2016年03月05日

退屈と面倒くさい


面倒くさい、と思うことがたびたびある。
着地点の見えない仕事に手を着けるのも、家の掃除をするのも、夕方腹が減って飯食いに行くかなあと思うが外は寒かったり、いろいろと面倒くさいことは世の中に多い。

今朝もなんかめんどくせーなーよく働く小さい小人とかいねーかなーと思ったりしていた。

しかしその時、昨日の晩に、なんか退屈だなあなんか面白いことねーのかよー、と考えていたことを思い出した。

仕事とか家の掃除とか、やらねばならない用件の場合は面倒くさいと感じる。
一方でたまたま何もしていない空白の時間帯に際して、面倒くさいを感じる。

退屈を感じた瞬間に、やらねばならない用件を思い出してそれをやりたくなるようにならないもんか。
面倒くさいと思った時に、これで退屈から解放されると、多少なりとも幸せを感じられないもんか。

どうも人間の性質は、矛盾に満ちている。

例えば、何もないホテルの一室に軟禁されて、目の前に仕事道具の書類とパソコンがあった場合、わたしは退屈しのぎに、おもむろに仕事を始めるのだろうか。

退屈と面倒くさいは、これらが正面から対決した場合、どちらが勝つものなのであろうか。

現状におけるわたしの仮説は、退屈は面倒くさいに勝るだろうというものだ。
上記のホテル軟禁事例を一歩進めて、パソコンも本も、テレビもラジオもメモ紙も鉛筆も何もない留置場に入れられた場合、恐ろしく退屈だろう。

わたしの想像では、人間の脳みそは止まったら死ぬマグロのように、四六時中にわたって考え事や妄想や夢想をし続けている。
寝ているときだって夢を見ているくらいであるから、おそらく生きている間中、脳内の神経細胞上ではひっきりなしに何がしかの情報信号が飛び交っているに違いない。
脳みそは、いつでも神経細胞に与える刺激のネタを求め続けているのではないかと思うのである。

だから、脳に入力される刺激が無くなるととたんに退屈を感じる。

一方で面倒くさいのメカニズムは、これはたぶん脳みそのオーバーヒートを防止するためのものであろう。
脳みそは、常に動いていないと気が収まらないようになっているが、かといって過大な情報量が入力されると処理が追いつかない。
あるいは算数の問題を解いたりするのでも、難易度が脳みその理解力を超えると情報処理のループが途中でストップしてその問題はもうそれ以上考えられない。
そのような脳みその負荷をあらかじめ制御するのが、面倒くさいの正体であると想像する。


と、このような不毛の文章をこれ以上書き続けるのがたまらなく面倒くさく感じてきた。
まったく、人間という動物として生きるのは、面倒くさかったり退屈だったり、いろいろ大変だよなあと思った。
posted by ヤス at 15:46| Comment(0) | 徒然なるままに