば鈍するで国内経済の余裕の無さがこちら都合の提案になっていて、相手国側のハートを射止められないという悪循環に陥っているようにも見える。
お客さんの気持ちを汲むのは日本の得意分野だったはずなのに、どういうことなのか。
ことの真相はまだよく分からないが、貧して鈍しないように気をつけよう、と思った。
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2016年04月27日

エンブレム選考

やり直しになっていたオリンピックのエンブレムが決まった。

最終的に決まったのが市松模様のA案。
他の3案がカラフルなデザインだったのにA案は藍色のモノトーンで、前審査員からはA案ありきのプレゼンとか言われていた。

この市松模様のA案、個人的にはいいと思う。
最終候補に残った他の3案はカラフルできれいだけれど、何か既視感のあるいかにもありがちなものに見える。
市松模様は少し地味だが、それなりに独自性があって街の中に飾っても風景に埋もれない。
この4案の中から東京オリンピックのアイコンとして選ぶとすれば、A案選択はかなり必然的であったように思う。

報道によると4月25日のエンブレム発表で、正式発表前に決定が漏れていたというのが問題になっている。
審査員の誰かが報道機関に漏らしたらしいが、誰が漏らしたのは分からないという。
なんというか、スタジアム問題といい今回の東京オリンピックに関してはすっきりしないことが多い。
選ばれた市松模様のエンブレムは、賛否の意見はあるだろうが結果的にはそんなに悪い決定ではないと思う。
しかし、どうもその選考過程がなにかしっくりこない感じが拭えない。

で、ちょっとエンブレムの選考方法を調べてみた。

選考のやり直しに当たって公募の結果、1万4599点の応募があったそうだ。
それを形式審査で1万666点に絞り、それを一次審査で55インチモニターに次々写してそれに審査員が投票して5票獲得したのを残す、という風に絞り込んだらしい。
一件あたり10〜15秒で3日間かかったらしい。

それをさらに311点に絞って、さらに64点にして、そこで前回よりはかなり入念な商標調査をした後、4月8日に最終候補4案の発表に至ったという。
その辺りの選考過程や応募要領、審査委員の一覧を組織委員のホームページで見ることが出来る。

この選考過程については、いろいろ意見もあるかもしれないが、しかしどこをどうすれば透明で文句のつけようがない選考になるのか、というとそれほどの妙案も浮かばない。
「出来レース」という噂がどのあたりから出てきたのかよく知らないが、この選考過程の中に出来レース的な恣意性を差し挟むのを、審査員に分からないようにやり遂げるのはかなり難しい気がする。

結局のところエンブレム選考にあたってのしっくりしない感じは、組織委員会の偉い人である会長の元総理とか、専務理事の元事務次官の顔が浮かぶことの影響が大きいと思わざるを得ない。

あくまでも個人的にそういう印象を持つということですが。
しかし五輪本番まであの面子で行くとすると、今後もいろいろ問題が出てくる気がする。

ということで、エンブレム選考に関する世間の批判は、具体的な選考方法よりも組織委員の偉い人の人相の影響が大きい気がするので、どこかの時点でもう少し人相の良い人を看板にした方がいいような気がする、と思った。
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2016年04月26日

キラキラネーム

さてまた水泳の話。
今月10日まで行われた五輪派遣選考会兼日本選手権。

北島康介が引退したり15歳の池江璃花子が日本新を出したりいろいろあった。
今回注目したいのは2人の選手、400m自由形優勝の江原騎士と200m個人メドレーで2位に入り五輪行きを決めた今井月。
「江原騎士」と書いて「エハラ ナイト」と読む。
「今井月」は「イマイ ルナ」。
いわゆるキラキラネームである。

一般的なキラキラネームについて、わたしは今まではどちらかと言えばあんまりいい印象を持っていなかった。
「当て字」というのがあんまり好きではないのだ。

書いてある漢字が読み方が分からなくて、実は当て字でしたというのには、ほんのりストレスを感じる。
それと、当て字の中にも許せるものがあるような気がして、それは、言語センスの良さを感じさせるもの。
言語センスの中身を説明するのはちょっと難しいのだけれど、やたら画数の多い漢字を無理やり使ってややアニメっぽい語感を表現するようなパターンが、わたしのイメージするセンスの悪い当て字だ。
例えば「夜露死苦=ヨロシク」的な暴走族の落書き風の、「綺」とか「羅」とかの漢字をふんだんに使ったキラキラネームとか見ると、なんだかなあと思ってしまう。

で、ネットでキラキラネームを少し検索してみると、キラキラネーム根絶派の意見もたくさん載っている。
キラキラネームが原因で解雇されたとか、学校でいじめにあって泣いて訴えて改名したとか、どこまで本当か知らないがいろいろ書いてある。
しかし極端なキラキラネーム拒絶論も、少し違う気がする。
人生には変更不可能な前提与件がある。
有利な与件も不利な与件もいったんすべて飲み込んで生きていかないといけないのが、人生というものであろう。

ところで江原騎士と今井月に話を戻す。
騎士=ナイトも月=ルナも、キラキラネーム的にはそれほど下品ではなく、しかしどことなくアニメ的な匂いを感じるのはわたしだけだろうか。
江原と今井が並の水泳選手で、なんか変わった名前ですねえ、というだけの選手であればなんとなく痛い話で終わっていた気がする。

というか、実際に江原騎士は数年前までは名前が変わっていて前半だけ無謀に飛ばす、やや痛い種類の選手だなあとわたしは密かに思っていた。(ごめんなさい)
しかし今では後半も粘れる世界レベルの選手になって五輪出場も決めた。
そうすると不思議なもので「ナイト」という名前が全然痛く感じられなくなった。
しっくり違和感なく受け止められる。

