2016年02月09日

シャープはどうなる

結局のところシャープは鴻海案を採るのか産業革新機構案を採るのだろうか。

一時は鴻海案で決まりみたいな報道も流れていたが、これはメディアの勇み足だったらしい。

よその会社の話ではあるが、個人的には鴻海案でいいんじゃないかと思う。
関係の金融機関も、貸し手責任が入っていない鴻海案支持みたいだ。

革新機構案では銀行債権を2千億円以上棒引きにする計画になっている。
その代わり現経営陣は退任するのが条件。
鴻海案では債権放棄も経営陣退任も入っていない。

昨日のニュースでは、革新機構側は計画に挙がっている支援効果を合計すると1兆円を超えると主張しているようだ。
対する鴻海案の支援総額は7千億円。

支援額については、競り合いによってちょっとずつ上積みになっているようで、本来救われる立場にあるはずのシャープの社長が、最近ちょっと偉そうになっているというのもまあその気持ちも分からなくもない。


しかし、どちらの案に転んだとしても、今季巨額の赤字が見込まれているシャープに対する大規模なリストラは避けられないだろう。
この場合依然として競争力が残っている液晶デバイスを中心に再生し、それ以外、テレビや白物家電、携帯電話に太陽電池などは整理対象になる公算が強いと思われる。

革新機構案のミソは、シャープの白物家電部門に東芝や日立の同部門を吸収して国産家電メーカー連合で製品のIoT化を推し進めることにあるようだ。

わたしの懸念はこの点にあって、政府主導の寄せ集め連合で果たして革新的な製品開発が出来るのか甚だ疑問だ。
技術の国外流出問題も時々出て来るようだが、シャープの持つ技術を「日本国が持っている」技術と思うその発想が時代錯誤である気がする。
シャープにとってみれば技術情報が鴻海に出るのも東芝に出るのも流出であることに変わりない。


ということで、あくまで個人的予想だがシャープにとって革新機構案に乗るのはかなり危ない気がする。

一方の鴻海案なら安心かと言えばまあそうとも言えないわけで、もし再生プランが滞ったりした場合、トップ判断で一気に再度の売却もあり得ると覚悟しておかないといけない。

ただ鴻海の方は伸るか反るかの純然たる私企業であって、その点での本気度は機構の比ではないと思われる。
また鴻海は、現在利益率の薄い大規模生産受託の経営スタイルをとっているが、利益は工場のある中国の人件費次第なので将来に向けた付加価値向上に相当の熱量で取り組んでいると思われる。
その場合のシャープ買収のシナジーの方が、国産家電連合より成功のイメージを想像しやすいと思う。

たぶん今月中に答えが出るらしいがどうなるのだろう。
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2016年02月08日

新型PEN-F

今年はオリンピックイヤーである。

オリンピックイヤーと同じタイミングのものといえば2つ頭に浮かぶ。
ひとつはアメリカ大統領選。
もうひとつは日本の一眼レフカメラのプロ用最上級クラス機種のモデルチェンジ。
今回のオリンピックイヤーでもニコンとキャノンからそれぞれ最上級機種が発表になったのである。
が、当然ながらわたしにとってこれらの最上級一眼レフカメラは縁がない。
まずお値段が70万円近くする。

オリンピックで撮影するプロカメラマンは、おそらくこれらのカメラに何百万円もする長大な望遠レンズを装着してバシャバシャ撮る。
そういう超弩級のレンズで数々の悪条件下でもバシャバシャ撮るためには60何万円のカメラボディは相応の投資でありうるのだろう。
だが普通に市井に生きる写真機愛好家のおじさんには、高級過ぎるお値段と長大レンズを支えるためのずっしり過ぎる重量はもはや異世界の出来事である。



そんなことを思っていたら、オリンパスから新型のPEN-Fが発表された。

わたしの手元には現在、2013年発売の先代、PEN E-P5がある。
レンズは17mm f1.8 というちょっと高級感あふれるキットレンズの単焦点が付いているのだ。

このE-P5はなかなかよい。
まず小さく軽い。
ボディ本体が400g少々で、レンズを付けても500gに収まる。
馬力の衰えたおじさんには、軽いカメラが一番うれしい。
またシャッターも8000分の1が切れる。
ISO感度も常用の上側が25600までで十分過ぎる。

