2016年03月11日

小さい商売と独自性

商売において独自性は大切だ。
そんなの当たり前である。
経済学の理屈では、同じ商品、同じサービスで競争すると、最終的に価格競争になって利潤がゼロになる。
実際には、同質競争では経営効率の高い大手企業がかろうじて利益を確保し、利益の出ない小規模企業は潰れてしまう。

スーパーマーケットに行くとそれを強く感じる。
いくつかのスーパーマーケットを回っても、だいたい同じようなナショナルブランド商品が並んでいる。
自慢じゃないが最近のわたしはアイスクリームが好きだ。
明治のスーパーカップエッセルバニラという健康に悪そうなアイスをしょっちゅう買う。
これはコンビニでは定価の税込140円で売っている。
しかしスーパに行くと税込で105円とか98円とか特売で90円とかの値が付いている。

こんなに値段が違うと出数もスーパーマーケットの方が段違いに多いのかもしれない。
でもこの勝負、高くても売れるコンビニの方が明らかに勝ちだ。

最近わたしは、アイスを買うたびにスーパとコンビニのこのナショナルブランドの価格格差問題について深く考える。


話は少し変わるが、今後の社会においては、年商が1千億円とか1兆円とかの大企業が儲かる時代から、従業員数が10人とか1人とかで年商1億円とか1千万円くらいの小企業の方が儲かる、そういう時代になりつつあると考えている。

シャープの斜陽は亀山や堺への大規模投資失敗がひとつのきっかけであった。
売上が2兆円も3兆円もある企業では投資金額も巨額になる。
その回収期間も5年とか10年くらいのスパンにならざるを得ないだろう。
しかし今の世の中2年も3年も同じような一本調子で流れない。
ある日突然円高に振れたり原油が下がったりどこかの国のバブルがはじけたりいろいろする。

こういう時代では肥大化した恐竜より、クルクル小回りの効くネズミのような小動物が有利なのではないか。
大きい企業の今後の課題は、その巨体を世の中の潮流に合わせて急旋回させる能力になっている、そういう気がする。

一方で小さい企業。
これはますます独自性を突き詰めていかないといけない。

商売では同業者や異業種の成功事例を勉強して上手にマネをする、そういうコピー能力も重要だったりする。
昔なら、お手本を上手にマネして早期に商売を軌道に乗せるのが有効だったかもしれない。
でもこれからは、マネをした上に我が社の独自性をオンしないといけない。
今はラーメン屋も焼肉屋も美容院もスーパーマーケットも、だいたいの商売が供給過多の飽和状態。
そこで儲けを出すには近所の同業者との違いが鮮明でないといけない。
出来ることなら、この界隈でいちばん、日本で唯一、世界でも稀、みたいな思い切った独自性が欲しい。

小さい商売でも思い切った独自性が要るよなあ、と、明治のスーパーカップを食べながら思う今日この頃なのである。
posted by ヤス at 10:35| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月10日

占いについて

もう随分昔になるが、わたしは広告業界にいたのだが、その時の仕事のひとつに某電話会社の無料公報誌製作があった。

雑用係の一兵卒として作業に参加していたわたしに対し、回ってきた仕事は占いコーナーの原稿書きだった。
一年間くらいの間、毎月、牡牛座がやばいとか蟹座がラッキーとか適当なことを書いていた。

だから、というわけでもないのだが、現在のわたしは世の中の占い師や占い業界をやや冷めた目で見ている。
あまり大きな声では言えないが、占いに一喜一憂する世の女性たちを、血液型がAB型でどうしたとか言っている人たちを見る目がどうしても冷淡にならざるを得ないのである。

しかしあらためて考えてみると、占いを信じることのすべてが悪いとは言えない、と思う。

「山羊座の人へ、今週は努力が報われる一週間でしょう」

などと占いに書いてあって、なら今週はちょっと頑張ってみようかな、と思うのは悪くない占い利用法だ。

会社をやっているおじさん連中の中にも時々占い好きの人がいて、わざわざお金を出して今後の運勢を占ってもらったりしている、そういう社長がいたりしてやや驚いたこともある。