今井月選手に至っては、頭角を現す以前から名前負けしていない可愛らしさに注目していた。

そして日本選手権での決勝レース入場時の厳しい表情から一転笑顔で会場に手を振る姿は、神々しいほど美しく、おじさんはなぜか泣くほど感動してしまった。
しかも泳ぎの実力もトップレベル。
もはやキラキラとかなんとか関係ない。

ということで、本人が輝いていればキラキラネームとかは実はどうでもいい問題であるなあ、というのが今日の結論。
そういうことにしておく。
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2016年04月25日

X-2先週やっと飛んだ

先週、やっとのことで先進技術実証機X-2、俗に呼ばれるところの「心神」が初飛行した。
実機が完成してロールアウトしたのが2014年の7月。
当初は14年中に飛ぶ予定だったのが、2年近い歳月を経てやっと飛んだ。

このX-2、初飛行のニュースはどれくらい盛り上がっているのだろうか。

以前にも書いたがX-2、既存のジェット練習機T-2やT-4などから操縦席キャノピーや降着装置類を流用していることもあって、なんというか即席で製造した感が強く思えてしょうがない。
最近の戦闘機開発はものすごくお金がかかるからしょうがないところであるが。

アメリカで一足先に実用化されたステルス主力機F-22の開発費が650億ドルというからざっと6〜7兆円。
現在鋭意開発中の統合機F-35が通常空軍型、艦載型、垂直離着陸型3型式合わせて現在40兆円ほど費やしたという。
日本政府はX-2の実験結果などを検討して現主力のF-15に替わる次期戦闘機の国内開発の是非を決めるらしい。
で、次期戦闘機の開発費用見積りは今のところ8千億円程度だという記事を見た憶えがある。

実際には少なくとも2兆円、日本の航空産業が主力ジェット戦闘機を自主開発するのは初めてのことなので、5兆円程度かかっても不思議ではない。
おそらく現実的な着地点としてはアメリカとの共同開発に参画して、その時に日本独自の技術データを提供できる強みをアピールする、そのためのX-2の実証実験ということになる公算が強いと考えられる。

日本で最先端のジェット戦闘機が開発出来なかった理由は、ひとつは大出力・コンパクトなエンジン開発が難しかったことがあり、もうひとつが最大の難関だと思うが、ソフトウェア開発がある。

最近のジェット軍用機は、飛行制御、索敵・攻撃・防御、味方機や司令部からの情報リンクなど、いろんなことが全部コンピューター制御になっている。
X-2の設計は、わざと空力的に不安定化してその分機動性のポテンシャルを上げ、安定飛行はコンピューター制御によって確保する、というコンセプトらしい。
今回の飛行実験ではその辺のデータ集めも重要になることだろう。

ただソフト技術に関しては、エンジンなどのハードウェアと違って日本の苦手分野である。
ソフト大国のアメリカでも、F-35のソフト開発に難儀して何十兆円も費用が嵩んでいるのだ。
日本がソフト開発のハードルを今後クリアできるのかどうかは興味を惹かれる。

それと今後の軍用機、特に前線で戦う戦闘機や攻撃機は無人機化が急速に進むと考えられる。
X-2の開発データは無人機開発にも役立つだろう。

まあしかし、最近の軍用機開発の費用高騰はかなりなものだと思う。
今回のX-2の実験、無人機化の方向検討なども含めて、軍用機開発の総コスト低減に役立てば、それがかなり日本の防衛力に寄与するような感じがする。
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2016年04月24日

モノマネ芸

モノマネ芸というのは、江戸家猫八からコロッケ、長州小力にキンタローなどと、昔から現在に至るまで廃れずにずっとある。

だがよくよく考えてみると、モノマネがなんでエンタテイメントとして成立するのか不思議な気がする。

モノマネ芸にはおそらくいくつかのパターンがある。
大きくは、シリアスに笑い抜きで似せるパターンと、ちょっとした癖を大きくデフォルメして笑いにもって行くパターンの2つに分けられるように思う。
さらに、デフォルメパターンの方はただ単にモノマネするだけでなく、モノマネ状態でネタをすることによる二重構造の笑いを作ったりする。
二重構造の代表格はじゅんいちダビッドソンだと思うが、じゅんいちダビッドソンは冷静に見ると本田圭佑にそんなに似ているわけではない。
単純なモノマネだけだと芸として成立しない、だからコント仕立てにしている。
そしてコントの舞台設定は本田圭佑のイメージから遠いほどよい、という風になっているようだ。

じゅんいちダビッドソンの本田圭佑はそんなに似ていないが、まあぱっと見で本田圭佑のモノマネをしていることは分かる。
サングラスや白いスーツ、妙に前向きな関西弁のコメントなど、本田圭佑のアイコンがそこかしこに散りばめられているからだ。
それは、サングラスやスーツを調達してきて、いくつかセリフを覚えれば誰でも出来る、というレベルであって、モノマネ芸というほどのものではないようにも思える。

だがそれでもなお、本田圭佑のモノマネとして成立していて、細かい部分部分を見ていくとそれほど似ていないのに、全体で見るとなんとなく本田になっているのが面白い。


人間の脳ミソには「ミラーニューロン」というのがあるらしい。
ミラーニューロンは言葉や行動の学習に重要な役割を果たしたり、他人の気持ちを思いやる共感の働きを司ったりする脳の神経細胞とされている。
それは人間以外のいくつかの動物にもあるらしいが、とにかく、ミラーニューロンがあるおかげで人間は他人の仕草や口癖などをついつい真似してしまう習性があるようだ。

本物そっくりの歌マネをしたり、モノマネ芸人が何気な癖を取り出して分かりやすく誇張したりする才能は、主にはミラーニューロンの機能に起因するようである。

だがここであえて注目したいのは、芸人側の真似する能力より、真似していることを認識する観客側の能力である。
観客側は「本物」の癖や特徴などの個性を自然に識別していて、その中でも客の脳裏に特に強く定着している癖を芸人が確実にミートする、という構造があって初めてモノマネ芸は完成する。