わたしはこれにニコンFマウントレンズのアダプターを付けたりしている。
だが一眼レフのレンズは大き過ぎるので結果あまり使わない。

E-P5は買った時にフラッシュのところに付ける外付けの電子ファインダーが付属していた。
だがこれも付けたりはずしたりが面倒だし、付けていると意外に邪魔になるから結果使わない。

そんなこんなで手元のE-P5には多少の要望もあるが、しかし大きな支障はない。
小さくて小気味良く撮れて性能も十分以上。
もうこれで20年位は買い替えの必要もあるまい、と思えるほど。

そこに新型のPEN-F。

ダイヤルがたくさん付いていてネットで賛否がたくさん出ていた。
ダイヤルが多いのは、ひとつにはレトロ嗜好の層に食い込むためか。
だが、ニコンのDfと違って、ぎりぎりのところでデザインの現代性をキープしている、と個人的には思う。

あと気になるのは電源スイッチが左端に付いている。
わたしは電源スイッチは断然右側派だ。
オリンパスはOM-Dシリーズでも電源が右になっている。
かろうじてPENシリーズは右側だったのにFは左。
しかもフイルムカメラの巻き戻しノブ風デザインだ。
機能性をデザイン性の犠牲にしているのではないか。
目下のところわたしの最大の懸念はこの電源位置とデザインである。

液晶の開き方がバリアングルになって、開いた時にレンズ光軸から外れることになった。
その代わり、くるっとひっくり返して液晶が無いことに出来る。
しかも高性能のビューファインダーを内蔵しているのに重量は増えてない。

液晶を閉じてしまってファインダーだけでバシャバシャ撮る、というのは、撮るたびに液晶画面に気を取られることがなくて良さそうだ。

値段はAmazonで143,850円とけっして安くはないが買えない値段でもない。

ということでまとめると、新型PEN-Fは液晶を閉じてファインダーだけで撮れるのは◯、電源位置が左なのは×だ。

以上です。
posted by ヤス at 13:21| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月07日

分かることの快について

ものごとが「分かる」と気分がスッキリする。
逆に分かりそうで分からないとモヤモヤする。
なぜだろうか。

例えば本というのは何かを伝えるために書かれる。
読者は本を読んで書かれてあることを理解する。
ただ理解するだけでなく、理解した時に「分かったっ」という脳みその中でライトがピカッと光る感じがあって、ちょっとよい気分がしたりもする。
売れる本というのは、そのように読者にさまざまな気付きを与えて、そのついでに「分かった」瞬間に多少の気分の良さを提供するものと思われる。

人類が言葉を使い始め、やがて文字を発明して文書記録が発達するようになったわけであるが、文字の発明以来文書とか本とかの文章全般の役割は、出来事の記録とか王様から下々への命令とか何事かを誰かに伝えるためのものである。
ただし文章は、伝達すべき何事かをかなりの程度「モデル化」していると思う。
「モデル化」というのは、工学とか物理学とかサイエンスの世界で、事象を単純化して考えやすくするためのやり方である。
例えば野球のボールのスピードを計算するのに「簡単のために空気抵抗は無いものとする」とか、そんなもろもろのことである。

考えてみると、世の中の事象は無数の要素によって構成されており、ちょっと先のことを予測しようと思ってもほとんど無限にある影響因子について考慮しないと本来答えは出ないはずだ。
だが人間が何か考える時には、とりあえず目に見えているもの、存在を確認しているもの、あるいは特に関係ありそうなもの、などといったざっくりとした基準で思考対象とする要素を取捨選択し、物事をかなり単純化して考えている。
それは、そうしないと考えが前に進まないからしょうがない。

文章(あるいは話し言葉も同様だが)は、そのような脳みその中の思考を言語化したものであって、かつ言語という抽象的な記号の組み合わせで表現している時点で「モデル化」が相当に進行している。


人が文章を読んだ時、抽象化されモデル化された言葉記号の並びが脳みそに入ってきて、そこで処理されておそらく何か具体的なイメージに再変換される。
その時にその脳みそに格納されている過去の映像とか経験に関する感情とかいろんな具体的な材料が呼び起こされて再変換が進行するものと想像する。

分かりきったことを表現した文章、例えば

「カラスは黒い」

は、読んでもふーんとも思わない。
だが、

「稀に白いカラスが産まれることがある」

となると、すこしだけふーんとなる。
(あれ、ならないかな?)