どこまで本気かは知らないが、「今度店を出そうと思うが、占いによると次に出す店は必ず成功するらしい」とか言ったりする。

社長業をやっている人の場合、時々大きな決断を下さねばならず、そういう決断には少なからぬ勇気が要ってストレスが大きい。
自分の気持ちを後押しし鼓舞するために占いを利用しているのだとすれば、それは占いの良い利用法だと言えるのかもしれない。

一方で、占いに責任を転嫁し主体性を投げ出すような態度があるとすれば、それはよろしくない。
今週は外出を控えるべしとか、大事な要件は来月に回しましょうなど、行動にブレーキをかける類の占い結果には従わないのが吉である、と思うのである。
占いの原稿を書く人も、そういうマイナスのことはあまり書かない方がいいと思う。
今日本国内における占いの示唆する内容が、すべて前向きに人々の背中を押す方向に変われば、世間のようすにいくらか前向きな変化があるのではないか、と思ったりする。


占いというのは、この世界の論理的予測から導かれたものではない。
占い師は、世間の動向云々は考慮せず、主に目の前のクライアントの顔色を見ながら「こういうことを言った方がいいだろう」ということを言っている、と思う。
占いの結果は、占われるその人の中に元々あるのだ。

多くの占いを信じる人は、潜在心理においてこの先の運命が定まっていて欲しい、確たる未来のようなものがあって欲しいと思っているのではないかと想像する。
しかしこの世でこれから起きることは、偶然の出来事の連続であって、確かな未来というものはどこにも無い。
そんな、世の中における足元の覚束無さは精神衛生に良くない。
だから無理やりにでも未来を見通そうと人々は占うのだろう。

なんだか不合理だけれども、自分のような占いを信じないおじさんの心の中にも、きっとそういう要素はある。
それが人間というものなのだろう。
今日のところはそういうことにしておく。

posted by ヤス at 13:02| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月09日

肩書き社会

ちょっと前から脳科学者の茂木健一郎氏が、事件で逮捕された「容疑者」のことを報道等で「なんとか容疑者」と呼ぶことについて問題提起していた。
推定無罪の原則からすれば、容疑者といえど判決確定までは普通の人である。
そこにわざわざ「容疑者」と付けて報道するのは、日本社会が欧米等に比べて特に肩書きを重視するからではないか、というようなことを述べていた。

日本語には敬語があって、今喋っている相手が目上の人かどうかというようなことを微妙に判断しながら話をしないといけない。
欧米のことはよく知らないけれど、これは儒教的な思考習慣として相手の社会的立場に合わせて自分自身の立ち位置を相対化する文化、ということなのだろうか。

しかし思い出してみると、ハリウッド映画でも戦争物なんかではアメリカ人でも「軍曹!」とか「大尉!」とか呼んだりする。
欧米でも指示命令系統が明確でないといけない軍隊では、相手のことを肩書で呼ぶのだ。
一方でハリウッド映画に出てくる会社組織のシーンでは部下が上司をファーストネームで呼んだりするのが普通だ。

この辺りの温度差はなんだろう。

昔わたしは広告業界に居たのだが、そこではわりかしみんな名前で呼び合っていた。
どこかのプロダクション会社の社長を呼ぶのに「なんとかさん」と呼んでいて、「社長!」とは呼んでなかった記憶がある。
広告業界は良くも悪くも人間の個性や固有の能力が物を言う世界で、会社組織に仕事を頼むというよりはデザイナーの誰それさんに頼む、という感じが強かった。
だからあんまり肩書きが表に出ない、ということがあったかもしれない。

一方で別の業界のある会社では、会社の内規で肩書き付きで呼び合うことが決まっており、ニックネーム等の使用は慎むようになっていた。
今思うと、その会社は役職者が若くて能力不足のケースも多く、そんな状況でも組織の秩序を維持しないといけないという切実な事情があったように思う。