芸人側のミラーニューロンだけでなく、客側のミラーニューロンも動員されることでモノマネ芸は成立しているのではないか、と考えるとなんだか味わい深いなあ、と少し思いました。



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2016年04月23日

経営理念について

昔からよくある企業理念や経営方針の項目に、「お客様第一」というのがある。
会社によって表現は違い、顧客指向とか顧客視点とかと言ったりもする。
それで、最近は昔ほど顧客第一主義ということを言わなくなった気がするのである。

その理由は、会社の社会性が昔より重要視されるようになったことがあると思う。
それと、日本的な平和な株式持ち合い制度がだんだん崩れてきて、株主がどんどんモノを言うようになっていること。
だから顧客ならびに社会性に気を遣う以上に、株主の意向を大事にしないといけなくなった。
さらに言うと、ブラック企業批判が表に出て来て、また今後は生産年齢人口の急激な減少で従業員にも気を遣わないと必要な労働力が確保できない。

これらのことは言ってみれば当たり前のことで、特に株式上場しているような大きな会社はそのあたりのバランスを上手く取っていかないと経営が安定しない。

逆に言うと、今から30年とか40年前の高度成長期の頃は、株主にも従業員にも社会性にもさほど気を遣わず、ただ顧客の望むものを粛々と開発・生産・販売していれば会社は成長できた、そういう時代があった。

たぶん40年くらい昔の「顧客第一主義」は、当時はそれなりに新しい語感があったような気がする。
それ以前は世の中モノ不足で、作って店頭に並べれば売れるというような時代があって、そういう状況では顧客の利益より我が社の利益を優先しても商売が出来ただろう。
そういう商売のやり方が横行する中で公害問題が起きたりして、だんだん世の中の商売のベクトルがお客さんの方に向いてきた。

そういう「新しい時代」を背負って顧客第一主義は登場したのだろう。

昨年のフォルクスワーゲンや今回の三菱自動車の不正問題は、21世紀になってなお企業の側に「顧客第一主義」の時代以前の、バレない不正は不正ではない、というような感覚が依然健在であることを示しているように思われる。

三菱自動車の経営理念にも「大切なお客様と社会のために」云々ということが謳われていたらしい。
結果として、三菱自動車において経営理念はあまり機能しなかったようである。

このような事があった後に「顧客第一主義」という言葉を聞くと、これは機能しない経営理念のシンボルのようであるなあという感じがする。

経営理念がいくらかでも機能するためには、嘘をつかないとか人の足を引っ張らないとか、人間性の基礎に関わる組織の行動習性から作っていかないといけない。
そういう気がする。
posted by ヤス at 16:40| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年04月22日

不謹慎狩り

「不謹慎狩り」なるものが話題になっている。
今回の熊本地震に際して多くの有名人がSNSにいろんな投稿を行った。
不謹慎狩りの多くは、それら投稿内容についての「不謹慎」であるようだ。
基本的に、不謹慎狩りには非常に問題が多いと考える。

不謹慎狩りの構図ってどうなのだろう。
有名人が被災者を応援する発言をしたり、寄付をするとか支援の表明を行う。
で、その時に笑顔やピースサインの自撮りが添えられていたりするとその写真に腹が立つ、ということがあるらしい。
あるいは被災地で10万人の人々が避難生活を送り、辛酸を舐めているその同じ瞬間に、テレビでアホなお笑い番組とか能天気なバラエティーとかをやっているのが許せない、というのもある。

インターネット社会の進展は名もない個人に社会的な発言の機会を作り出し、ツイッターなどのSNSで名のある人も名もない個人も思ったことをその都度発言するようになった。
不謹慎狩りは、ネット社会の進展が産み出した比較的新しい社会現象であることは間違いない。
たくさんの個人が各々思ったこと感じたことを投稿するのであるから、その中に有名人へのやっかみや嫉妬や、あんまり関係無いけれど日常生活に起因する八つ当たりとか、負の感情も含めた多くの意見が浮上してくることは避けられない。

さらに誤解を恐れずに書くならば、不謹慎を指摘する側の気持ち、ほんの少しだけであるが分からないでもない。
言ってしまえば人間の種類、思考方式の埋めがたい溝がそこにはあるように思う。
有名人の笑顔が癪に触る種類の人にとっては、SNSに出てくる笑顔は常に癪に触る。
あるいはそのような負の感情は普通の人々の心の中にも、多寡に差はあれいくらかはあると思う。

有名人の側には、自身の応援投稿がいくらかでも社会に波及してより支援の輪が広がって欲しいという真面目な思いがあるのだろう。
また日頃SNSを頻繁に利用している有名人なら、大災害発生時にこれをまったくスルーするというのもかなり勇気が要るので、なんらかのコメントをせざるを得ない。
勢い余っていくらか営業的要素が入る、ということもあるだろう。

名もなき個人の側には不謹慎狩りの基礎になる負の感情がいくらか存在し、有名人の側には災害に際して何か発信しなければならぬプレッシャーがある。
そういう状況設定の中では、これからもこの種の炎上事故は不可避であるように見える。

まあこのような事故経験が繰り返されて炎上防止のノウハウが蓄積され、ネット炎上は今後次第に制御されたものになっていくだろう。

ネット社会は情報技術で世の中をスマートにするだけでなく、人々の感情の爆発を直接各方面に拡散する。
それは側から見聞きしていてかなり疲れる。
少し希望的なことを思えば、このような感情爆発が増幅されるメカニズムが、感情の理性によるコントロールを促し、人類の精神的な進化に役に立つかもしれない、と考えられなくもないのではないか。
いずれにしても、ネット上であれリアル空間であれ、感情のままに金切声を上げるのはいかにも文化的でない。
そのあたり他山の石として自省せねばな、などと思った。
posted by ヤス at 09:30| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年04月21日

