2016年03月31日

プロダクトアウトの勝利について

もう10年以上昔だったかもしれないが、ビジネス雑誌か何かに、新型自動車の開発インタビューみたいな記事があって読んだ記憶が、なぜだかかすかに残っている。
たぶんホンダのシビックの記事だったと思う。
その内容はざっくり言うと、今度のシビックは以前と変わって徹底的に顧客の意見を反映しました、みたいな感じの記事だった。

ホンダというのは一般的なイメージの上では、顧客の想像を超えるような新しい提案をする自動車メーカー、ということになっていると思う。
何よりホンダ自身がそういう創造的イメージをキープしたいと考えているだろう。
にも関わらず、顧客に何度もアンケート調査し、出てきた要望を徹底的に反映した製品づくりをしましたというその記事を読んで、何やら違和感を感じたためにそんなどうでもいい昔の記憶が脳みそに残っているのではないかと思った。

2、3時間ほど前にその記憶がぼんやり思い出されて、はてその時のシビックはいつ頃の何代目のシビックだったか、気になって検索してみた。
たぶん2000年デビューの7代目シビックであるように思われる。
ちょうど5ドアのシビックがなかなか売れなくなってきた頃で、7代目はそんなこともあってかインパネシフトで全後席ウォークスルーを実現するなど流行のミニバン的な機能性を持たせたモデル、のようである。

7代目はカーオブザイヤーも受賞して評価は高かったようであるが、直後にデビューしたニューモデル、フィットに押されてほとんど売れなくなるという悲劇的なクルマであったらしい。


マーケットインとプロダクトアウトというマーケティング用語がある。
7代目シビックは言わばマーケットインの考え方で市場の望みを実現した、ということになるのだろう。
ウィキペディアで「プロダクトアウト/マーケットイン」の項を見ると、日本人は戦後しばらくマーケットインに精を出してきたと書いてある。
マーケットインは日本人の得意技であるらしい。

しかしモノが足りない時代には、何が欲しいですかどれが欲しいですかと聞くことが出来たが、世の中が成熟化してもう欲しいものは無いという時代には、マーケットインは旗色が悪い。
近年のアップルのように、市場が想像もしていなかったタッチ操作オンリーでボタンの無い携帯電話を売り出したりするような、プロダクトアウト的革新企業が最終勝者になりがちだ。
少なくともウィキペディア的には、プロダクトアウトの勝利は確定したかのように書いてある。

だが世間のマーケットイン思想は非常に根強い。
顧客アンケートを集めることは各業界で今も盛んに行われており、それはそれなりに意味があるように思われる。
一方でプロダクトアウトには、メーカーの都合のみによって市場が要らない製品を開発してしまう「匂い」が濃厚にある。

たぶんプロダクトアウトやマーケットインとかいう言葉の響き自体に、適切な対立概念としてのバランス上問題がある。

しかしどのみち顧客にご要望を聞くだけの製品開発ではダメだし、顧客の生活実態を無視した企業都合の製品もダメなことは間違いない。

そういうことを書いていて、特に結論は出ていないが長くなったのでとりあえず今日はおしまい。



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2016年03月30日

14nmは水分子50個分

最近パソコンの調子が悪くて、もう3、4年くらい使っているヤツなのでそろそろ買い換えどきかなと思ったりしている。
ただ、文章を打ったり軽めの表計算仕事やウェブサイトをいじったりする仕事はかなりiPadやWindowsタブレットでやるようになっていて、だからそれほど差し迫った感じもなくてズルズル来ている。
この間も某パソコンショップでなんとなく品定めしていて、オタクっぽい店員に最近のパソコンの凄さについてさんざんレクチャーしてもらった。
その時、パソコンの中身のオタクっぽい事柄についてはほとんど無知であったことを自覚し、ネットでインテルとAMDのCPU性能の違いとかなんとなく調べてみた。

うちのパソコンは一応インテルのcore i7プロセッサー搭載なんだけれど、現在店頭にもcore i7搭載機種が並んでいる。
うちのcore i7と現在のcore i7は何がどう違うのか、なんとなくネットで眺めていたらなんとなく分かったような気がしてきた。
うちのcore i7は第2世代で、最新版は第6世代まで来ているらしい。

で、ネット情報によると第2世代は「プロセスルール」が32nm。
第6世代は14nm。
プロセスルールっていうのは、これも付け焼き刃の知識であるが、CPUの回路線幅のことである。
回路線幅は、いわゆるムーアの法則の本家本元の真犯人である。

これがうちにあるのと最新版では32nmから14nmに進化したのか、と目を閉じてしばし感慨にふけった。
ちなみに「nm」はナノメートルで、1nmは10億分の1メートル、100万分の1ミリ、千分の1ミクロン。

CPUのネーミングは代わり映えしないけれど、どうも最新版の方がなんとなく凄そうだ、ということはひしひしと伝わって来る。
プロセスルールが進化した、というのは、たぶん回路焼き付けの露光装置を始め製造ラインを総取っ替えするような莫大な設備投資が行われた、ということである。たぶん。

ところで14nmとはどれくらいの細かさなのだろう。
14nmは約7万分の1mmになる。
髪の毛がおよそ0.1mmくらいらしいので、14nmは髪の毛の7千分の1の細さ。
イマイチ実感が湧かない。
ネット情報によると、水の分子直径がおおよそ0.3nmくらいらしい。
ということは14nmの幅の中に、おおよそ水分子50個入る。
というか、たった50個。
そう思うと凄い。

ちなみに未確認情報によると、回路線幅の限界は7nmと言われているらしい。
水分子換算で25個分。
この調子だと数年のうちに7nmに到達しそうだ。
というかIBMは既に昨年、試作レベルで実現しているようだ。
たぶんあと1年くらい待ったら、10nmクラスのCPUが製品化されるのではないかという気がする。
さらに待てば7nmも間違いなく出て来るのだろう。

どうせなら7nmが欲しいよなあと思うのだが、言うまでもなく回路線幅によってパソコン仕事の出来栄えにさほど影響は無い。たぶん。
それが残念なところだ。
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2016年03月29日

答の無い時代について

20世紀は「答の見えている時代」だったと思う。

その時代に必要だったのは、拡大し、効率化することであり、そうやって競争に勝つことが重要な時代だった。
国家同士の大きな戦争もあり、世紀の後半は米ソ冷戦の時代が続いた。

20世紀の先進国家の「答」は、前半は植民地経営の拡大であり、後半は植民地に代わる経済的勢力圏の獲得であったと思われる。
植民地にせよ経済的勢力圏にせよ、他所より早く多くフロンティアを獲得することが経済的繁栄の秘訣であり、経済の繁栄を軍事力に振り向けることで国家間での発言権が強化できた。

ところが今ではその「答」がどうも間違っていたかもしれない、という疑念が強くなっている。
日本の国もほんの30年くらい前までは、ただがむしゃらに効率化し、競争に勝って「答」の方角を目指していれば幸せだった時代があったと記憶している。
ところが1990年代も中盤を過ぎるあたりから、果たして「答」は目標として適切であったのか、どうもこのまま一本調子でがんばってもダメなんじゃないかという迷いが世の中に漂い始めたのではないか。