軍隊とか組織的に仕事をする会社の場合、肩書きの明確化とそれによる指示系統の機能維持には一定の意味があるように思われる。
しかし個人プレーで仕事をする状況では肩書きはさほどの意味を持たない。

ところが日本社会では、組織機能的な意味としての肩書きとは異なる、「群れにおける序列」としての肩書きが無意識的に重視されているようだ。

情報化社会が進展する中おそらく今後の日本でも、仕事をする上で個人の能力、責任がどんどん大きくなると思われる。
そうなった時に日本の肩書き社会に何か変化は起こるのだろうか。
というようなことをつらつら考えた。
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2016年03月08日

フジテレビの不振

テレビ業界ではフジテレビが非常な不振であるらしい。
かつて視聴率競争ではダントツの数字を叩き出していたのに、何があったのだろうか。

そんなフジテレビの凋落原因について、ふと興味が湧いてきたので、試しにネットでその原因を検索してみた。

いろいろな記事が出てきたが、いまいちなるほどと思えるものがない。

と、その中に地デジ化に伴うチャンネル番号の話があった。
2011年に地デジ化になってチャンネル番号の割り振りが変更になった時、フジテレビは自ら進んで8番を選んだという。
このため、地デジ化前には1、3、4、6、8、10、12の5番目のチャンネル「8」だったのが、地デジ化後は1、2、3、4、5、6、7、8の中の最後の「8」になった。
このために視聴者のザッピングでなんとなくチャンネルを選ばれる機会が減って視聴率の低下に至ったという。
そしてフジテレビの視聴率崩壊が始まった時期と地デジ化のタイミングはきれいに重なっているのである。
この論についてはホリエモンも同じことを言っていた。

これが正解かどうかはよく分からない。
が、低迷原因の何割かはこのチャンネルの並びのせいのような気もする。

あとネットに出ていた不振の原因は、一部上場して冒険できなくなった、ダメな上司が面白い番組作りの阻害要因になった、などなど。
まあテレビが冒険できなくなったのは日テレもどこも似たり寄ったりであろうけれど、一方で予算も人材もないテレビ東京が独自視点の番組作りで躍進したり、東京ローカルのMXテレビが番組をオンタイムでネット配信したり、「持たざる」テレビ局の健闘が光る。


最近のニュースに、春の番組改編でフジテレビは生放送を大幅に増やす方針だという。
生放送であればテレビをオンタイムで見るための大きな動機付けになり、視聴率獲得の力になり得る、ということなのだろう。
生放送拡充の方針は、それはそれでいいのではないかと思う。

エンターテイメントの基本はやはりライブ感にあると思う。
生放送だと出演者の瞬発力が問われて、自然と番組の面白さに磨きがかかるかもしれない。


最近のエンターテイメント業界は「面白さ」の構造解析研究が進んでいて、アメリカのNetflixなどが製作するオリジナルドラマは、シナリオやカット割りなどをある種の人工知能で解析してヒットするコンテンツづくりを行っているという。

またこれもつい最近のニュースで、お笑いのM–1グランプリの結果を予測する人工知能のニュースが出ていた。
おそらく今後のテレビ業界でも、ドラマや収録番組におけるある種のパターン化がどんどん進行するのかもしれない。

そういう中でバラエティ番組でも報道番組でも、生放送による予定調和でない番組作りは、テレビの今後の生き残りの方向である気がする。

ただフジテレビの生放送拡充の大きな理由のひとつは編集コストの削減による利益確保なんだそうである。
こういうなんだか気勢を削がれる発表をしないといけないっていうのも、一部上場企業の不自由さであるなあと思った。
posted by ヤス at 11:56| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月07日

合併党名の行方

民主党と維新の党の合併にともなう新しい党名問題は、結局公募で決めることになったらしい。
募集期間は先週金曜日から昨日の日曜日までの3日間。
さっき民主党の党名募集のサイトを見たら、募集終了を告知する短い文章が出ていた。