「白」とか「カラス」とかは既知の概念であるが、それらが少し意外な結合の仕方をするのを示されると、そこに「分かる」快感が生まれるのではないか。

という以上の記述はわたしの脳みそ内における独り言であってそれ以上のものではない。

思考を文章に変換するのは難しい。
本当はもっと違うテーマについて書きたかったがまた今度にする。
posted by ヤス at 12:48| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月06日

生き物的であること

基本的に生き物はナマケモノに出来ていると思う。

その辺にいる犬や猫でも、動物園の象やキリンもパンダもそのライフスタイルは、餌を食う、寝る、暇つぶしに遊ぶの3パターンしかないように見える。

本来の生き物の生き方とは、生命を維持するための餌を獲得するための最低限の「労働」の他には特に働かず、余った時間は眠たければ眠り退屈なら遊ぶ。
それだけである。

そこへいくと人間という生き物は労働に充てる時間が異常に長いようだ。
餌の確保以外にも、建物を建てたり自動車や家電製品やその他いろんなモノを製造したり、挙げ句の果てには歌を歌ったり野球やゴルフをしたりのエンターテイメントの労働も行ったりする。
あるいは貨幣というモノを創造し、それの勘定をしたりという労働もある。

人間を他の生き物と分けている大きな違いとして、生き物としての最低限の労働の上にさらに新しい労働を重ねていってどんどん自らを忙しくしている、という部分があるように思う。


これらはすべて異常発達した人類の脳ミソの機能による。
人類の脳ミソの発達は、元はといえば強靱で鋭い牙や爪を持つ肉食動物に対し人類のか細い肉体でなんとか対抗しなければならない、ということのためにあったような気もする。

が、安全の確保にだいたい目処がついた時点で、人類は脳ミソの機能を便利や快適の追求にも発揮するようになり現代のように便利な世の中が出来上がったのだと思われる。


しかし人類はやはり生き物のひとつであって、生来のナマケモノ気質は脈々と受け継いでいる。
だから何かの拍子に生来のナマケモノが露呈して、その症状が軽い場合は仕事中に茶店で時間をつぶし、重い場合は鬱病などの精神疾患を発病したりする。

これは人類が思いがけず速いペースで猛烈に進化していることが原因であると思われる。
人類の生き物的でない部分、それは文化や文明と言われる部分であるが、それが生き物としてのタイムスケールを遙かに上回る速度で変化している。
そこのところで人類は生き物的でない成分を多量に持つに至った。

だがしかし、人類はやっぱり肉体的には生き物の一種であり、生き物的な部分と生き物的でない部分がどうにも今のところバランスがとれていない、まだまだ進化段階が中途半端である、というのがいろいろな問題の底にあるような、そういう気がしたけれど、あるいはただの気のせいかもしれない。
posted by ヤス at 11:20| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月05日

ダースベイダーが偉大な件

まったくどうでもいい話だが、iPadの「スターウォーズコマンダー」ゲームにハマっている。
スターウォーズコマンダーは、基地をつくり、資源を貯めて施設を充実させ、敵の基地を攻撃して資源を奪ってさらに基地を強化するという、わりかし定番のパターンのゲームであろう。

1年ほど前にやり始めて、今ではめでたくレベル8に到達した。
ただし防御施設のアップグレードを後回しにしているため、敵の攻撃にはめっぽう弱い。
しかし防御施設を後回しにしてまで指令本部のアップグレードを急いだのは、レベル8になるとダースベイダーというヒーローキャラが使えるようになるからだ。

だから万難を排して淡々と敵基地を襲い、資源を奪い取っては指令本部の強化に努めた。
そしてやっと今月に入って、念願のダースベイダー降臨を迎えた。

とまあそんなことは本当にどうでもいいのだけれど、この手のゲームはほんとうに良くできてるなあと思うのである。
課金なしの無料でプレイする場合、ゲームが面白くなるくらいのレベルにまで到達するにはたぶん2〜3ヶ月は必要だと思う。
多くの同志が燃える志でゲームを始めて、しかし初期段階のあまりのつまらなさに「こんなくそげ氏ね」とか言って脱落していったことだろう。
しかしレベル6を超えるあたりからだんだんゲーム内容に戦略性の深みが増し、第一それまでにコミットした膨大なプレイ時間を考えると、今度は容易に離脱できなくなる。