で、国家がこれまでの一本調子の競争に迷い始めて、この間に輸送と通信の技術が恐ろしく進化して、いつの間にか国境が溶け始めたのだと思う。
国境が溶けて、国の一部分がライバル国とちょっと混ざるところが出来て、下手にライバル国をやっつけたら自国の一部も怪我をする、そういう時代になった。
溶けた国境をスルー出来た企業はグローバル化し、100%アメリカのためのGoogleとか、日本のトヨタとか言うことが難しくなっている。
Googleなんかは、単純にアメリカの国力増強に資する企業とはもはや言えず、時に国家の枠を超え、利益に対して税金もちょっとしか払わない、ある意味頭の痛い存在にもなっている。

世の中の天上界がその調子なので、下々の世界にもいろいろ影響がある。
天上界の下請けをやっているような会社は、今までは何も考えずにより早く作る、より正確に作る、より安く作る、ということを追求していれば良かった。
でも最近は、世界のあっちで作る、こっちで作るというように天上界も大きく揺らいでいる。
下々はその揺らぎを検知して自己防衛する能力を持たないといくら効率がよくてもダメな世の中のになった。

おそらく、20世紀は一本調子にモノが流れる定常状態だったのが、今の世の中は流れがゆらゆら落ち着かない非定常状態なのである。
今の時代、今日の「答」は明日も正しいと限らず、というかそもそも絶対的な「答」が存在しないことを人類はやっと学習した、そういうことなのかもしれない。

そんなことを考えた。
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2016年03月28日

パレート法則の応用


パレートの法則というのがある。
百年ほど前のイタリアの経済学者のパレートさんが元ネタであるわりかし有名な法則。
パレートさんの研究によると、社会全体の富は上位2割の富裕層に集中し、下位8割の層には社会の富の2割しか配分されない、ということが分析して明らかになったらしい。

やがて経験的に、似た現象は社会のさまざまな分野で見られる、ということになってパレートの法則はポピュラーになった。

例えば英語の勉強をするのでも、頻出する単語や言い回しを上位2割だけ勉強すると、だいたい英語全体の8割マスターしたことになる。
ということになる。
あるいは人の話を聞くのでも、話の重要そうな2割だけ拾ってインプットすればだいたい話を聴いたことになる。
ということになるのだろうか。

ところでパレートの法則をもう一歩進めて、2割の中のさらに重要な2割に集中するとどうなるか。
2割掛ける2割で4%。
4%を押さえると、8割掛ける8割の64%が手に入ることになる。

さらに。
4%掛ける2割は0.8%。
ほぼ百分の1。
百のうちのひとつを押さえると、64%掛ける8割の51.2%、要するに半分が手に入る。

もしパレートの法則的な現象が成立するならば、だけれど。

さらにこれを突き詰めると、全体の3割だけ手に入れるのであれば、もっとも重要な上の方の3千分の1を押さえるだけでよい。

わたしの掛け算が合っていれば。

本屋に並んでいる新書は、一冊がだいたい12万字くらいらしい。
その3千分の1っていうと、40文字。

新書を買ってきて、その内容をもっとも重要な部分だけ40文字読むと、その本が3割理解出来る、はず。

実際にはその重要な部分を探り当てるために、結局全部読まないといけない。

またはそんな都合のよい重要な部分はその本にはないかもしれない。
だからたぶん言い換えると、その本を3割くらいの内容に圧縮するのにはせいぜい40〜50文字程度で足りる、ということになるのかもしれない。


世の中に流通する情報量は、この10年の間でも10倍くらいに増えている、という統計もある。
もう本当に、スマホやパソコンや紙の本・書類を眺める時間が長い。

でもパレートの法則が適用出来るのなら、そのような画面や紙を眺める時間は、百分の1、数千分の1に圧縮可能なのではないか。

そんなことを少し思った。

posted by ヤス at 13:35| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月27日

完全市場はむずかしい

当然のことながら、今の世の中は50年くらい昔と比べるとずいぶん違う。
立派な道路網も出来て、新幹線も飛行機もあって日本国中日帰りで行ける。
テレビやラジオや新聞、雑誌などで日本中、世界中のニュースがほとんどリアルタイムで報じられ、映像を見ることが出来る。

さらにインターネットが出てきて、電話や手紙よりぐーんと安いコストでマルチメディアなやり取りが出来るようになった。
また、今までは一方的にマスメディアからの情報を受け取るだけだった個人が、ネットを通じ世間に向けて、いろいろ言いたいことを放出するようになった。

その結果世の中に流通する情報の総量が、昔と比べると何百倍、何千倍になった。
今世紀に入ってからのYahoo!やGoogleなど検索サービスの発展は、爆発する情報量に対する適応手段として時流に乗った。(そして多くの検索サービスが淘汰された)
人々は、次々とやって来るメールやラインやFacebookやTwitterを処理するためにスマホが片時も離せない。

昔に比べて物理的な移動手段としての交通環境が数倍、数十倍の単位で進化し、情報通信手段は何百倍、何千倍の単位で進化した今日、経済の在り方も大きく変わらざるを得ない。

例えば駅前にラーメン屋を出す場合。
ラーメン屋をやるなら立地は重要だ。
昼メシ需要とか飲み屋帰りの締めとかいろいろイメージして、なるべくイメージに合った好立地でありながらなるべく家賃の安いところを探す。
ラーメン屋の利潤を最大化するためには、エアポケット的に立地が良くて家賃が割安な物件を血まなこになって探すべきである。
それは簡単なことではないし、ラーメン屋が飽和した地域では不可能かもしれないが、需要があるのにラーメン屋の「薄い」エリアを探して出店できればしめたものだ。

50年昔なら、それで10年くらいはそのまま安泰で商売が継続出来たかもしれない。
でも今なら、たちまちのうちに新たなライバルに囲まれて儲けを取られる。

というのはひとつの例え話であるけれど、今は昔と比べて事業の寿命が恐ろしく短くなっているのは事実だろう。
大規模チェーン店もたくさん出来て、そういう会社はデータが一杯あるので出店シミュレーションの精度も高い。
昔のようにエアポケットの中で、そこそこの味のラーメンでひっそりと家業を切り盛りする、というようなことが難しくなっているのは間違いない。

交通手段も通信手段もどんどん発展する世の中は、だんだん「完全市場」に近づいて行く。
完全市場ではそこそこの味のラーメンだと儲けが出ない。
時々市場に垣間見える、エアポケットのような空隙を見つけて、一時しのぎに商売することも出来るかもしれないが、それも長続きしない。

結局、世の中の一定数を納得させる実質的な値打ちのあるラーメン、それも隣近所のラーメン屋にない実質的な価値を持っているかどうか、それが必要である。
などと思った。
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2016年03月26日

ブランディング


昔から、マーケティングという「単語」がわりかし好きだ。
相対的に、営業、カタカナでいうとセールスはあまり好きではない。

なんというのか、気分としてマーケティングはセールスの上位概念であり、セールスが戦術だとするとマーケティングはこれを統御する戦略に相当するのではと思われる。

要するに、マーケティングの方がセールスより偉いのではないか、という感じがある。
というのは、とってつけた理屈で、本当は、わたしは昔から営業が苦手でその腹いせにセールスの代わりにマーケティング贔屓になったと言えなくもない。