新党名はそのために設置された党名検討チームでの検討を主体に決定するが、この作業と平行して公募で集まったネーミングも参考にする、ということらしい。
おそらくこの党名公募は一種のマーケティングリサーチであると考えられる。
要するに、新党名は世論の意向をお墨付きとしていただいたものにしたいと考えたのであろう。

新党がどうやったら国民の支持を最大限集められるのか、と苦心する思いは、まあ伝わってくる。

新党内の政策のとりまとめは予想通り難航しているようだ。
これまでの民主党内でも議員ごとに政策の方向がバラバラで、そこにさらに出戻りも含めた他党議員が参加するとあって、新党の政策軸はなかなか定まらないだろうというのが大方の見方である。

新党名に関して、一部にはキラキラネームは止めようという意見も出ているようだが、政策軸が定まらない中で理念や政策に則った重厚な名前を付けることは不可能であろう。
したがって新党名はキラキラとまでは行かないまでも、いかようにも解釈可能なふんわりとしたネーミングに落ち着く公算が強いと考える。

新党については、報道等を見る限り非常に厳しい意見が多く、自民党に対峙可能な相応の世論支持を得ることは難しそうだ。
だが現実問題として、新党が自民党に対抗する最大の野党勢力であることも間違いのない事実である。
そして自民党がもう少しまともな政党になるためにも最大野党の活性化は不可欠である。

今回新しく出来る合併政党がこのまま二大政党の一角を担うところまですんなり成熟していく、とは考えにくく、あらたな離合集散も含めてあとひと波乱もふた波乱もあるのだろう。

せめてもの願いとして、今回の新党名公募などの作業を通じて自民党に対抗しうる新しい政策軸の「発見」に繋がることを切に祈る。

posted by ヤス at 10:31| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月06日

技術の成熟と成長の余地

鹿児島県出身の競泳選手で、現在萩野公介選手と同じ東洋大学に在籍する山口観弘選手は、現在日本競泳陣で唯一の世界記録保持者だ。
もう4年ほど前の2012年の国体200m平泳ぎで、高校3年生だった山口選手は世界記録を出した。
2012年はロンドン五輪の年だったが、春先の選考会で山口選手は派遣標準記録を突破したにも関わらず、北島康介、立石諒の両選手の後塵を拝して出場を逃したばかりだった。

で、その時は山口選手が今後どれくらい記録を伸ばすのかものすごく楽しみにしていた。
ところが山口選手は国体の後記録に恵まれず、後の国内の大会でもたぶんほとんど勝っていない。

高校生くらいの若い競泳選手の場合、身体が大きくなったり技術的な成長があったりしてある時期記録がジャンプアップすることがままある。
日本の多くの競泳選手は、3歳とか4歳とか小さい頃から泳いでいる人が大半で、高校生の選手はほとんどがキャリア10年以上のベテランだ。

トップクラスのスポーツ選手はみんな目一杯の練習をしているだろう。
競技を始めた当初は5秒、10秒の単位で面白いくらいに記録が伸びただろうけれど、それがだんだん1秒、2秒になり、やがてコンマ何秒の単位になって、記録の向上がどんどん難しくなる。
20歳前後の男子選手の場合そろそろ身長の伸びも止まって、土台のところで自動的に記録を伸ばしていた要素が無くなる。
そこからさらに記録を伸ばすには、今まで鍛えていなかった部位の筋トレをやるとか、泳法動作のコンピューター解析とかこれまでにない科学的な手法を取り入れるとか、新しい「何か」が必要になるのだろう。

平泳ぎという泳法は単にパワーがあれば速く進むという単純なものではなく、推進力アップと抵抗減少の高度なバランスの上に成り立つ泳ぎ方である。
山口選手の場合も、身体の成長が止まった中で泳ぎのバランスポイントを求めて苦闘しているのかもしれない。




