2016年02月29日

大量卒業

昨年末から今年初めにかけて、AKBグループの卒業表明が相次いでいる。

以前から卒業を表明していた高橋みなみなどとあわせ既に今年の卒業予定メンバーは10人に達するそうだ。
去年の卒業人数は10人だった。
最近になって地方メンバーの卒業が発表されたりしていることもあり、今年の卒業人数が過去最大になるのは確実な情勢だ。

ただ、2014年からのチーム8や今年から本格稼働したNGT48の分いっきに人数が増加している。
また、地方グループも新規オーディションやドラフト生加入で毎年のように人数が増えている。
母数のメンバー人数が増えているから卒業人数が増えるのもまた道理なのであろう。

さらにいうと、新メンバーが入ってメディアに露出し始めるとトコロテン式に既存メンバーの露出機会が減る。
露出の落ちた既存メンバーは別の人生を考える、ということもあるだろう。
既存メンバーには厳しい現実だが、この新陳代謝構造がAKBグループの長続きの秘訣だと考えられる。

AKBグループは、去年のじゃんけん大会が地上波中継されなかったり、CD販売の連続ミリオンが途切れたり、その人気の翳りが心配されたりもしている。
だが、国内の主要地方都市で、たとえば札幌とか仙台とか広島あたり、新グループ結成の余地がまだまだあるように思われる。
あるいは海外展開として、台湾とか、あるいはヨーロッパあたりに進出する可能性だって皆無ではあるまい。

AKBグループは、この10年間オープニング効果的な目新しさを切れ目無く提供して芸能界を席巻してきたわけであるが、今後はややそのトーンを落としつつ規模の拡大に引き続き邁進することが想像される。

とにかくAKBグループ的には、さながら止まったら死んでしまうマグロのように、常に変化し続ける必要があるのである。

わたしは、このように絶え間ない拡大を運命づけられたAKBグループが、12世紀にユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国に重なって見える。
モンゴル帝国の歴史になぞらえるならば、今のAKBは初代チンギスがモンゴル草原の諸部族を伐ち平らげて、次は南に下って中華文明を併呑しようか、あるいは西に進んでシルクロードの要衝を抑えようか、と策を練っている頃であるように見える。

歴史上のモンゴル帝国は、しばらくの間首尾良く快進撃を続けたが、AKBはどうであろうか。

いずれにしても、メンバーの大量卒業の傾向は今後しばらく定着するに違いない。
既存メンバーの卒業は、せっかく築いたファンの支持を一部破棄することにつながるけれど、捨ててこそ得られる新しい果実というのもおそらく確実にある。

日本の産業構造も少しくらい参考にした方がいいかもしれない、と思った。
posted by ヤス at 10:33| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月28日

東京マラソンの結果を見て

今日はリオ五輪のマラソン予選も兼ねた東京マラソンがあった。
優勝はエチオピアのリレサという若い選手だったらしい。
優勝タイムは2時間6分56秒。
2、3位はケニアの選手だったらしい。

このレース、期待された日本人の招待選手は総崩れになり、一般参加の高宮選手が2時間10分台の記録でもって日本人1位になった。

わたしは個人的には7分台の記録を持つ今井正人や藤原新に期待していたが、どうも見せ場無く終わったようだ。

しかし、日本の男子マラソンが世界レベルから遠ざかって久しい。
いったいどうしたことか。
かつて、瀬古、宗兄弟、中山が走っていた当時は間違いなく世界最強の布陣を誇っていた。
当時の日本選手は、必ずしも世界最速ではなかったがそれでも記録ランキングの上位には何人も日本人選手が名を連ねていた。

ところが今では、2001年に作られたマラソンの日本記録2時間6分16秒に届きそうな選手すら皆無。
数年に一度7分台を出す選手が出るくらいで、8分台の記録すらなかなかお目にかかれない。

1キロ3分ちょうど、5キロ15分ペースで走るとフルマラソンで2時間6分30秒が出る。
とりあえず6分台が出せれば世界と戦えるだろう。
そしてこのくらいのペースは、日本のトップランナーには難しくないように思える。

にもかかわらず記録が出ない。
これは日本の選手がマラソン専用の練習をしていないということなんじゃないかと想像する。
それとかつて強かった時代のマラソン選手は、一筋縄でいかない我の強い人間ばかりだった気がする。
42キロの距離をセルフコントロールしながらレースするには、強い自立心が不可欠であるように思う。

そういう意味では市民ランナーの川内選手やプロランナーの藤原新選手のような新しいスタイルの出現は今後の広がりに期待出来る。

それと、かつて長い低迷期にあった日本の競泳陣のやり方なんかも参考になるのではないか。
今、男子競泳界は身長2メートルが標準体型というくらいでかい選手が多い。
体の小さい日本人には厳しい時代だが、そんな中でも1メートル70センチ台の北島康介や萩野公介が互角以上の戦いをしている。
他にも有力選手がたくさんいて、世界の水泳強国といっていい状況だ。
復活の理由はいくつもあると思うが、ひとつは名コーチがたくさん存在していることがあるだろう。