ドワンゴ/カドカワを率いるニコ動主宰者の川上量生が、ゲーマーこそが世界を救うと言ったかどうかよく知らないが(たぶんそうは言ってない)、彼が常々言っている「経営はゲームに学べ」(正確にはそういう表現ではなかったと思う)という言葉がものすごく納得できる。

ネットワークゲームにおけるマーケティングや顧客囲い込みの手法を指してゲーミフィケーションというらしいが、まったく、経営はゲームに学ぶべきだと思う。



ところでわたしは依然としてスターウォーズ/フォースの覚醒を見ておらず、たぶんこのままだと劇場では観ない感じである。
そういうわたしが言うのもおこがましいが、映画・スターウォーズシリーズがここまでのヒットになった要因のひとつに、「フォース」という概念ならびにその「ダークサイド」と「ライトサイド」という概念を物語の土台に据えたことがあると思う。
(1978年の初回作の字幕ではフォースは「理力」と訳されていたのが懐かしい)

どんな人間にも、その心の内側には邪心や嘘、根拠のない他人への非難などなど、ダークサイド要素がたくさんあって、各々の人間はそれなりに自覚もしている。
その部分において、映画に登場するダークサイドがみんなの胸の内のダークサイドとある種の共感関係を形成したであろうことは想像に難くない。

そういう意味でも、やはりダースベイダーの存在はかなり偉大であると言える。
今日はこの辺にしておく。
posted by ヤス at 10:55| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月04日

ビデオでフォームの確認

わたしが10代後半の頃、世の中に小型の家庭用ビデオカメラが普及し始めた。
当時、個人的にはそのような高級電化製品には無縁であったが、あれはわたしが所属していた高校の水泳部の顧問の先生が所有していたのだろうか、泳いでいるフォームを撮影してもらったことがある。

わたしは名門倉敷天城高等学校の水泳部で三流ながら競泳をやっていた。
天城高校のプールには、水中の側面部分に一部だけガラス窓になっているところがあって、プールサイドにある四角い穴倉に入るとガラス窓越しに水中のようすが見える。
その穴倉に撮影者が入って水中のフォームを撮影してもらう、ということがあった。

水泳というのは、自分がどういうフォームで泳いているのかがなかなか分からない、自分の動きに関するメタ認知の困難なスポーツのひとつであると思う。
野球やゴルフでも、打ったり投げたりしている時に、自分がどんな動きをしているのかなかなか自覚しにくい。
ダンスやバレエの教室なんかは壁面全面が大きな鏡になっていたりするけれど、本来はどんなスポーツでも、ダンスなんかと同様に自分の姿を確認しながらやると上達が早いんじゃないかと思う。

そこへいくと、ビデオカメラによる撮影という方式が一般化したことは、スポーツ界におけるちょっとした革命と言っていいのではないかと思う。

特に水泳の場合、基本水の中なので自分の動きを視認しにくい。
時々キックの打ち方を確認しようとアゴを思い切り引いて足先を視界に入れたり、手のかきを目線で追ったりするのだが、これだと頭の位置が本来のフォームとはだいぶ違うことになってよろしくない。
結局、クロールならば息継ぎの時に水中メガネの周辺に発生する水流の具合でスピードの目安をつけたりという調子で、ものすごく近視眼的な手がかりしかない。
だから、というわけでもないかもしれないが、水泳の場合自分の泳ぎを客観的に見たことのない人は自分は今ものすごく格好良く泳いでいるのではないか、という錯覚をイメージしながら泳いでいるのだと思われる。

そして初めて自分の泳ぎをビデオで見た時に、オレってこんなに格好悪くて前に進んでない泳ぎだったのかよ、と驚くことになる。

わたしの場合も、他人視点から客観的に見る自分の泳ぎを初めて見た時は驚くほどに格好悪く、下手な泳ぎだと感じた。
レース中の泳ぎを撮ってもらったこともあったが、わたし的には当時の世界的スイマー、パブロ・モラレスをイメージして格好良く泳いでいるつもりであったが、ビデオの映像ではキックは空振りしているし、最後の方で疲れて泳ぎが崩壊しているところなんかはみっともなくて見れたもんじゃあなかった。

ということで、自分視点で見る自分は思いの外正確には見えておらず、自分視点からの自分のイメージと他人視点の自分のイメージの間にはおそろしいほどのギャップがある。
時々他人視点で自分を見ることは、まあ必要だろうなと思った。
posted by ヤス at 10:35| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月03日