三菱自動車の不正発覚

三菱自動車で不正が問題が発覚したらしい。

軽自動車4車種の燃費データの元になる走行抵抗値を実際より低い数字で国交相に届け出していたとのこと。
で、報道によると、この影響はかなり広範にわたるようだ。

まず、該当者種を購入した顧客への燃料代差額補償が社内で協議されているらしい。
また、燃費データが変わることで減税車の区分も変わる可能性がある。
さらに販売店への補償問題。
国交相への届け出の不正なので、該当者種の販売は当面中止になる。
売れ筋の軽自動車をいきなり全面販売中止にする影響はかなり大きそうだ。

この問題は次期車種開発に当たって日産側が現行車の性能を再チェックしている中で、日産によって発見されたものだという。
今後軽自動車部門における三菱と日産の協業関係がどうなるのか。
ひょっとしたらこれを機に協業解消に向かうような気もする。

今後を占う参考のために、ネットで三菱自動車の財務内容をチラ見してみた。
2015年3月期の売上は2.1兆円、当期純益1千億円超。
総資産1.5兆円の自己資本比率が4割超の7千億円くらいある感じ。
2014年3月期も同じような良い数字だった。
2014、15年とかなり良い決算状況が2期続いた中での今回の不正であったようだ。

今回の対象車数は62万台とのことで、燃料代補償を仮に1台10万円配ったとして620億円で、この程度だと自己資本への影響は限定的と思える。

一方の販売店への補償。
該当車種は三菱、日産合わせて月販で1万台以上ありそうだ。
これが数ヶ月販売停止されると販売店はたいへん困るだろう。
三菱自動車としては、売れ筋の軽自動車の生産中止による損失に販売店、末端顧客への補償が重なって、せっかく好転していた財務内容が再び危機に陥る公算が強い。

それにしてもなぜ三菱の「不正体質」は改まっていなかったのか。
報道が本当なら、今回の不正発覚は日産との協業体制がきっかけであった。
逆に言うともし協業体制が存在しなかったら、この不正はずっとそのままで闇に葬られていたということなのだろうか。

ずいぶん前からいろんな業界でコンプライアンスとか法令遵守とか言われている。
だがコンプライアンスという言葉の語感には、なにかこう、決められた規範を粛々と守る、みたいな受身のニュアンスが感じられる。

組織の不正は往々にして内部告発によって明らかになる。
つまり個人の倫理意識が存在する限り「組織の不正体質」は安泰ではない。
企業組織の側に、より積極的な倫理規範追求の姿勢が求められるように思う。
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2016年04月20日

100m10秒の壁

今年はオリンピックイヤーなわけでいろいろな注目点があると思うのだが、陸上100mの桐生選手が10秒の壁を突破するかどうかというのもたいへん大きなポイントだ。

陸上100m競技で史上初の10秒突破は、高地で行われた1968年のメキシコオリンピックのハインズ選手だった。
で、その後平地で初めて10秒を突破したのが1983年に9.97秒を出したカール・ルイス選手。
カール・ルイス選手以前は高地で2人の選手が突破していただけで、当時は世界の陸上界全選手にとって10秒は大きな壁だった、というのは今から思えばやや意外な気がする。

10秒突破選手は、1980年代以前はのべ8人しかいなかったらしい。
それが1990年代の10年間でのべ31人が突破。
2000年からの10年間でのべ67人が突破。
さらに2010年から今年2016年までにのべ37人が突破している。
2010年代からの突破ペースがやや鈍っているように見えるが、それでも昨年2015年は12人が突破するという当たり年になっている。
12人の中には、アジア人初の中国選手も1人入っているのだ。

スポーツの世界、特に記録を競う陸上や水泳には「100mの10秒の壁」のような「壁」がいくつもある。

ただ、「記録の壁」といってももちろん物理的な壁が実際にあるわけではない。
人間が適当に決めた「1秒」という時間の単位に10進法上キリのよい「10」という数字を掛け算した時間の長さと、陸上のトップアスリートのベストタイムがたまたま交錯した時代があった、ということに過ぎないわけだ。

人間というのは、目の前に目指すべきモノがあるとついそれを目指してしまう、そういう単純な生き物であるとわたしは思っている。
陸上100m競技の10秒とか、ほかの競技における1分や15分や2時間とか、いろんなキリのよい数字が記録の壁としてある。
でもそれは、ぶつかってもなかなか突き崩せない堅固な壁である、というよりは、もう少し頑張ったらひょっとして手が届くかもしれない目標、そういう意味合いのものであるような気がする。

素人のマラソンの世界にもサブフォーとかサブスリーとかいうのがあって、3時間切り4時間切りとかいうのがひとつの目標として意識される。
3時間とか4時間は、たまたま人間が決めた時間単位上のキリがよい、というだけの本来たいして意味のない時間の長さであるが、これを区切りの目標として意識するとによって、いつもの感じだと4時間3分でしか走れない人が、最後の方いつもより余計に頑張って4時間1分になったり3時間59分になったりする。

記録の壁は越えられない壁、突き破れない壁というより、頑張るための目標、足掛かり手掛かりになる数字なのではないか、と思ったのでした。
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2016年04月19日

ラテ欄と視聴習慣

今うちにはテレビが無い。
学生時代以降大半の期間テレビの無い暮らしをしてきたのであるが、ただ断続的にテレビが存在した期間もあった。
10年くらい前に、もらいもののテレビがうちにあった。
その時は、朝や昼間の番組を観ることはほとんど無くて、もっぱら深夜の時間帯にやしきたかじんとかの番組をダラダラ観ていた記憶がある。

深夜のテレビをダラダラ観て、それも終わって日本直販の怪しげな通販番組になって、それが終わったら画面が砂嵐になってそこでやっとそろそろ寝るかな、となる。
そういうダラダラの生活は不健康だなあと思ったので、そのテレビは間も無く処分して、ふたたびテレビの無い生活に戻ったのだった。