ところでスポーツ選手ではなくて仕事とかでも、それを始めたばかりの頃と何年もやって習熟してきた頃では、々の成長の具合がだいぶ違うだろう。
何年も続けてやっている仕事は、やり始めの頃に比べるともうあんまり成長の余地がない。
まあそれでもベテランとして一定以上の給料が貰えていると、技術の向上に対する関心がだんだん薄れてくるのが人情というものかもしれない。

しかし競泳の平泳ぎとかもう百年くらい同じような枠組みの中で競ってきて、水着やプールや泳法動作の部分で記録向上したこともあったけれど、それ以外は各選手の創意工夫によって今もコンマ1秒とかの単位で記録は伸び続けている。

そのようなスポーツ界における地道な記録向上の努力を思うと、成熟しきってある種のパターン化に陥っている仕事とか、会社全体としての仕事のやり方とか、工夫の余地がまだまだ無限にあるように思える。



ということで、世界記録保持者の山口観弘選手の苦戦の原因はわたしにはよく分からないけれど、何か突破口を見つけて近いうちに華々しく復活することを期待したい。




posted by ヤス at 15:06| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月05日

退屈と面倒くさい


面倒くさい、と思うことがたびたびある。
着地点の見えない仕事に手を着けるのも、家の掃除をするのも、夕方腹が減って飯食いに行くかなあと思うが外は寒かったり、いろいろと面倒くさいことは世の中に多い。

今朝もなんかめんどくせーなーよく働く小さい小人とかいねーかなーと思ったりしていた。

しかしその時、昨日の晩に、なんか退屈だなあなんか面白いことねーのかよー、と考えていたことを思い出した。

仕事とか家の掃除とか、やらねばならない用件の場合は面倒くさいと感じる。
一方でたまたま何もしていない空白の時間帯に際して、面倒くさいを感じる。

退屈を感じた瞬間に、やらねばならない用件を思い出してそれをやりたくなるようにならないもんか。
面倒くさいと思った時に、これで退屈から解放されると、多少なりとも幸せを感じられないもんか。

どうも人間の性質は、矛盾に満ちている。

例えば、何もないホテルの一室に軟禁されて、目の前に仕事道具の書類とパソコンがあった場合、わたしは退屈しのぎに、おもむろに仕事を始めるのだろうか。

退屈と面倒くさいは、これらが正面から対決した場合、どちらが勝つものなのであろうか。

現状におけるわたしの仮説は、退屈は面倒くさいに勝るだろうというものだ。
上記のホテル軟禁事例を一歩進めて、パソコンも本も、テレビもラジオもメモ紙も鉛筆も何もない留置場に入れられた場合、恐ろしく退屈だろう。

わたしの想像では、人間の脳みそは止まったら死ぬマグロのように、四六時中にわたって考え事や妄想や夢想をし続けている。
寝ているときだって夢を見ているくらいであるから、おそらく生きている間中、脳内の神経細胞上ではひっきりなしに何がしかの情報信号が飛び交っているに違いない。
脳みそは、いつでも神経細胞に与える刺激のネタを求め続けているのではないかと思うのである。

だから、脳に入力される刺激が無くなるととたんに退屈を感じる。

一方で面倒くさいのメカニズムは、これはたぶん脳みそのオーバーヒートを防止するためのものであろう。
脳みそは、常に動いていないと気が収まらないようになっているが、かといって過大な情報量が入力されると処理が追いつかない。
あるいは算数の問題を解いたりするのでも、難易度が脳みその理解力を超えると情報処理のループが途中でストップしてその問題はもうそれ以上考えられない。
そのような脳みその負荷をあらかじめ制御するのが、面倒くさいの正体であると想像する。


と、このような不毛の文章をこれ以上書き続けるのがたまらなく面倒くさく感じてきた。
まったく、人間という動物として生きるのは、面倒くさかったり退屈だったり、いろいろ大変だよなあと思った。
posted by ヤス at 15:46| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月04日