節分と時間のスケール

今日は節分だ。

豆まきをする日であり、最近定着した恵方巻きをまるかぶりする日でもある。

ところで日本では1年12ヶ月の中では1月が一番寒いらしい。
つい先日の1月20日だったと思うが大寒の日があって、確かにその前後は厳しい寒さが続いた。
わたしはそういう暦の知識にはまったく自信が無いのであるが、どうも明日が立春で、その前の日に節分をやることになっているらしい。
季節の変わり目に襲ってくる邪鬼を追い払うのだそうだ。

実際、昔から気温が急に変化して体調を崩したりということが多かったのだろう。
四季の変化が大きい日本のような国においては、ちゃんと季節変化に備えるためにこういう備忘録的な日付のマーカーがけっこう役に立ってきたのかもしれない。

こういう記念日とか祝日、個人における誕生日とかは、その日を特別にマーカーしておくことで何事かを思い出してケガをしないようにするとか、気分をあらたにするとかの効用があるのだと思われる。
それを言えば、1週間における日曜日は神様も仕事を休んだ日なので人間も休むようにしたとかいうことがある。

本来、宇宙的な視点からは1年365日はどの日も平等であるはずなのだが、人間的視点において365日のサイクルには人生のリズムを微調整するためのメトロノームみたいな働きがある。

当たり前のことではあるが、人間の人生は365日のサイクルとか1週間のサイクルにかなりの程度律せられている。


スターウォーズとかのSFの世界では、登場人物は星々を飛び交っていて、たぶん惑星の自転・公転の周期なんかには無頓着に動き回っていると思われる。
これはなんとなくそう思うのであるが、スターウォーズには「時計」というものが出てこないような気がする。
いや、1度や2度は出てきているかもしれない。

いずれにしても星々を飛び回っていると、時間単位の土台をどこに置くかというのが大きな問題になりそうな気がする。
銀河系の自転周期とかだと、人間の時間感覚に対するスケールが違い過ぎて使えないと思うのだが。

人間はあくまでも地球スケールに合わせた存在であるなあと、節分の日に思った。
posted by ヤス at 12:01| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月02日

人はそんなに変わりたいのか

昨日の昼過ぎ、14時半くらいだったと思うが、サイゼリヤに昼飯を食いに入った。
で、飯の後タブレットを広げて少しごそごそやっていた。

前方の席で、若い男性が2人、20歳そこそこくらいの女性を相手に某ネットワークビジネスの勧誘を熱心にやっている。
わたしはサイゼリヤで結局2時間以上ねばっていたのだが、その間中、熱心な勧誘は続いていた。

ここではネットワークビジネスの是非について書くつもりは無い。
それよりは隣の席から聞こえてくる勧誘のトークを聞いていて思ったのである。

「人生変えたいんでしょ」

というフレーズが何度か登場していた。
ああそうか、世の中には人生を変えたい人が多いんだよなあ、と今さらながら思った。

本屋に行くと、自己啓発本のコーナーには「自分を変える」「人生を変える」などがテーマの本がかなりの種類置いてある。
というか自己啓発本のそもそもの目的は「自分を変える」なのであろう。

その手の本がたくさん出版されているということは、自分を変えたい人たちがたくさんいるということだ。
そしてもちろん、わたし自身も変われるものなら変わりたい。
でも、高野山で千日修行をするとか、富士山麓で自分を変える地獄の研修を受けるとか、そういうつらい変わり方は出来れば避けたい。
なるべく辛くなくインスタントな方法によって、冷静沈着でウィットに富んでいてマメで真面目でそれでいて爽やかなレモンの香りのする人格に変わりたい。

が、数十年も生きていると、人格というものはおいそれと好きなように変更出来るものではないことに否応なく気づく。
しかし同時に、地殻変動くらいのゆっくりしたスピードで、少しずつだが確実に何かが変わっているのではという実感もある。



20代サラリーマンの頃、四国は高松にあるお客の仕事で失敗をして、300万円くらいをこちらで弁償するとかしないとかの問題が発生したことがある。
わたしは一人、震える思いでクレーム処理に向かった。
高松に向かう道中、このまま北海道あたりに逃避したいと思った。
強いストレスでめまいがするし、胃は痛いし、妙にキョロキョロして挙動不振になっていたと思う。
何とか心を落ち着かせなきゃあ、と思ってなにげに本屋に立ち寄り、デール・カーネギーの「道は開ける」をふらふらと買った。
普段のわたしなら絶対に買わない種類の本である。