で、今さっき思ったのだが、ああいう深夜テレビをダラダラ観る生活の遠因として、新聞の無い生活も、ひとつあるのかなと。
わたしは新聞を取らない生活もかれこれ30年ほど続けている。
新聞紙面で一番よく読まれるのは、紙面の裏側のラテ欄である、というのはよく聞く話である。
実際にわたしが子どもの時分、テレビと新聞のある生活において、わたしにとって新聞を読むことはラテ欄を見ることとほぼ同義であった。

日本のメディア業界にはクロスオーナーシップなるものが存在して、新聞とテレビは一種のもたれ合い関係にあるといってよいだろう。
その象徴的事象として、新聞ラテ欄をチェックしてその日のテレビ視聴スケジュールを固める生活習慣、というようなことがあるのではないか、と思ったのである。

テレビ視聴はその多くが「視聴習慣」、言わばリピート利用によって支えられていると想像される。
そして新聞ラテ欄は視聴習慣を補完し、うっかり視聴忘れを防ぐことをひとつの目的として存在すると考えられる。
今、新聞の購読数も昔に比べると激しく落ち込んでいるようだが、それがテレビ視聴率に与える負の影響もかなりのものだろう。
テレビ視聴率は視聴習慣を持ったリピーター需要によってその多くが作られており、視聴習慣は新聞ラテ欄によって補完・維持されてきた。
その構造が少し前から崩れて来つつあるのではないか。

逆にテレビを観ない層が増えて、それが新聞ラテ欄の需要減=新聞の需要減となって新聞購読数の減少になったということもあるだろう。

以上の想像が示唆するのは、人間の生活スタイルがいかに惰性的繰り返し習慣によって支配されているかということだろう。
テレビも新聞も、それらがある生活習慣を世間に根付かせることに成功してビジネスを大きくしたが、その習慣が崩れてビジネスの基盤が揺らいでいる。

そんなこんなで習慣の威力はけっこう大きいなあ、と思った。
posted by ヤス at 11:13| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年04月18日

モノのインターネット

「IoT」=「モノのインターネット」という言葉がある。

この「IoT」という言葉自体は、1999年に初めて使われた、わりかし歴史のある言葉らしい。
もう公募が終わったが、今年の「ものづくり補助金」にも事業類型としてIoT型が付け加えられたところを見ると、日本政府としてもそろそろ力を入れますよ、ということなのだろう。

このIoT、パソコンやスマートフォンなど、インターネットに繋がっているのが当たり前の情報通信機器以外のモノ、自動車、家電製品などの機械製品はもちろんのこと、完成品としての機械だけでなくその部品のひとつひとつ、あるいは農産物とか加工食品、その他ありとあらゆるモノをインターネットで繋いでしまおう、ということらしい。

今、ドイツではインダストリー4.0といって、製造ラインの「インターネット化」が進められている。
このインダストリー4.0、実を言うと詳しいことはよく理解できていないのだが、完成製品、部品、製造ライン、そこに携わる人員などなどにIDタグを付けて位置情報や移動経路情報を逐一把握する、ということらしい。
それらの情報は恐ろしい容量になるが、最近の爆速AIを駆使すれば有用な解析が出来るらしい。
少し理解が間違っているかもしれないが。

家電製品の好きな日本人的な理解では、IoTというのは家の施錠を外出先からスマホで管理できるとか、留守番中のペットのワンちゃんに遠隔操作で食事が出せるとか、そういうスマート家電的な世界の中で理解する向きが一般的かも知れないが、現在進行中のIoTはもっと地味でかつすごみのあるプロジェクトのようである。

世の中のあらゆるモノの状況を把握する、というのがIoTの最終目標であると思われる。
で、そのためにモノにIDを振る、個体認識する、ということが基本の土台になる。
そしてその仕組を業界やモノの種別に関係なくオープンのアーキテクチャで統合し、誰でも利用可能なものにする、というのがミソである。

ドイツのインダストリー4.0は基本、自動車製造業界とか家電製造業とかのあるひとまとまりごとのクローズドシステムであって、そこがIoTと違うところらしい。

で、こういう仕組みの中心には人間個人のアイデンティフィケーション問題が来ることになると思う。

最近話題になったアップルがテロ事件操作でアメリカ政府からのiPhoneロック解除要請を拒否したとかあったけれど、すべてをインターネットが接続する世の中では、個人のID保護は少し頑ななほどにやった方がいいのだろう、そういう点でアップルの態度は正しかったのではないかと思ったりした。
posted by ヤス at 10:44| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年04月17日

リクルートスーツ

さて、新年度の4月も半ばを過ぎた。
巷の企業では新卒の新入社員がぼちぼち職場に慣れてきたことだろう。
同時に、慣れてきて周りが見えるようになり、職場の人間関係構図も覚えてきて、また上司や先輩もお客さん扱いが抜けて来て、だんだん当たりも厳しくなってくることだろう。
ひょっとすると自社に関する悪い評判や資金繰りに奔走する社長の姿をチラ見したりして一抹の不安を感じるかもしれない。

5月病の時期を過ぎると、そろそろ決断早い組から最初の離脱が始まるに違いない。
そんなことを思いながら、まだリクルートスーツ跡を色濃く残す新社会人たちの群れを眺めたりする。
と思っていたら、今年から就活解禁が4月に後ろ倒しになったようなので、わたしが見た黒っぽいスーツの群れはひょっとすると就活生そのものだったのかもしれない。

ところで就活時期が到来するたびに、あの判で押したような「スーツの群れ」が批判の対象となる。
私生活では茶髪や金髪が当たり前でオサレな格好が好きな人も多いと思われる20歳過ぎの若者たちが、就活時期だけ黒髪に黒スーツで群れをなしているのを見るのは、正直やや不気味な印象すらある。