セールスはお客さんに面と向かい、いろいろな売り口上を駆使して商品を売る。
対してマーケティングは、雑誌広告やらテレビCMやらチラシやパンフレットやさまざまなメディアに広告を展開して、いつの間にかお客さんを買う気にさせる。
そういう、あちこちに仕掛けをして最終的に売上を絡め取るパズルのような面白さがマーケティングにはある。

ところが最近、マーケティングの旗色がやや悪くなってきている。

ブランディングがのしてきているからである。
ブランドとかブランディングという概念は、わたしが仕事を始めた1990年代初頭からすでにあった。
当時の広告業界でも、ブランドというタームは頻繁に出ていたように思う。
だがそれはマーケティングやCIとかの下位概念として、ひとつのパーツとして出ていた感じ。

でも今は形勢逆転してブランディングが最上位で、マーケティングやセールスはその風下に置かれる、そういうことになっている。

中には、マーケティングの時代は終わりで、ブランディングだけに注力すべきだという意見もあったりする。

そういうことを最近ぼちぼち考えている。

確かにブランドは重要だ。
でも言うまでもなく、本当に重要なのはブランドの元になっているその企業の技術とかノウハウとか考え方であろう。
今の時代は企業の実質が問われるようになっている。
表面的な広告宣伝で少々見栄を張ったところで、SNSや週刊文春によってまもなく真相が暴かれる。

こうなると広告で見栄を張っている分に比例してその企業は大きなダメージを被る。
それは文春に狙われる有名どころだけに限ったことでなく、地方の小企業でも状況は同じだ。
かつてのように企業側が消費者に対して情報優位にあった時代は過ぎ去った。

企業は、セールスやマーケティングに力を入れていたのをブランディングに振り向けないといけなくなった。

それはイコール企業の実質が問われるということである。

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2016年03月25日

先入観

人間の精神機能にはコントロールしがたい部分がいくつかあって、そのひとつは「先入観」であると思う。
先入観の構造とかルーツって、いったいどういうものなのだろう、と少し気になる。

なぜ先入観が生まれるのか。
「羹に懲りて膾を吹く(アツモノニコリテナマスヲフク)」というけれど、痛い目にあった経験を通じて脳みその中に刷込みがされて、その過去の痛い目に似た状況で刷り込まれた記憶が蘇る、そういうことがあるのかもしれない。
痛い目だけでなくて、楽しいことや気持ちいいことも同じことだ。
また自身が痛い目に会わなくても、人から聞いた話やテレビのニュースや映画のワンシーンとかの伝聞情報によっても同様の刷込みは生まれるだろう。
そうすると、ごついベンツに乗ったサングラスにパンチパーマのお兄さんは恐い人、というような先入観が形成される。

おそらく脳みその効率化を促進するためのある種の裏ワザとして、先入観という「機能」はあるのではないかと思う。
先入観によって、ある状況に臨んだ時にあれこれ考えず条件反射的に対処することが出来る、というのがそのメリットであろう。

ところが人間の社会は複雑怪奇なので、先入観は外れることが多い。

また、先入観はある種の精神安定作用の機能を果たしているのではないか、と思う時がある。
何か、人生におけるモヤモヤしたこと、腑に落ちないことがあっても、とりあえず先入観で蓋をして腑に落ちたことにしてしまう。
男は外で働いて女は家を守るとか、血液型がBの人は変なのが多いとか、どこでどう刷り込まれたか良く分からない思い込み、先入観はいろいろあるように思われる。

あるいは科学の世界でも、例えばSTAP現象は必ず存在するというようなある種の思い込みは、真実の探求を粘り強く継続する原動力にもなるだろう。
もっとも理性的・数学的世界であるべき科学業界においても、10年も20年も研究を続けるには強烈なパッションが必要不可欠で、そのパッションの元は、科学的論理を超えた「絶対にそれはあるに違いない」という先入観だろう。

しかしあまりもその思いが強くなり過ぎて、実験で得られたデータが思い描いていたのと違っていたりして、その時に事態を安易にショートカットしてその実験データを無視するとか、改ざんして論文を書くとかいうことが時々起こる。


先入観による思考停止や事実の捻じ曲げを防ぐためには、自分の信念はしっかり持ちつつ、ただし心のどこかでこの信念はあるいは間違っているかもしれない、と冷静に考える二重性、そういうやや超人的な心得を身に付けなければいけないよなあ、などと思った。




posted by ヤス at 11:45| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月24日

集中してやる気を出す

集中するって難しい。

野生動物の世界では、ライオンやハイエナが跋扈するサバンナの真ん中で、シマウマがあんまり集中して草を食べていると突然うしろからガブリ、ということもある。
だから動物が野生の状態ではなるべく集中し過ぎないようになっている。

人間が集中するっていうのは野生動物の摂理に反する行為であって、だから難しいのであろう。
その割に、ちょっと暇つぶしに本屋にフラフラ出かけていくと、棚の一角には「やる気」がどうしたとか、モチベーションがどうたらという本が並んでいたりする。

集中するためには、まずやる気が出ないといけない。
その行為にとりあえず手をつけることが、やる気を出し、集中するためには大事なんだそうである。
なんかの本に書いてあった。

しかし手をつけるためには、手をつけるための最低限のやる気が要る。
そのために、行為を幾つかに分割して小さな単位に対して着手すると良い、などとその手の本には書いてある。

だが行為を分割したりその小さい単位に着手するにも何がしかのやる気が要る。
堂々巡りである。

結局のところ、何かをやるにはそれをやりたいと思える「何か」が要る。
それをやると脳内で報酬物質が放出されていい気分になる、要するに、やって楽しいと思えることに対してのみやる気は出るのだ、という結論になる。

で、集中力。
結論から言うと、集中するっていうのはかなり具体的な行為であると思う。
スポーツ選手でも、右足の親指の第二関節あたりの微妙な動きが手に取るように感じられるとか、野球でバットを振っている時の瞬間の手足の動きが、スローモーションみたいにハッキリイメージできるとか。

「ゾーン」とかいう言葉もある。
意味は集中とちょっと違うかもしれないが。

集中するっていうのは、スポーツの場合で言えば、手や足や関節や筋肉の身体各パーツの細かい動きが分かる、そういうイメージではないかと思えてしょうがない。
で、こまかい身体の動きを感じながらそれを自在にコントロール出来る感覚。
微妙に動きを変えてみて最良のポイントを探り当てたり、疲れて動きが乱れたら即座に修正したり。
そういうことが出来る状態が、わたしのイメージする集中の状態。

そして、そういう状態にある時は、脳みその中で何か気持ちいい物質が出ている、ような気がする。
要するに、集中すると脳みそ的に気持ち良く楽しいのである、と思う。

だから集中して楽しい状態をイメージすると、逆にやる気が出てくるのではないか、というのが今思いついたわたしの新説である。

しかも幸いなことに、人間の場合シマウマよりはかなり「集中力」に適した生活環境の中にいる。

そんなことをあんまり集中せずにぼんやり考えてみました。
おしまい。
posted by ヤス at 10:34| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月23日