会社の正直3

会社というのは、商売というのは、正直にあるべきである、という仮説についてしばらく考えてみた。
ものの考え方というのはどんどん掘り下げれば、いくらでも難しく考えることが出来る。

嘘つき会社より正直な会社であった方がいいのは間違いない訳であるが、日常的に大小の嘘をつく人間によって構成され、また競争社会の中で営業的に自社の宣伝が誇大広告気味になる傾向の中では、完全に正直な会社というのはまず有り得ないだろう。


わたしはこれまで社内の構成員の一人として、あるいは外部の関係者として多くの会社がいろんな嘘をつく場面に出くわしてきた。
価格交渉の資料としてなるべく我が社の利益が小さくなるような表現方法の計算書を作ったこともあるし、クレーム処理に際してこちら側に非があったのにも関わらず具体的な釈明を「省いて」すみませんゴメンナサイの一辺倒で切り抜けたこともあった。

そういう場面を思い出すと、そこではなるべく今話していることは必ずしも嘘ではない、多少のごまかしはあるかもしれないがあからさまな嘘で相手をだましているのではない、そういう自分に対する言い訳が出来る余地について考えていたということ。

人間はとっさの嘘やごまかしをしてしまう生き物であるが、生まれながらのサイコパスでない限り、計画的な大きな嘘をついた時には相応の罪悪感を感じるものであろう。
だから嘘をつく会社の社長や社員は、この嘘は別の面からは必ずしも嘘ではないとか、あるいはこの嘘はより大きな正義のためのやむを得ぬ嘘であるとか、わりかしきちんとした言い訳を用意して精神性の崩壊を防ぐのではないだろうか。

ここまでのところを整理すると、会社というのはどうしても大小さまざまな嘘をつく性質を持っている。
だが同時に、重大な嘘については人間の良心がストッパーとなってそうそう簡単に間違いを犯さないようになっている。
そんなところであろうか。


しかし世の中には、法律の敷居をかなり大きく越えるような重大な嘘つく会社というのが時々発生する。
廃棄食品を横流ししたり、決算書をどうにも言い訳が効かないくらいに修正(これを粉飾というのだろう)して銀行から不正に融資を引き出したりする会社が後を絶たない。

考えてみると、そういう重大な嘘をつく会社はある意味追い詰められて弱った状態で、奇跡の起死回生を思い描いて嘘をついたようにも見える。
この間までトヨタと世界販売台数ナンバーワンを競っていたフォルクスワーゲンの排ガス不正の場合は、フォルクスワーゲンは業界的に最強クラスに位置していた訳であるが、その最強イメージが多分にねつ造されたものでその維持に汲々としていた、と見ることも出来るだろう。

要するに、技術を磨き業界内での競争力を維持してきちんと利益を出している限り、重大な嘘をつく必要がない。
会社がその誠実さにおいて真っ当さを維持するには、日々努力を重ねて強い会社であれば良いのである、という結論は、まったく面白味のない普通の話だがたぶんそれが真実である。
逆に今競争力の弱いフラフラ状態の会社でも、正直な状態をキープし続けていればいつか強い会社になることが出来るのではないか。

その辺をこの話の結論、ということにしておく。
posted by ヤス at 08:56| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月03日

会社の正直2

最近のネット記事で、鬱病患者と健常者の自己評価・他人評価の差異を比べると、鬱病患者の方がその差が小さい、というのがあった。
要するにそのネット記事によると、鬱病患者の方がより正確に自己を評価出来ているのだという。

また別の記事には、鬱病発症と自己評価の低さに大きな因果関係がある、とあった。

これらのことが本当だとすると、人間が健全な社会生活を送るためにはある程度自分のことを過大評価する必要があることになる。
通常世の中では、自信過剰の人間はちょっといやな奴と敬遠されたりするけれど、多少の自信過剰状態はある程度必要であるらしい。