バブル世代で「働かないお荷物」と評判だった我々の時はどうだったかなあ。
バブル世代の時は、正式な就活をしていないわたしの記憶には残っていないけれど、あのカラスの群れのような就活生スタイルの始まりは、就職氷河期と言われていた1990年代後半に遡るのではないかと推測する。
あの頃に、企業を50社も100社も受けてやっとの思いで内定を勝ち取る、または勝ち取れず悲嘆に暮れるというパターンが形成されたのではないか。
少なくとも青田買い世代だった我々の頃には、そんな話はなかった。

企業の求人数が学生の求職数をかなり下回っていた氷河期ならともかく、若年世代の絶対数が減って再び売り手市場となった就活戦線では、学生の方が絶対有利なはずなのでは、と思うのだが。

なのにどうしてカラスの群れは無くならないのか。

これは想像であるが、数の少なくなった学生たちが就職を望む企業は実は全企業の中の数パーセントであって、その少ない本命企業に大半の学生が殺到するために学生の売り圧力が弱まらない、ということがあるのではないか。

そういう有望企業は全国・地域レベルのそれぞれにいくつか存在し、その「就職したいランキング」から漏れた大多数の企業は学生から滑り止めのスリップストッパー扱い。
で、実際に学生が就職する先はほとんどがスリップストッパーなので、5月病罹患率も自ずと高まるというもの。
こういう状況は何も良いことはない。

こういう状況を打破する一手段として、本命企業が就活生の個性をもっと評価すること、そのために横並びのリクルートスーツを減点対象にするくらいのことが必要だろう。
問題は、本命企業の中が実は個性的だと生きにくい組織構造で、むしろカラスの群れから採用する方に知らず知らず傾く傾向が強いことなのではないか。

就活スーツは紺色が良いか黒が良いか先生に質問して、無難な黒がよろしい、と言っているようでは日本の将来は底が見えている。

世の大半の本命外スリップストッパー企業は、その辺りに留意して、せめて白いカラスや赤いカラスを見つけるようにすべきではないか、と思ったりした。
posted by ヤス at 11:35| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年04月16日

全力でやることについて

熊本の地震はその後も余震が続いているようである。
昨日の夜、というか、今日の午前1時25分頃にM7.3の大規模な余震があったらしく、何百キロも離れた岡山も揺れた。
被害状況はいまだによく分からないようでかなり心配である。
ところで、こういうときに出てくるのが「自粛」論争。
被害地域周辺でいろんなイベントとかが自粛になるのはまあ仕方ないとしても、被害の及ばないところで「こういう時期だから」と、何かと自粛してしまうのはどう考えたらいいのか。
わたしは個人的にはなんでもかんでも自粛するのには反対の考えである。
救助活動とか物資輸送とかは、その道の訓練を受けた専門集団がやった方がもちろんよい。
なまじ素人がそういう専門領域にボランティアに入っても、二次被害を起こしたり足手まといになったりするのが目に見えている。
被害地域に居ない普通の市民は、平常の経済活動を継続しつつ、余録を寄付するなどのかたちで貢献する他に、あまり助けになる活動は出来ないのではないか。
華やかなエンターテイメントやスポーツイベントや、くだらないけどまあ面白いテレビのバラエティ番組なども、自粛ムードがそこはかとなく漂ってはいるけれど、予定通りやった方がいいと思う。
やめたところでイベント会社やテレビ会社などに損失が出るだけで、被災地の助けにもならない。
ところで、エンターテイメントのイベントやテレビのバラエティ番組なんかは、それなりに面白かったり感動したりするけれど、あれを作っている人たちは、何か社会的意義みたいなのを考えながらやっているのかなあ、というのを思った。
プロ野球なんかでも、経済行為としての意味はもちろんあるだろうが、お客が試合を見て感動したところで、何か物理的な成果物が生まれるわけでもない。
ディズニーランドでも吉本新喜劇でも、AKB48なんかのエンターテイメントでも、そこから形のある生産物が出て来る訳ではない。
世の中にあまたあるエンタメソフトの価値の多くは、どんな意味があるかは分からないがとりあえず全力で取り組む、というところに意味があるような気がする。
しょうもないお笑い番組でも、そこにある種の全力感があるとエンタメとして成立する、というのがあるのではないか。
地震災害に関連する自粛報道から、少しそんなことを考えた。
posted by ヤス at 14:45| Comment(0) | 徒然なるままに

全力でやることについて


熊本の地震はその後も余震が続いているようである。
昨日の夜、というか、今日の午前1時25分頃にM7.3の大規模な余震があったらしく、何百キロも離れた岡山も揺れた。
被害状況はいまだによく分からないようでかなり心配である。

ところで、こういうときに出てくるのが「自粛」論争。
被害地域周辺でいろんなイベントとかが自粛になるのはまあ仕方ないとしても、被害の及ばないところで「こういう時期だから」と、何かと自粛してしまうのはどう考えたらいいのか。

わたしは個人的にはなんでもかんでも自粛するのには反対の考えである。
救助活動とか物資輸送とかは、その道の訓練を受けた専門集団がやった方がもちろんよい。
なまじ素人がそういう専門領域にボランティアに入っても、二次被害を起こしたり足手まといになったりするのが目に見えている。

被害地域に居ない普通の市民は、平常の経済活動を継続しつつ、余録を寄付するなどのかたちで貢献する他に、あまり助けになる活動は出来ないのではないか。

華やかなエンターテイメントやスポーツイベントや、くだらないけどまあ面白いテレビのバラエティ番組なども、自粛ムードがそこはかとなく漂ってはいるけれど、予定通りやった方がいいと思う。

やめたところでイベント会社やテレビ会社などに損失が出るだけで、被災地の助けにもならない。


ところで、エンターテイメントのイベントやテレビのバラエティ番組なんかは、それなりに面白かったり感動したりするけれど、あれを作っている人たちは、何か社会的意義みたいなのを考えながらやっているのかなあ、というのを思った。