年度区切りと桜の関係

このところ数日間少し冷え込んでいるが、空の様子とか、日差しの明るさとか、なんとなく春の雰囲気が感じられるようになってきた。
後楽園のほとりの旭川の河川敷も、ずらーっと提灯がぶら下がってお花見の準備が万端に整いつつある。
ただし桜の木に目を向けると、開花率0.1%くらいで今のところほぼまったく咲いていない。
東京ではぼちぼち開花が始まっているというし、時期的にもそろそろなんだろうと思うのだが、この調子だとある日一斉にパッと咲いたるするのかなと、ほんの少し楽しみにしている。

あと、もうすぐ3月も終わる。
行政の会計年度的には、4月から新しい年度が始まる。
以前からの小さな疑問として、なぜ会計年度が1月始まりでなくて4月始まりなのか、というのがある。

4月始まりの日本の会計年度は、明治時代から始まったらしい。
ネットで軽く調べてみたが、その理由はよくわからない。
意外なのはイギリスの会計年度も4月始まりであることだ。
ひょっとしたら明治の頃にイギリスに習って年度の区切りを決めたのかもしれない。

あと、アメリカの会計年度は10月始まりだが、アメリカの学校の新学期は9月始まりなのが気になる。
他にも1月始まりや7月始まりの会計年度の国があるらしい。

と思っていたら、ウィキペディアの「会計年度」の項に明治19年の会計年度を4月始まりにしたいきさつが書いてある。
細かい話は割愛するが、当時は経済情勢が不安定の上に軍事費を拡張していたこともあり、たまたま翌年度の酒造税を無理やり今年度に繰り入れるという年があって、つじつまを合わせるために次の年の会計年度を酒造税の納期に合わせた、そういうことらしい。

わたしはてっきり桜の花の鮮やかな咲きっぷり、そして潔い散りぎわみたいなのが日本人の季節の区切りの大きなシンボルになっていて、3月から4月にかけてのこの時期が年度の区切りにふさわしい、そういうことなのではないかと想像していた。
だが事実は実に味気なかったようである。(ウィキペディア情報が正しいとすれば)

各国の会計年度もけっこうバラバラであるけれど、1月始まりの国はともかく、他の月で始まる国の理由もそんなにスマートな理由ではないのかもしれない。

いずれにしても、この3月下旬から4月初旬にかけての桜の季節は、学校生活から遠く離れたおじさんにとっても、、妙に心躍る良い季節であると思う。

そういうことをわざわざ感じるようになったのが、おじさんになった証かもしれないが。
今日はおしまい。
posted by ヤス at 11:21| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月22日

アップルの製品ラインが増えることについて

今日未明、アメリカ時間では3月21日、かねての予想どおり新型のiPhone SEが発表された。
わたしは2年半前に機種変して以来iPhone5Sを使い続けている。
「6S」に変えなかったのは、6Sの価格設定が思いのほか高かったこと、そしてサイズも重量もかなり増えたことが理由である。

6Sが高価になったのは円安のせいもあるだろう。
今iPhoneのYahoo!のアプリで見たら、2年前の円ドル相場は100円ちょっと。
それが去年の6S発表時は確か120円くらいだったと記憶している。

あとサイズと重量。
ランニングの時にiPhoneをポーチに入れてGPSでコースをトレースしながら走る。
世の中ランニングブームなのでそういう人はけっこう多いと思う。
今まで110何グラムだったのがiPhone6になって140グラムを超えるとなんだか心理的な抵抗が大きい。
まあ30グラムくらい自分の体を削れよっていうことなのだが、そんなこんなで小さく軽いiPhone
には確実な需要があるものと推測される。

あと、全世界的にiPhoneの需要開拓の余白地域が無くなってきて、新しい購買層開拓のために価格帯ボトムの商品力を上げる必要があったのだろう。

まあiPhone SEの発売によって、このところ低調だったiPhone向けの部品生産がまた復調して、ひょっとしたらシャープの液晶パネル製造ラインも稼働率が上がるかもしれない。

しかしいつの間にかアップルの製品ラインナップはかなり増えた。
ジョブズがアップルに復職した直後は、製品ラインはマッキントッシュのノートとデスクトップだけだった。
それが、iPodが加わりiPhone、iPad、Apple Watchと種類が増えて売上も増えた。


話は少し変わるが、飲食店でも長くやっているとだんだんメニューが増えてくる。
お客さんの要望に応えるために、ということで新しいメニューを付け足し、やはりお客さんの要望に応えるために昔からのメニューも引き続き提供する。

店としては、本当はメニューを絞りたい。

その方が仕入れもオペレーションも楽になって儲かるだろう。
また、絞り込んだメニューの中で一品一品のクォリティに注力することで、お客さんの満足度を上げることもできるし、「オムライスの美味しい店」とか「とり釜飯が絶品の店」とかの売りになって、最終的に売上を増やすことにつながるかもしれない。

しかし目先の売上を考えると、メニューを絞るのは勇気が要る。

アップルのラインナップ増加の状況からは、そういうことを連想してしまう。

今の所マッキントッシュもiPhoneも、ライバルに比べると1製品あたりの製造量が群を抜いて多い状況は続いているので、今後もしばらくはそれなりの利益率を維持できるのかもしれない。
ただ、さらにこの先も売上拡大を続けるのなら、もう一段安いiPhoneのラインナップを加えないとダメな気がする。
田舎の小さな食堂と違って、グローバル企業であるアップルのマーケットは地球上の70億人で上限が決まっている。

ひょっとしたら、近未来のアップルは売上拡大をあきらめて利益率向上に主眼を置く、そういう時代が来るのかもしれない。
20年くらい昔の、ジョブズ放逐後のかつてのアップルみたいにiOSをクローンメーカーにライセンスするような時代が再び来るのではないか、という気がしないでもない。

いずれにせよ、製品ラインがだんだん増えていくアップルについては、ジョブズが居ないだけにやや心配である。
田舎の食堂でもグローバルの先端企業でも、増えたメニューにナタを入れるのはけっこうな勇気が要る、ということなのだろうか。
posted by ヤス at 12:44| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月21日

あえて不合理を選ぶ

このところ人間の合理性について考えている。

「理」が「合」っていると書いて「合理」という単語。
「理」というのは理屈、理論、コトワリのような意味であろうか。

理屈どおりに考えること、それも科学の世界における定理や公理のような確立した理屈に基づいてかんがえることが合理的に考えること、なのだろう。
ところが、科学的定理や公理も、とことん突き詰めるとその真実性は時として疑わしい。
現時点における定理や公理は、現時点におけるとりあえずの真理であって、したがってその限りにおいて、人間が完璧に合理的であろうと努めても、それは近似的な合理に止まらざるを得ない。

小難しいことはともかく、人間は努めて合理的であろうとしても、根っこのところでは感情的で、直感的で、多くの場合理屈をすっ飛ばして結論を出す。
そういう性でもって生きている。
それが人間というものだと思う。


話は変わる。
最近は価格.comとかアマゾンとか楽天などのショッピングサイトを見ると、商品レビューが必ず付いている。
あるいは食べログとかのレストラン検索サイトにおけるレビューは、その役割がさらに重要であるかもしれない。

ネット以前の時代には、カメラを買うのでも電子レンジを買うのでも、店頭で触ってみるとか周辺の知り合いのユーザーに尋ねるとか、購入前の情報収集手段はかなり限定的であった。
だが今日におけるネットのレビューは、商品情報の入手手段としてかなり便利である。
人気商品には膨大な書き込みがあり、使い込まないと分からないディープな情報が手元のスマホで簡単に確認出来る。
レストランでも、実際に数千円払って体験しないと分からないことが、文字や写真情報ではあるが店に入らずともそれなりに分かる。

