2016年02月07日

分かることの快について

ものごとが「分かる」と気分がスッキリする。
逆に分かりそうで分からないとモヤモヤする。
なぜだろうか。

例えば本というのは何かを伝えるために書かれる。
読者は本を読んで書かれてあることを理解する。
ただ理解するだけでなく、理解した時に「分かったっ」という脳みその中でライトがピカッと光る感じがあって、ちょっとよい気分がしたりもする。
売れる本というのは、そのように読者にさまざまな気付きを与えて、そのついでに「分かった」瞬間に多少の気分の良さを提供するものと思われる。

人類が言葉を使い始め、やがて文字を発明して文書記録が発達するようになったわけであるが、文字の発明以来文書とか本とかの文章全般の役割は、出来事の記録とか王様から下々への命令とか何事かを誰かに伝えるためのものである。
ただし文章は、伝達すべき何事かをかなりの程度「モデル化」していると思う。
「モデル化」というのは、工学とか物理学とかサイエンスの世界で、事象を単純化して考えやすくするためのやり方である。
例えば野球のボールのスピードを計算するのに「簡単のために空気抵抗は無いものとする」とか、そんなもろもろのことである。

考えてみると、世の中の事象は無数の要素によって構成されており、ちょっと先のことを予測しようと思ってもほとんど無限にある影響因子について考慮しないと本来答えは出ないはずだ。
だが人間が何か考える時には、とりあえず目に見えているもの、存在を確認しているもの、あるいは特に関係ありそうなもの、などといったざっくりとした基準で思考対象とする要素を取捨選択し、物事をかなり単純化して考えている。
それは、そうしないと考えが前に進まないからしょうがない。

文章(あるいは話し言葉も同様だが)は、そのような脳みその中の思考を言語化したものであって、かつ言語という抽象的な記号の組み合わせで表現している時点で「モデル化」が相当に進行している。


人が文章を読んだ時、抽象化されモデル化された言葉記号の並びが脳みそに入ってきて、そこで処理されておそらく何か具体的なイメージに再変換される。
その時にその脳みそに格納されている過去の映像とか経験に関する感情とかいろんな具体的な材料が呼び起こされて再変換が進行するものと想像する。

分かりきったことを表現した文章、例えば

「カラスは黒い」

は、読んでもふーんとも思わない。
だが、

「稀に白いカラスが産まれることがある」

となると、すこしだけふーんとなる。
(あれ、ならないかな?)

「白」とか「カラス」とかは既知の概念であるが、それらが少し意外な結合の仕方をするのを示されると、そこに「分かる」快感が生まれるのではないか。

という以上の記述はわたしの脳みそ内における独り言であってそれ以上のものではない。

思考を文章に変換するのは難しい。
本当はもっと違うテーマについて書きたかったがまた今度にする。
posted by ヤス at 12:48| Comment(0) | 徒然なるままに