プロ野球なんかでも、経済行為としての意味はもちろんあるだろうが、お客が試合を見て感動したところで、何か物理的な成果物が生まれるわけでもない。

ディズニーランドでも吉本新喜劇でも、AKB48なんかのエンターテイメントでも、そこから形のある生産物が出て来る訳ではない。

世の中にあまたあるエンタメソフトの価値の多くは、どんな意味があるかは分からないがとりあえず全力で取り組む、というところに意味があるような気がする。
しょうもないお笑い番組でも、そこにある種の全力感があるとエンタメとして成立する、というのがあるのではないか。

地震災害に関連する自粛報道から、少しそんなことを考えた。


posted by ヤス at 14:45| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年04月15日

地震のニュース

昨日の夜9時半頃に熊本で震度7を記録する大地震があった。
現在もなお、かなり大きな余震が続いており、今後の被害拡大も懸念される。
亡くなられた方や多数の負傷者も出ているということで、たいへん心配で、お見舞い申し上げます。
実を言うとわたしはこのニュースを今朝ツイッターを見て知った。
昨日の晩も12時頃まで起きてはいたのだけれど、たまたまネットもSNSも見ることがなく、外界情報と隔絶した状態にあった。
少なくとも岡山では揺れは感じなかったこともあり、情報隔絶状態もあって10時間近くのタイムラグの後ニュースを知った。

こういう時、テレビ番組の画面の端っこに出てくるニュース速報の力を改めて感じる。

ニュース速報が各局の番組でいっせいに流れることで、この情報を一度に数千万人の人が知ったことだろう。
この数千万人が、7〜8千万人なのか、3〜4千万人か、そのあたりの感じはよく分からないが、日本の人口の4分の1位の人が地震発生を直後に知ったとして、今ではそこからさらにSNSで拡散して、普段テレビを見ない人にも情報が行き渡るようになっている。

おそらく、災害発生から半日もすれば日本中でほとんどすべての人がこのニュースを知る、というようになっている。
これって、まあ今さら驚くほどのことでもないが、災害対策としてはかなり有用なことのように思われる。
SNS等を通じて被災地の詳細情報も比較的簡単に得られるようになっているし、携帯電話会社やGoogleなどが安否確認サービスを提供したりもしている。
また阪神淡路や東日本の震災の経験からアドバイスを送る人もいるだろう。
中にはデマや間違いの情報も混ざっているだろうが、とりあえずいろんな情報が流通している状態を維持することが大事である。
間違い情報については受手側でいろんな情報を突き合わせて取捨選択する能力を磨くしかない。

とりあえず、日本中が地震発生を知っているというある種の一体感は、それだけでけっこう、被災地で心細い思いをしている人々の力になるのではないかと思う。

九州地方はあまり大きな地震被害の記憶がないのだが、火山災害が日常的にある地域で、そのために住民の避難訓練とか行政の対応準備がかなり出来ていて、その辺は不幸中の幸いだった、と今朝のラジオ番組で言っていた。

安全や平和は世の中のデフォルト状態ではない。
それは日頃からのいろんな人々の努力の積み重ねでかろうじて維持されているものなんだなあ、と思った次第です。
posted by ヤス at 11:30| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年04月14日

不倫と感染症予防

さっきYahoo!ニュースを見ていたら、『人間の一夫一婦制、理由は「真実の愛」でなく細菌』という記事があった。
人間の一夫一婦制は、社会集団全体に性感染症が広まるリスクがあったことに起因する、という研究結果が4月12日に発表されたらしい。

ここからはYahoo!の記事を見ながら、わたしの個人的想像をやや多目に混ぜた上でのお話である。
普通の動物は生涯特定の相手と添い遂げる一夫一婦制をとらない。
チンパンジーなんかでも、いろんな相手を取っ替え引っ替えする「乱婚」が普通。
あるいは、オットセイみたいに強いオスが多数のメスを囲う「一夫多妻」の形をとる。
一方で、ペンギンや鷲、狼やネズミの仲間、クモやサメの中のある種類など、動物の中の少数が生涯一夫一婦制もしくは繁殖期のみの一夫一婦制らしい。

いずれにせよ、遺伝情報の多様性を維持して環境変化への柔軟性を確保する観点からは、乱婚制にもそれなりの理がある。

しかし現在の日本社会では、生涯の連れ添いと決めた相手以外との関係は「不倫」と認定され、週刊文春やワイドショーで糾弾される。
「不倫」というからには、浮気は人の道に外れたゲドウなイケナイ行為なのであろうが、チンパンジー的視点では、相手を次々変えるのはごくごく普通のこと。

記事によると30人以下の社会集団では、一夫一婦でなくとも性感染症の拡大リスクは問題にならないらしい。
だから現在でも小さな集団の単位で作られる社会では一夫多妻制が残っているらしい。
それ以上の大きな集団では、一夫一婦制が感染症拡大防止に有効になる。

人類は、1万年くらい昔から本格的な農耕を開始し、そのころから社会集団の規模が大きくなったのだと思う。
研究結果に基づいて想像すると、このころから一夫一婦制が普及したものと考えられる。

また研究によると、特定の相手以外との「不倫」は、パートナーに対する裏切りという人間関係の問題、というよりも、社会全体の疫学的衛生維持に関する問題ということになる。

だから今後の不倫謝罪会見では、嫁への、あるいは旦那への裏切りを謝るというのではなくて、日本社会を性感染症リスクに晒してゴメンナサイ、と言うべきであろう。

Yahoo!の記事の最後の方には、「性感染症の問題が解決したとしても、将来的に結婚の形態が姿を消す、一夫多妻制が復活する、などと憶測するのは時期尚早」と書いてあるが、この部分の根拠はなんだか曖昧だと感じる。

この研究結果が本当かどうかまだ分からないが、男女の愛情とか、夫婦の契りなんていうものも、元を辿れば社会的なある種の制約が変形され、美化されたものだったと言えるのかもしれない。

いろんな意味で、愛ははかない、愛はまぼろし、だなあと思ったのでした。
posted by ヤス at 12:00| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年04月13日