だからカメラやレストランを選択する際に、大幅なハズレを防ぐことができる。
ネット時代というのは、何かを選択する際にハズレを防ぐ最短距離ルートがあちこちで提供されている便利な時代である。
就活などではコトはさらに深刻で、場合によっては過労死するまでこき使われるブラック企業に入ったらたまらんと情報収集にも熱が入る。

こういう時の人間は、商品やお店や就職先企業の選択判断において努めて合理的であろうとするに違いない。
そして世の中にはそのような「合理的判断」をアシストするネット情報がたくさんあるのである。

でもここで、あえて不合理に判断する、というのもアリではないか。
なんか今までの主張に矛盾するが。

あえてブラック企業で働いてみる、あえて不味いと評判のラーメン屋に入ってみる。
あるいは効果がギモンのダイエット方法に飛びついてみる。

世の中には、やってみないと分からないことが多い。
また、失敗して初めて身につくコト、というのもある。

人間は、元々が不合理な生き物であり、であるからこそ合理を追求してより多くの御利益を得ようとするが、時として不合理による御利益もあったりするのであえて意図的に不合理な選択をすることが結局合理的であったりするのではないか。


なんかいろいろ考え過ぎてよく分からなくなったので、今日はいい加減これでおしまいにする。




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2016年03月20日

宝くじの合理性

人間は不合理な生き物である。
であるからこそ数学や科学や論理学などの学問が発達したのではないかと思う。

この世を生きていくためには行動や思考が合理的であった方がいい、というのが現時点におけるのわたしの仮説である。
そして、人間は自然状態では不合理なので、論理的であるために相応の努力が要る。
人間の行動、思考を合理的に保つためのひとつの試みが数学とかの学問ではないかと考える。

で、おそらく多くの人が、小学校の算数くらいはマスターできるが、中学、高校と進むにつれてだんだん落伍していく。
今思うと、高校の数学などかなり難解複雑で、微分・積分の理解は足し算や引き算の理解より数段ハードルが高い。
その高校数学の世界は元来きっちり理屈どおりに構築されており、生徒が厳密に合理的に思考しさえすれば理解できるはずのものである。
だが実際はそれが難しい。

それはたぶん、多くの人間の脳みそが直感や霊感や妄想・夢想などの不合理な思考様式を得意とするからだろう。

突然だがここで宝くじについて考えてみる。
日本で販売されている宝くじの払い戻し率は50%以下にすることがルールとして決まっているそうだ。
そして実際の宝くじの払い戻し率は50%弱になっている。
したがって、宝くじの発売と同時にすべてのクジを買い占めた場合、必ず購入金額の半分当たる。
逆に言うと、必ず購入金額の半分は損をする。
昔読んだ何かの本に、宝くじは1ロット30億円くらいで発行されるというのを見た覚えがある。
もし宝くじを30億円分買った場合は、必ず半分当たるが半分は損をする。
半分も損をするのが最初から分かっていれば、そういう買い方をする人はいない。
それは極めて合理的な判断だ。

30億円と言わずとも、1億円分買ったとしても、確率の大数の法則が働いてほぼ100%に近い割合で50%の損失は確定だろう。
1千万円分、あるいは100万円分くらいの購入でも、多少の誤差が出るにせよ50%程度の損が出るに違いないのである。

一般に宝くじは、たくさん買えば買うほど当たる確率が近づいてくる、と思われているだろう。
だが一方で必ず50%損が出る確率の方についてはみな忘れている。
たくさん買えば買うほど、当たる確率も高まるが、損が確定する確率も高まる。
そして当たり(すなわちハズレによる損失)は、50%の確率的期待値に収束していく。

そういうことを夢も希望もなく考えていると、とても宝くじを買う気は起こるまい。
だがそれでも宝くじの売れ行きがぐんと下がったとかいう話を聞かない。
ひとまず多くの人々は、宝くじに関する限り合理思考を封印し、ひと時の夢を見ることを優先していると見える。

考えてみると、宝くじのような不合理に基づいた「商売」は他にも沢山あるだろう。
それどころか世の中の多くの商売は、人間の不合理のおかげで成り立っているのではないかとさえ思う。

その辺りのツボが分かる人になれれば、商売でヒト山当てることができるのかな。
あるいはやっぱり、あまり理屈っぽいのはだめなのかなあ、などと思った。
posted by ヤス at 16:06| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月19日

約束について

「約束」という言葉の意味には、なかなか玄妙な、厳粛な中身が含まれているように感じる。
人間はいつ頃から約束するようになったのだろう。

有名な太宰治の小説に「走れメロス」がある。
わたしはたぶん読んでいないと思う。
小説の一節が教科書に出ていた憶えがあり、だから内容をうっすら知っているのだと思う。

でも、さっき内容を思い出そうとしたが細かい設定が出てこない。
だからウィキペディアで見た。



羊飼いのメロスは、人間不信の暴君ディオニス王の暗殺を決意して城に侵入するが捕らえられる。
捕まったメロスは人を信じないのは恥ずべきだと王に訴えるが当然処刑されることになる。
3日後に妹の結婚式を控えていたメロスは親友セリヌンティウスを人質に預けることを条件に結婚式に出席することを許される。
人質の処刑期限は3日後の日没。
往路は良かったが復路にいろいろ災難があって一度は諦めかけたものの思い直してなんとか処刑場にたどり着く。
メロスは一度諦めかけたことを友人セリヌンティウスに詫び、セリヌンティウスも一度だけ、メロスは帰ってこないと疑ったことを詫びる。
それを見て暴君ディオニス王は改心する。
めでたしめでたし。

そういう話だったらしい。

我々人間は、他人を思いやったり助けたり可愛がったりする心情を持っている。
そういう人の中に元からある心情の発露と、約束の履行は、よく似ているがだいぶ違う。

約束は、どちらかというと人を縛るものだ。
約束は契約と同じであり、法律とか、世の中的な倫理ルールなども約束の範疇だろう。
言ってみれば、人間社会には約束が溢れている。

自慢じゃないが、わたしは約束を破ったことが何度もある。
幼稚園の時にナントカちゃんと将来を誓い合ったのにすぐに忘れたこと。
それに類することが他にもいくつかあったかもしれない。

世間的にはもっと重大な、約束の日時をすっぽかしたり仕事の締め切り遅れとか、そういうことの記憶もいくつもある。

さらには、来年は英語がペラペラになるぞ、とかいう自分との約束。
この類の約束も、守らなかった事例に事欠かない。

世の中には約束が溢れていて、そのいくつかについては守れないこともある。
だからこそ、約束を守る人、少なくとも守ろうと真摯に努力する人は信用され尊敬される。

「走れメロス」は、内容を再確認してみたら死ぬほど単純な話であったが、「約束」は単純であるがゆえに厳しく重いのかもしれない。

ところで、心理学の実験では何か約束するのに誓約書を交わすと、単なる口約束に比べて圧倒的に有意な効力が認められたそうだ。
考えてみるとこの世の約束は大半が姿の見えない口約束であると思われる。
だからこそ、小さな取引でも、従業員との当たり前の約束事も、契約書や誓約書を交わしておくことが良いのかもしれない。
記憶と同じで古い約束は新しい約束によって上書きされないとも限らないから。