確かに、それなりに成果を上げている人間には、自己に対する自信がそれなりにあるように見える。
あるいは、小さな成果の積み重ねが自己に対する自信を形成しているのかもしれない。

もし「自信過剰」に良い過剰と悪い過剰があるとすると、良い自信過剰は自己の潜在能力に対する自信であって、未来の自分に対する期待、というようなものである気がする。
一方で悪い自信過剰は、事実のすり替えであり、出来なかった自分に対するあまり客観性のない弁護、言い訳、というようなものではないか。


ところで、世の中の会社にも自信過剰の会社、自己評価の高い会社、というものが存在すると思われる。
会社の場合は人間の個人に比べると、より経済的な存在、という性格が濃厚であり、倒産しないために利益を確保しないといけないから周囲に対してより過剰に高い会社の評価を宣伝しがちになるのは致し方ない。

会社の中の人間がどう感じているかはともかくとして、会社というのは自分の良い面ばかりをアピールし、悪い面はなるべく表に出ないようにするものだ。

大切なのは、会社の中の人間がどこまで客観的に第三者的な視点で自社を把握できているか、ということだろう。
組織の中にすっぽり入り込んでいるとそういう視点を持つことは難しくなるだろうし、一方で複数の人間によって組織されている会社だからこそ客観的な自己評価が可能であるとも思える。


話は変わるが、最近は個人店のような小さな商売でも、「食べログ」みたいなレビューサイトや2ちゃんねるなどの掲示板サイトに有象無象の悪口を書かれてそれが気になる、という話をたまに聞く。
そういうのが嫌で自社のウェブサイトに設けていたコメント欄を閉鎖する、ということもあるようだ。

本来、お客さんの声をダイレクトに集めて経営の参考にしたいところであるのに、それらをシャットアウトするのは便利な道具をひとつ放棄していることになる。

まことに悩ましい話ではあるが、今日の情報社会に生きていくためには有象無象の悪口を跳ね返す力が要ることは間違いない。
それは、今のところ確信を持って言えないのだけれど、ある種のバカ正直ではないかという気がするのでる。

20世紀的な会社の正直と、今日における会社の正直のあり方はかなり違うような気がするのである。

長くなったので、今日はここでおしまい。
posted by ヤス at 10:07| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月02日

企業の正直について

世の中には今時めずらしいくらいに正直な会社が時々ある。

というか、本来会社は正直であるべき、であるはずである。

しかし資本主義経済は基本的に競争社会だ。
よほどの会社でない限り隣近所にライバル会社がいてしのぎを削っている。
のんびり商売をしていると、たちまちお客をとられて倒産してしまう。
だから少しでも多くの売上、多くの利益を獲得するためにいろいろ工夫しないといけない。

例えばラーメン屋なんていうのは沢山あって、ちょっとした街中には軒を並べてやっている。
そういう中で生き残るには営業や宣伝に工夫しないといけない。
ウェブサイトに載っけるラーメンの商品写真も、なるべく美味しそうに、いつもより入念に盛りつけをして撮影に臨むことになる。
ラーメンのような汁物料理は、どうしても具材が底に沈んで見えなくなる。
普通のカメラマンなら容器の底に「詰め物」を沈めて、麺や具材が良く見えるようにして撮るかもしれない。

あるいは、トンカツ屋ならキャベツの量を多目に盛ったり、弁当屋ならおかずに「みりん」を塗ってツヤ出ししたり、料理の写真が美味しそうになる工夫はいろいろあるだろう。

このような「工夫」はどこまで許されるのだろうかとたまに思うのである。

あまりに犯罪的な誇大広告は、不当表示防止法などの法律である程度規制されている。
だがそれなりに大きな騙しの要素がない限り、法律が適用されて罰せられることはない。
明らかに通常提供の商品とメニュー写真が違っていても、そのほとんどは「問題なし」と見なされる。