日清CM炎上

日清のコマーシャルに矢口真里が出て、批判が殺到して1週間で放送中止になったという。

CMは、若者に向けて世界を変えるためにビートたけしが「いまだ、バカやろう!」と呼びかけるというもの。

このニュースを最初に聞いて、世間のクレーム体質を逆手に取った炎上商法なんだろう、と思ったのだが、どうも世間では炎上商法説は少数派であるらしい。
あるネット記事には、若者に向けたメッセージだったのにテレビをよく見る主婦層や高齢層にメインで受け止められる結果となり、そこの層がクレームを入れたのだろうという分析をしていた。

数分間にわたってこの問題をネットで調べてみたが、炎上商法説はあまり出て来ない。

日清が果たしてこの結果を予測しながら挑発的なCMをあえて流したのか、それともここまでとは思わず批判が来て驚いて放送を取り止めたのか、実際のところは分からない。
最初から炎上商法を狙っていたとしても、日清が「あれは狙ってました」とは絶対に言わないだろうから、おそらくこの先も真相は明らかにはならない。

ただCMの動画を見た個人的感想としては、矢口真里と新垣隆のパートは、かなり挑発的というか、いかにもクレームが来そうな匂いがあると感じた。
だからわたしの個人予想としては、最初から炎上による話題作りを狙っていたのではと思うのである。

この問題を評価するにあたっての分かれ道になるのは、クレームの声を上げた人々の気持ちを肯定するか否定するかという部分であろう。
一般的に企業に積極的にクレームの電話を入れたりするのは40代50代以上のおじさんおばさんの年代の人が多いとされる。
で、今回は矢口真里の不倫ネタに主婦層が気分を害してクレームが入れられたというのが大方の見方であるようだ。

不倫をネタにしてテレビで稼ぐ女性タレントを見て苦々しく思うテレビのこっち側の女性たちの気持ちは、まあ分からぬでもない。
チャンネルを変えるたびに矢口真里のドヤ顔が飛び込んで来て迷惑だから放送止めろ、という理屈は、それなりに成立するようにも思う。

最初は少し軽めの炎上商法を狙っていたのだが、世の主婦たちの本当の迷惑に気付いた日清が、それなりに本当に反省して放送を止めた、という辺りがことの真相であるような気もする。

テレビがチャレンジ出来なくなって面白くなくなった、という意見も多い訳であるが、一方で不特定多数が見るテレビのこっち側では、いろんな人が気分を害したり傷付いたりしている事実もたぶんある。
わたしは個人的にテレビを見て気持ちが傷付いたことは無いが、中には傷つく人もいるのだろう。
単純に、不特定多数が見るテレビはあまり無茶なチャレンジは出来ない、何か変なことを思いついたらユーザー層の絞られたメディアでやるべきである、ということなのかな、と思った。
posted by ヤス at 15:49| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年04月12日

サボるAI

2045年問題というのがあるらしい。
人工知能のシンギュラリティ仮説というのがあって、アメリカのコンピューター学者のレイ・カーツワイル氏によると、2045年頃にコンピューターの能力が人間の知能を超えるという。

最近は囲碁でコンピューターが人間を負かしたり、コンピューターが書いた小説が文学賞の一次審査を通る、なんてニュースが流れていた。
マイクロソフトの人工知能はツイッターでいけない思想に染まってしまうし、IT業界のみならず、自動運転の実用化に邁進する各自動車メーカーの動向なんかも伝わって来る。

この数年の人工知能関連のニュースを見ていると、2045年を待たずしてコンピューターが人知を超える日が来るのではないかと思える。

人間の脳みそには、百億だか1千億だか知らないが膨大な数の神経細胞がある。
人工知能研究は、時に人間の脳の回路を模倣し、また時にはコンピューター的なアプローチで人間の思考パターンを再現したり、いろんな角度から行われて来た。
将棋や囲碁のソフトにしても、とりあえず力技で何十手も先まで対戦をシミュレーションして最良手を探り当てるというのが昔のアプローチであったようだが、この前人間に勝った「アルファ碁」は単純に未来の手を計算しているだけではないらしい。

あまり難しいことはよく知らないのだが、アルファ碁は、盤面をある程度抽象化して認識し、そこへ「先輩の人間棋士」のこれまでの膨大な手筋のデータを当てはめる、みたいなことをやっているらしい。
要するに昔の人工知能のように生真面目に論理計算するのではなくて、学習によって身につけた囲碁の強豪たちの戦い方を適切に引っ張り出して手を打っている。
コンピューター的な地道な計算をすっ飛ばして、このパターンではこの手を打とう、というある種の勘を働かせているらしい。

コンピューターの場合記憶力は完璧なので、こういう風に来られると人間としては辛い。
対抗策としては人工知能の学習したデータベースにないまったく新しい手を創造して、彼の知的混乱を待つほかないのではないか。
そしてそんな創造的な人類はたぶんほとんどいない。

考えてみると、人間の脳みそは目で見たり耳で聴いたり感覚で捉えた外界情報を適当に端折り、必要そうなものを数パーセントだけピックアップして状況判断している。
外からの情報を全部処理するのを適当にサボっているから、脳みそはオーバーヒートしないで今日も元気に働ける。

最近の人工知能は人間の脳みそに習って適当に計算を端折ることを覚えたようで、そのおかげで難しいと言われていた囲碁での勝利も実現したようである。

2045年になって人工知能が人知を超えた暁には、やる気を出すと凄いんだけど、普段はサボり癖が抜けないダメなやつが出来上がっていたりすると、オチとしてはまあまあ面白い。
がたぶんそんなことにはならないのだろうけれど。
ということで、後29年経ってどんな人工知能が出来ているのかわたし的には楽しみなのだ。
それまで頑張って長生きしよう。
posted by ヤス at 16:16| Comment(0) | 徒然なるままに