約束は、たくさんあり過ぎるとストレスの元になるが、一方で信頼関係の元にもなり得る大事な要素だ。

だからやっぱり大切にしないといけない、と自分に言い聞かせている今日この頃である。
posted by ヤス at 11:31| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月18日

センスの良さと経歴詐称スクープ

センスのいい人は、この世に一定の割合で存在する。
「センス」と言ってもその分野はいろいろあって、ファッションとか芸術的センスとか、ダンスや音楽、お笑いのネタがイカしているとか、多岐にわたる。

人によってセンスの良さの得意不得意があると思うけれど、これらの多岐にわたるセンスの良さには、ある共通の土台があるように思われる。

センス、というのは人間の社会性に関する能力が表出したものであって、言い方を変えると空気を読む能力とかに近いのではないか、そんな気がする。
センスの良さは一人の人間の絶対的能力ではなく、一人の人間と周りの社会との関係の中で生まれるものであると思う。
それは言わば社会的動物ならではの能力であろう。

ところで、テレビに出る人、というのはその多くがセンスの良い人なのだと思う。
格好イイ人、お笑いの切れ味が鋭い人、歌の上手い人、などなどいろんな分野でセンスの良い人が集まってテレビ番組は出来ている。
そして最近主流のバラエティ番組では、全人格的にバランス良く総合的にセンスの良い人が起用されているように思う。
ブサイクだけれど面白い、格好イイけど嫌味がない、そんな、社会の空気を乱さない、番組の空気にある種の調和感を生み出すタレントが選別され生き残る。
そんな風になっている。


ところで、この間から文春スクープで何人かのタレントが告発されて事実上仕事を失う、ということが続いている。
最新版ではイケメン顔の経営コンサルタント、ショーンK氏こと川上伸一郎氏の経歴詐称疑惑が話題になった。
川上氏については、YouTube動画のある対談番組に出ていたのを見たことがある。
共演の大学教授などと比べてもよほど分かりやすく説得力のある発言をしていたと記憶している。
ただ、そういう良い印象はあの甘い低音ボイスの影響かもしれず、濃いイケメン顔や迷いのない語り口のなせる技かもしれない、という部分は否定できない。
だが、そもそもテレビタレントとはそういうものだろう。
経歴詐称は許されたことではないにせよ、文春スクープを機に川上氏の全てを否定しょうとする風潮が一部感じられてやや疑問に感じる。

心理学的には、人が話していることの説得力は実は話の内容よりも話し手の容姿、仕草、声の調子など、非言語的な要素の影響の方がよほど大きいと言われている。
そういう意味では川上氏は立派なテレビタレントであったわけで、だからこそ何本もレギュラー番組の仕事が入っていたのだろう。
それを他のコメンテーターなどが、簡単なことを難しくいう人だと前から思っていたとか、水に落ちた犬を叩くような仕打ちはちょっと違うのではと感じる。

で、仕事をあらかた失ったという川上氏であるが、テレビ主要各局が全滅でも、テレ東の深夜番組とか、東京エムエックスとか、あるいはニコ動などのややアンダーグラウンド的方向を開拓するとか今後の対策はいくらでもある。

人間一回落ちぶれた後、虚飾をかなぐり捨てて思わぬ復活を遂げるかどうか、そこで本当のセンスの良さが問われるのではないか、と思ったりした。





posted by ヤス at 11:42| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月17日

作戦は単純な方がいい

第二次世界大戦の末期、欧州西部戦線。
1944年6月6日に行われた「史上最大の作戦」ノルマンディー上陸作戦の3ヶ月後。

アメリカ・イギリスを中心とする連合国軍は、クリスマスまでに戦争を終わらせることを目標に、今度は史上最大の空挺作戦を実施する。
「遠すぎた橋」という邦題の映画にもなった、「マーケット・ガーデン作戦」である。
この作戦は、進軍の障害になる河川が多いオランダを迅速に突破することと、同時にオランダの大規模港湾施設をドイツ軍から奪還して伸びきった兵站線を修復することを目的に企図され実施された。

英米の精鋭空挺部隊は3つに分けられ、敵中の3地域に降下してそれぞれ主要橋梁を確保する。
それに呼応して戦車機甲師団を中核にする地上部隊が進撃、1日目に一つ目の降下地域に到達して進撃路となる橋梁を完全確保、2日目に二つ目の降下地域、4日目までに三つ目に到達して作戦は見事成功、するはずだった。

しかし連合国軍内では、戦争終結を焦る上層部が偵察情報を黙殺するなど防衛側ドイツ軍勢力を過小評価、これに天候悪化や進撃路の渋滞、無線機の不具合による通信途絶などなどが重なり、予定の4日を過ぎても第3降下地域は敵中に孤立したまま。
結局9日目に、地上軍が第3地域に到達できないまま、多くの死傷者・捕虜を出しながら計画は中止される。

映画「遠すぎた橋」では、ショーン・コネリーやロバート・レッドフォードの熱演により苦戦続きの作戦経過が描写され、非常に面白い。

作戦は当初目標が未達に終わったわけだ。
失敗の原因は、空挺降下を3地域に分けてそれをひとつの地上部隊で順次確保していく、という作戦の複雑さにあったことは間違いない。
作戦が複雑すぎて失敗するのは旧日本帝国軍の専売特許かと思っていたが、英米軍でも同じ過ちをするものらしい。

命のやり取りをする戦場では、恐怖や焦りなど極度の精神ストレスが作用して作戦指揮の判断も曇りがちになる。
特に銃砲弾が飛び交う前線ではいかにまともな判断力を保てるかがとても重要だ。
そういう判断力の低下、情報掌握の困難を見越して、軍事作戦はできるだけ単純であることが求められる。

これは現代社会における企業活動にも通じる話だ。
作戦はなるべく単純であるほうがいい。
そして前線の兵士は、作戦全体の行方に気をとられることなく、目の前の敵との戦闘に没入した方がその軍は強くなる。
前線の兵士はあまりあれこれ考えたらダメなのだ。
目の前の戦いをシンプルに戦う。

そういう状況を作り出すのが作戦指揮の役割だ。

状況が複雑に錯綜する戦場だからこそ、単純さが力を発揮するのだよなあ、と突然ながら思った。
posted by ヤス at 11:43| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月16日

花粉症の季節に思う

どうも世の中では花粉が飛んでたいへんらしい。
らしい、などと他人事で言えるのも、わたしが花粉症ではないからだ。
いやほんとに、こんなに季節のいい春先のシーズンをクシャミや鼻水と戦って過ごす人々には心底同情する。

花粉症はアレルギー疾患のひとつだ。
さっきネットのあるページで、アレルギー疾患の発症は乳幼児期の衛生環境が「清潔過ぎる」ことが原因らしい、という記事があった。

衛生仮説というのだそうだ。

なるほどそれでオレは花粉症にならなかったのか、と少し納得した。
わたしもいつか周辺の何人かと同様に、ある日突然花粉症が発症するのでは、というわずかな恐怖があったのであるが、なんか心配していて損した。