その本には、重大な問題に陥ったら最悪の場合を想定しろと書いてあった。
その問題がこじれて最悪の状態になっても、あなたはたぶん死なない、だから大丈夫だ。
細かい内容はすっかり忘れたけれど、そんなことが書いてあったように思う。

そのフレーズを得てやや人心地を取り戻し、客先で詫びを入れると、相手も生身の人間であるから柱にぶら下げてムチ打ちされたりとかはなくて、普通に平謝りをしたら弁償無しのお許しを得た。

まあ死ぬほどの大問題と思っていてもその程度のもんなのである。

が、あの時の「道は開ける」のあのフレーズは、本の購入代金分の価値を補ってお釣りがあったと思う。
本のその他の内容はまったく憶えていないが。



ところで、2時間以上の間まくしたてる男性の勧誘をひたすら聞いていた若い女性は、結局最後に丁重に断りを入れてその勧誘は不調に終わったようであった。

2時間の間、勧誘役の一人の男性がだいたい98%くらいしゃべっていて女性の声はほとんど聞こえなかった。
よくあれだけ切れ目なくしゃべり続けることが出来るもんだなあと、少し感心したのだった。
posted by ヤス at 12:55| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月01日

先進技術実証機

昨年末、本田宗一郎の悲願であったホンダジェットがやっと初納入され、その少し前には三菱のMRJが4度目の正直で(5度目の正直だったかな)で初飛行。

そして日本の航空業界にとっての次のエポックである、防衛装備庁が開発中の先進技術実証機が今月初飛行される見通しとのこと。

この3つの飛行機は、機体からエンジンに至るまですべて国内技術で開発されているところが共通点だ。
このところの日本の航空産業は、川崎重工のP−1哨戒機・C−X輸送機、少し前に出来上がった新明和の救難飛行艇US−2など、ほぼ完全な国産開発の新型機が続々と誕生している。
(US−2はUS−1のビッグマイナーチェンジ版といえるかもしれないが)

飛行機の開発は、機体素材となるアルミ合金やカーボンファイバー、飛行制御のためのコンピューターとアクチュエーターなど産業用ロボットに通じる技術など、広範な産業基盤が必要である。
それ以外にも、機体強度や空力特性を実物無しで精密にシミュレーションするためのスーパーコンピューターとか、あるいはエンジン開発には耐熱素材や燃焼制御などまた違う分野の技術が必要だ。

日本も航空開発が禁止された敗戦から70年経って、この間に自動車産業を筆頭に広範な技術基盤が出来たということなのだろう。
特に今後は広大な国土のアメリカや中国を中心に、プライベートジェット機や小型の旅客機の需要が急増すると言われているらしい。
そういう中で潜在的な能力の高い日本のメーカーが飛行機産業に乗り出すのはある意味必然なのだと思う。


ところで、冒頭に挙げた3つの新型機のうちの先進技術実証機(一部では「心神」というニックネームが使われているがこれは「公式」のニックネームではない)であるが、最近公開された本機の写真を見て多少の感想を得た。
本機は開発費を抑えるために操縦席とキャノピーはT−4練習機から、前後の車輪はT−2練習機から流用しているらしい。
これまでは主に模型や実機の上からのアングルの写真ばかり見ていて、外側に傾いた2枚の垂直尾翼など、いかにもステルス機然とした姿態が新しい感じがした。
だが最近のローアングル写真を見た感じでは、主脚周りの造形がまんまT−2練習機だなあと感じた。
いろいろな情報を見てみると、機体強度も飛行実験の数百時間に耐えられるだけの最低限のものに抑えているようで、開発費も400億円と最新の実用ジエット戦闘機とはゼロの数が2つ3つ違う。

現在実戦化に向けて開発中のF35などは、垂直離着陸型も含めた3形態の同時開発ということもあって開発費が約40兆円に膨れ上がっているという。

それに比べると開発費400億円の先進技術実証機は、あくまでステルスボディと新型エンジンのテストベッドとして極力簡便に製作されたことが想像される。

一部にはもう次期国産戦闘機の開発が始まったような雰囲気のニュースも流れているが、あくまで先進技術実証機は人が乗る実物サイズの模型飛行機くらいに思うのがたぶん正解なのではないかと思ったのである。
posted by ヤス at 14:38| Comment(0) | 徒然なるままに