2016年03月09日

肩書き社会

ちょっと前から脳科学者の茂木健一郎氏が、事件で逮捕された「容疑者」のことを報道等で「なんとか容疑者」と呼ぶことについて問題提起していた。
推定無罪の原則からすれば、容疑者といえど判決確定までは普通の人である。
そこにわざわざ「容疑者」と付けて報道するのは、日本社会が欧米等に比べて特に肩書きを重視するからではないか、というようなことを述べていた。

日本語には敬語があって、今喋っている相手が目上の人かどうかというようなことを微妙に判断しながら話をしないといけない。
欧米のことはよく知らないけれど、これは儒教的な思考習慣として相手の社会的立場に合わせて自分自身の立ち位置を相対化する文化、ということなのだろうか。

しかし思い出してみると、ハリウッド映画でも戦争物なんかではアメリカ人でも「軍曹!」とか「大尉!」とか呼んだりする。
欧米でも指示命令系統が明確でないといけない軍隊では、相手のことを肩書で呼ぶのだ。
一方でハリウッド映画に出てくる会社組織のシーンでは部下が上司をファーストネームで呼んだりするのが普通だ。

この辺りの温度差はなんだろう。

昔わたしは広告業界に居たのだが、そこではわりかしみんな名前で呼び合っていた。
どこかのプロダクション会社の社長を呼ぶのに「なんとかさん」と呼んでいて、「社長!」とは呼んでなかった記憶がある。
広告業界は良くも悪くも人間の個性や固有の能力が物を言う世界で、会社組織に仕事を頼むというよりはデザイナーの誰それさんに頼む、という感じが強かった。
だからあんまり肩書きが表に出ない、ということがあったかもしれない。

一方で別の業界のある会社では、会社の内規で肩書き付きで呼び合うことが決まっており、ニックネーム等の使用は慎むようになっていた。
今思うと、その会社は役職者が若くて能力不足のケースも多く、そんな状況でも組織の秩序を維持しないといけないという切実な事情があったように思う。


軍隊とか組織的に仕事をする会社の場合、肩書きの明確化とそれによる指示系統の機能維持には一定の意味があるように思われる。
しかし個人プレーで仕事をする状況では肩書きはさほどの意味を持たない。

ところが日本社会では、組織機能的な意味としての肩書きとは異なる、「群れにおける序列」としての肩書きが無意識的に重視されているようだ。

情報化社会が進展する中おそらく今後の日本でも、仕事をする上で個人の能力、責任がどんどん大きくなると思われる。
そうなった時に日本の肩書き社会に何か変化は起こるのだろうか。
というようなことをつらつら考えた。
posted by ヤス at 13:06| Comment(0) | 徒然なるままに