まあその衛生仮説なるものが本当かどうかよく分からないが。

ところでこの花粉症、おそらく日本の山林政策の方針で戦後に大量の杉植林が行われたことが原因の土台にあることはたぶん間違いない。
とすると、花粉症の人たちは日本国政府を相手に治療費や慰謝料請求の訴訟を起こしてもいいような気がする。
集団訴訟で原告参加を募ったら、あっという間に1千万人くらい集まるのではないか。

そもそも大量の杉植林が始まった背景は、戦時中には軍需物資として大量の木材が伐採され、戦後は復興のために伐採された。
それで急速に山が荒れて、慌てて杉を植えていったものらしい。
その時にもとはブナやナラなどの広葉樹林だったところも伐採して杉を植えた。
それでいつの間にか日本国中が杉だらけになり、多くの人がクシャミや鼻水や涙目で苦しむことになった。

だから今の花粉症問題は、元はと言えば70年前の戦争が原因と言える。(のではないか)
さらには、戦後の植林政策が杉の成長期間とかの簡単な計算を無視してデタラメに行われたこと。
植えた杉が伐採適齢期になる頃には既に復興需要は終わっていて、しかも良質な輸入材が建築資材の主流になっていて、かつて植林された杉はただ毎年春先に花粉を飛ばすために存在するようになった。

山の生態系のリズムは本来100年スパンくらいのゆっくりしたものであったのに、何を思ったか日本の山林行政は、10年スパンくらいの感覚で山を耕しに大々的に介入した。
それで日本の山林の自律的な回復サイクルを破壊した。
これは、日本の行政がバカだったということもあるが、まあ時代の空気が経済一辺倒、効率一辺倒のそういう時代だったのだということも出来るだろう。

日本もそろそろ100年後どうするか、そのために今何をすべきか、というような感覚を取り戻すべき時期なのでは、と花粉症の季節を迎えて思ったりした。

posted by ヤス at 15:07| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月15日

制約条件とクリエイティブ

大学時代のわたしの友人にファッション好きの男がいた。
そいつは広島のファッションビル、ウィズワンダーランドのバーゲンの日には、バイトで稼いだ10万円くらいを握りしめて買い物に行っていた。
彼の格好は時に奇抜で、しばしばぶっ飛んでおり、変わったやつだなあと思って見ていた。
1980年代後半の話だ。

わたしは昔からおじさんなので、ファッションの流行とかはよく分からない。
もとい、おじさんでも流行に敏感な人はいる。たぶん。

ファッションの世界には今年の流行色とか流行のカタチみたいなのがあって、特に若い女性のみなさんは熱心にそれを追いかけたりする。
まあ、熱心には追いかけない若い女性もいるだろう。
そこそこ適当に、ぼちぼち流行について行く人も多いのかもしれない。

さて、ファッションの世界における流行についてふと思いついたことがあったので書いてみる。

ファッションとは大喜利のようなものなのではないか。
「今年の流行」は、ファッションブランドの会社やファッション雑誌とかのメディアが主導して作られる、というような話をよく聞く。
そういう面もあるのだろうし、マーケットサイドで自然発生的に出現する流行もあるのだろう。
とりあえず、意図的にせよ自然発生的にせよ「今年の流行」が、色とかカタチとか「コーデ」とか随時マーケットに提出される。

ファッション好きの人たちは、そういう情報をキャッチして自分の中に取り入れる。
この場合、「流行」は一種の制約条件になる。
なんでもありのファッションではなくて、「流行」というお題が与えられて、そのお題を自分なりにアレンジして、流行を取り入れつつ自分なりのオリジナルを表現した洋服やヘアスタイルや化粧を工夫する。

これってそのまま大喜利だな、とおじさんは思った。
そして、なるほどそういうことならファッションで流行を追いかけるのもけっこう面白いかもしれない、と思ったりした。
冒頭の奇抜な彼も、そういうことでクリエイティブなファッションの楽しみを楽しんでいたのかもしれない。

あるいは、ファッションの深奥にはもっと違う何かがあるのだろうか。
大喜利と一緒なんてとんでもねえよ、と思う人もいるかもしれない。
まあたまたま個人的に思ったから書いてみたまでだ。

しかし、クリエイティブには制約条件があった方が良い、というのは何か真実に近い気がする。
「あった方が良い」というより、「無ければ成立しない」のではないか。

色もカタチもコンセプトも、すべての要素が全部自由で制約なしにファッションをデザインする場合を考えると、これではアイデアが発散してまとまらない。
クリエイティブにおいては、実は制約条件こそがアイデアの「材料」なのだろう。

お金がないとか、容姿がややバランスを失っているとか、脳みそのめぐりがイマイチとか、人間はいつか死ぬとか、人生における諸問題はいろいろあるが、それらの制約条件はすべてクリエイティブの材料なのではないか。

今日はなんだか深イイ話が書けたんじゃないか。
などと思う今日この頃であった。
posted by ヤス at 10:26| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月14日

五輪選考方式

名古屋ウィメンズマラソンが終わって女子マラソンの五輪代表はほぼ決着したと思われる。
記録が低調な男子の方は、3枠が2枠になってしまうのか、青山学院大の若い選手はやっぱり選ばれないのか、こっちの方はよく分からない。

マラソンの代表選びのゴタゴタは、もう4年に一度の風物詩みたいになっている。
世の中の世論的には、一発選考論が主流なのかもしれない。

競泳の選考も以前は選考基準が曖昧で、千葉すず選手と古橋廣之進会長の確執とかもあった。
競泳はその後選考基準を極度に明確化し、選考会である日本選手権で派遣標準記録を突破して2位以内か、世界選手権での金メダルというのが現在の基準であったと記憶している。
この選考基準では機械的に選考が完結する。
水泳連盟の偉いさんの恣意性の入り様が無く、その点で世間の批判を浴びる心配も無い。

ただし、欠点もある。
派遣標準記録を突破できないと、選考会で優勝しても五輪に行けない。
五輪には各国各種目2枠与えられている。
水連さえその気になれば派遣標準に届いていない選手でも選ぶことは出来る。
でも今のところバッサリ切り捨てている。

競泳の選考方式の良い点は、選手が積極的に記録を狙うようになったことだ。
今の競泳選手は昔に比べると前半から積極的に飛ばしているように見える。
そのせいかどうか、今の競泳陣は世界の強豪国のひとつに数えられるほど強くなった。
ただ、特に若い選手は記録が届かなくても選んでいいのではないかと思う。
鈴木大地も北島康介も高校で最初の五輪に出て、次の大会で金メダルを取った。
バルセロナ五輪当時中学生の岩崎恭子は、選考会から本番までの間にみるみる記録を伸ばして金メダルを取った。

さて、マラソンの選考である。
わたしのアイデアは、ポイント制の導入である。
過去の実績とか、暑さに強いとか、選考レースだけでは必ずしも判別が難しい要素などは、ポイント制である程度解消出来ると思う。
過去の3年くらいの世界大会の勝率や順位をその時のレースコンディションなども加味して点数化する。
選考レースも今の複数方式を維持して、タイム、順位、優勝記録などレース全体のレベル、コンディションなどをパラメーターとする点数化を行う。
その際に選手の将来性の加点として、年齢やレース経験なども加味出来るとなお良い。
それで最終的なポイントの上位3人を選んだらどうだろう。