そうなると、集客チラシやテレビCMの商品写真は出来る範囲で最大限美味しそうにするべきだ、と考えるのが人情であろう。
この場合に会社側が留意すべきは、広告写真と実際の提供商品の落差による顧客満足度の低下であろう。

だがこれも、テレビCMなどのイメージは思い切り豪華にしてお客さんの脳みそにその印象を刻み込み、店内のメニューはやや大人し目にして満足度の低下を防ぐ、などの対策が考えられる。


いずれにしても、そこにはある種の嘘があることは否定できないだろう。
その嘘は、法規制に引っかかるほど過激なものでなく、お客さんの大半が顕在意識で明確にとらえられるほどにはっきりとしたものではないかもしれない。

また、広告戦略の意識が希薄な個人営業の店では、結果として作為のない正直な表示、もしくは実物よりずっと不味そうなメニュー写真で商売を行ったりしているケースも多いと思われる。

さらには、情報化社会の進展の中でお客さん側の情報スキルが大きく向上しており、会社の嘘がバレやすいという世の中になりつつもある。

そういう中で、企業の「正直」は今後どのようにあるべきなのか、ということについて思わず考えてしまう今日この頃である。
posted by ヤス at 10:45| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月01日

電波停止反対会見


昨日、国会での高市総務大臣の電波停止発言を受けて、田原総一朗氏らが呼びかけ人となってこれに反対意見を表明する記者会見が行われた。

世間では、この問題をどの程度深刻に受け止めているのだろうか。

昨日の会見は一時間程度の比較的短いもので、お世辞にも盛り上がっているようには見えなかった。


個人的に、高市発言は表現の自由を著しく損なうもので、本来なら大騒動になって大臣辞任になってもおかしくないレベルの問題であると思う。
だがいまのところそのような気配は微塵も無いようである。


表現の自由とは、人体に例えるなら神経系の痛覚の機能に相当すると思う。
人体は身体に不調を来したときに、痛みを感じることによってそれを知り、身体を休めるなり適切な治療をすることができる。

痛みを感じない身体では、適切な処置を行う動機が働かない。
痛覚のない人間は、ホラー映画みたいに手足がちぎれても不気味にうごめくゾンビみたいな感じになるだろう。

日本という国は、今まさに痛みを感じる機能を感じを失ってゾンビ状態になろうとしているのではないか。


日本の放送免許が多くの国と違って政府からの直接交付になっているのは、GHQからの独立時に吉田茂が将来を見越した深謀遠慮のすえ実現した策謀であったらしい。

また、日本のテレビ局が支払っている電波使用料は、営業収益の数千分の一レベルの微々たるものである。

そのような事情から、テレビ局はこの問題に正面切って批判がしにくいのはまあ分からないでもない。

ただ、メディアの社会的存在意義は権力監視にあることは、広く国民も、政府も行政機関も周知のことである。
だったら、ひとまず自分達の「不当利益」は棚に上げて、なにはともあれ高市発言に問題提起することが優先されるべきだと思うのだがどうなのだろう。


たいていの人間は毎日生きていると多少の嘘をつく。
また、東芝やフォルクスワーゲンなどの例を見るまでもなく、世の中の企業も時に大嘘をつく。
おそらく、何億という人間がいて何百万も企業があれば、少数ながらも一定割合が犯罪的な嘘をつくのだろう。

市場経済とか、国家システムとかの社会的な仕組みは、そういう犯罪的な嘘を検出して罰を与えることがひとつの役割であるように思われる。

嘘をついていると結果的には経済的損失を被る状況を実現し、世のみんなが正直を保つ動機が継続するための最低限の秩序を維持することによって、この世界が「北斗の拳」のような暴力支配に陥るのを防ぐことで、普通の人間はまず安心して生きていける。

そして今、最低限の秩序を維持していた社会の「タガ」が、カダガタ音を立てて外されようとしている。

日本の国民が、正直ものがバカを見る状態を看過するほどには愚かでないことを信じたい。
posted by ヤス at 14:41| Comment(0) | 徒然なるままに