点数化のパラメーターと計算方式は事前に公開して、選手はそれを見て選考レースに臨む戦略を練る。

選手選考に陸連委員の恣意性を入れた方がいいのか入れない方がいいのかは難しい問題だ。
だがどうも今の陸連は世論からも選手・コーチからもあまり信用されていないようでもある。
こういう場合は恣意性を排して機械的な選考方式にした方が良いような気がするのである。
ポイントの計算方式については、過去の事例を当てはめていろいろシミュレーションすれば今の時代あっという間にそれなりの精度のものが出来上がると思うのだが。

まあ選考方式も大事だけれど、陸上も水泳もなるべく若い選手にチャンスを与える方向で今後考えて欲しい、と思うのである。
posted by ヤス at 10:57| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月13日

原因と結果、目的と手段

日本食は健康に良い。
世界的にそのような評判が立って世界中に和食レストランが出来ている。

日本人は体質的に脂肪を貯め込む能力が欧米人あたりと比べると低いらしい。
要するに、欧米人は食べ過ぎた分はお腹とかお尻とか身体中に脂肪として貯まる。
一方の日本人は食べ過ぎると糖尿病になる。
高糖質食によって欧米人は肥満になり、日本人は糖尿病になる。
糖尿病は、糖質の摂り過ぎで血糖値のコントロールがおかしくなる病気であるらしいが、日本人は農耕の歴史が欧米より浅いので、高糖質食への体質の対応が出来ていないという。

日本人は伝統的に米ばっかり食っている印象があるが、日本人が農耕民族化したのはつい3〜4千年前。
ヨーロッパの農耕化は1万年以上の歴史があって、その時間差が高糖質食への遺伝的対応の差になっているという。

したがって、日本食が健康に良いから日本人が肥満が少ない、というよりは、日本人が糖尿病になりやすいので日本食が健康に良い内容に洗練されたと考える方が真実に近い、らしい。

このように、原因と結果はどっちが先か後か、見方によって変わる。


今、1億総活躍何とか、という政策パッケージが構想中である。
政策の中身についての批判はここではやらない。
それよりも基本的な考え方。

日本の人口は、2050年頃に1億人を切り、2100年頃に5000万人を切るレベルまで減少することが予想されている。
ここまで減少するとGDPは当然マイナス成長が基調になる。
GDPが縮小傾向では、とりあえず1千兆円の政府債務の着地点が破滅的にならざるを得ない。
破滅的シナリオを回避するには、人口減少をなんとか食い止めないと財務官僚もどうやっても絵を描けない。

だから1億人を死守する。
そういう「切実」な思いが「総活躍」構想には透けて見える。

この場合、「国民」は目的ではなく手段である。
国民の人数1億人を維持しないと日本国政府の未来図が描けない。
だから日本国民に頑張ってもらって1億人を維持する。
ついでに一人当たりの生産量を少し拡大してGDPの成長を維持するとソロバンが合う。

本来、国家や政府というのは国民の幸福を実現するために存在するのだとわたしは思う。
国民が目的で政府の方が手段。

でも今は、政府の目的を達成するために、国民が手段になっている。
まあ状況はアメリカでもヨーロッパでも中国でも同じようなものかもしれないが。

そこへいくと北欧のいくつかの国は、税金はものすごく高いけれど、政府は国民の福祉に責任を持ち、国民はそんな政府をそれなりに信頼している。
そういう現代国家としてのひとつの回答みたいなものを具現化している。
ただその北欧でも、移民に対する差別とか、いろいろとややこしい問題に事欠かないらしい。


話の筋立てが迷走している。

近未来の日本の人口はたぶん減って、1千兆円の政府債務は主要な債権者である国民との間で、いつの日か激烈なガラガラポンで解決しないといけなくなると予想する。
でもその後の日本は、今以上に暮らしやすい、良い環境になっているようなそんな気がする。

日本人が糖尿病に脆弱なために日本食は健康的な食事になった。
この先さらに日本食の健康度が向上すれば、原因と結果が入れ代わる。

そんなことをぼんやり考えていたが、うまくオチがつかないのでこの辺でおしまいにする。
posted by ヤス at 11:40| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年03月12日

チェーン店の今後

昨日コンビニとスーパーマーケットの話を書いていて、これから「チェーン店」はどうなるのだろう、とふと思った。

20世紀はチェーン店の時代だった。

「だった」と書いたがチェーン店は今もたくさんある。
少し以前に統計データを見た記憶では、現在も店舗ビジネスのチェーン化の流れは進行中だった。
要するに、食べ物屋さんでも小売店でも、1店舗だけでやっているような小規模な店が減って、代わりに大手企業のチェーン店が増えている。

チェーン店のメリットは効率化にある。
仕入れも一本化して大量に安く買う。
商品開発を本部が担当し、同一の商品をたくさん売ることで開発コストの効率も上がる。
人の採用も大手企業のイメージで有利になり、教育訓練や店ごとの人の過不足も、多店舗を上手に回せば効率化できる。

営業上も、一定のブランドのイメージを確立し、潤沢な広告予算で知名度を上げることで、お客さんが店に入りやすくなる。

ところが21世紀に入った頃から、世の中のチェーン化の流れが少しずつ変わり始めたようである。
まずGMSと呼ばれる業態のダイエーが潰れた。
20世紀の終わり頃からチェーン店のトレンドは専門店化になっている。
家電量販店やスポーツショップやユニクロみたいなSPAとか、カテゴリーキラーと呼ばれる専門店のチェーンが伸びて、「総合」小売のGMSや百貨店の商売が難しくなってきた。

食べ物屋さんでも、昔は洋食から中華、和食にラーメン、なんでも出てくる総合レストランみたいなのがあったが今はすっかり見なくなった。
一時期の吉野家は牛丼の一本足打法で驚異的な売上と利益を叩き出していた。
今の吉野家はリスクヘッジでメニューを増やしているが、食べ物屋さんの場合は特に、メニューを絞った方が仕入も効率化するし、味のレベルも上がって利益を出しやすくなるのは間違いない。

そんなこんなでチェーン化の潮流は、その流れ方は若干変わったが21世紀の今でも進展し続けている。
目下の問題点は、日本の人口、特に生産年齢人口の若い層が大幅に減っていって、そういう市場の縮小にチェーン化は答えを出せるのかということだ。

市場が縮小して全体売上が減るとなったら、ますます効率化が必要だからますますチェーン化を進めることになるのだろうか。


日本はこの20年くらいの間に国際的なポジションが随分落ちぶれたそうだ。
一人当たりの国民所得もアジア諸国にどんどん抜かれつつある。
でも10年前の日本人の食べ物と、今の食べ物では、たぶん今の方が美味しさのレベルが進化しているのではないかと思う。
経済ボリュームの成長は鈍化しているが、生活文化の質的には今も着々と進化しているのではないか。

今成功しているのは、そんな質的な進化をちゃんとフォローできている商売なのではないかと思う。
そういう意味では1店舗とか2〜3店舗の小規模ビジネスにも十分勝機があるだろう。

ということで、世界を代表するハンバーガーチェーン「M」にも、世の中の文化レベルに応じた質的進化を望みたい今日この頃である。
posted by ヤス at 14:03| Comment(0) | 徒然なるままに