マラソンも、指導者の育成と練習方法の研究にもっと注力すべきだろう。

と思っていたら、今日の東京マラソン、駅伝で旋風を起こした青山学院大学の学生ランナーが大活躍したらしい。

昨今のマラソンブームの盛り上がりは一時のものではなく、かなり根強いものを感じる。
そこに青学のような学生チームが新しいマラソン勢力として選手層の底上げをすれば、日本のマラソン復活も間近なのではないか、と少し期待してみる今日この頃である。
posted by ヤス at 16:57| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月27日

曲がり角

今、日本の経済は大きな曲がり角に来ているように思う。

経済や産業の「曲がり角論」はしばらく前から言われていて今さらな話のような気もする。
だが過去10年、20年のくくりで見ても、最近の1、2年が大きな転機であろうことはたぶん間違いない。

まず、アメリカで利上げが実現した。
このまま順調に段階的な利上げが進むかどうかは分からないが、しかしひとつ言えるのは、アメリカはもう金融緩和時代に逆戻りすることはないということだ。

今、為替が円高になったり、金や資源価格が乱高下したりというのも、新しい経済秩序の中で投機マネーが行き場を探しているのだろう。



思えば最初の大きな曲がり角は1990年頃の東西冷戦終結であった。
この時を境に、中国や東ヨーロッパの安い労働力が「西側経済」の製造セクターに一気に流入してきた。
同時に、ユニクロのように日本で企画した製品を海外(中国)で作って日本で売る、という海外生産モデルというのが流行りだした。

1990年代は、日本の製造業が順調に基礎体力を失っていった10年だった。
2000年頃に、日本もインターネット関連の新しい産業が勃興する雰囲気が一時漂ったが、アメリカ発のドットコムバブル崩壊で一気に水を差された。
そして小泉政権下、最初の大規模な金融緩和が行われ急激な「円安誘導」が実現した。
アメリカでは円安で価格競争力を増したトヨタをはじめとした日本製造業の製品はがバカ売れし、それらの企業は歴史的な好決算を連発した。
青息吐息だった日本の国家財政は法人税の急増で潤いプライマリーバランスの黒字化も目前と思われた。
シャープやパナソニックやソニーなどの「好調な」電機メーカーも国内に大規模な製造拠点投資を行った。

そしてこのとき円安を起点にして大量の投機マネーが発生して未曽有のバブルを引き起こし、結局2008年のリーマンショックですべてが崩壊した。


2000年代中盤の狂乱は、「既に死んでいる」日本の製造業を10年ばかり延命し、2014年以降の大規模金融緩和はさらにそれを延ばそうとする試みであったと思われる。
だが、国際競争力の残っていた自動車産業以外は惨憺たる有り様で、この度ついにシャープがギブアップした。
東芝も時間の問題だろう。
日立やパナソニックもどうなるか分からない。
意外なことに、脱電器屋を進めていたソニーが唯一生き残りそうな情勢である。
たぶんこれから名のある製造業の大会社がひとつまたひとつ、消えていくのではないか。
従来型の大企業が消えていけば銀行だってどうなるか分かるまい。

そうして日本の世の中もやっと、産業の新陳代謝が始まるのではないか。
パソコンひとつ持っただけの個人企業の時代が始まるのではないか。

その曲がり角がやっと来たのではないか。
そういう気がする。
posted by ヤス at 15:30| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月26日

技術革新と個人の仕事3

総務省の統計によると、平成25年におけるスマートフォンの世帯普及率62.6%であるらしい。
ちなみに平成22年以降の普及率推移は以下の通り。

22年9.7%→23年29.3%→24年49.5%→25年62.6%

携帯電話全体の普及率は過去10年以上にわたって95%前後で横ばい状態である。

平成27年のスマホの世帯普及率はおそらく70%を超えているだろう。
また、スマホ増加によってシェアを奪われたガラケーは採算悪化からメーカーの事業撤退が相次いで今や絶滅危惧種状態だ。
ガラケーの自滅もあり、早晩、携帯電話市場は100%スマートフォンで占められるようになるに違いない。


20年前わたしの周辺では、パソコンで仕事をする個人や中小企業というものが発生し始めていた。
パソコンで各種の業務を処理する流れは時とともにだんだん普及して、今では経理業務や個人の確定申告もパソコン使用が当たり前。
あるいは、社外向けの提案資料を今時手書きで清書する会社はいないだろう。
だが20年前には対外資料を手書きでつくるのはわりかし普通だったのだ。
というか、パワポ等の普及が今日のような「プレゼン文化」のスタイルを生み出したのだと思われる。

そこまでは業務処理のパソコン化である。
これによって仕事の処理効率が倍になったとか10倍になったとかいう話である。

だが、現在のように個人が「通信機能付きの携帯パソコン」=スマートフォンを持つようになったことは、パソコンによる変化とはかなり質的に異なるインパクトを世の中にもたらす、と考えられるのである。

スマホ普及のインパクトは、今までの仕事が10倍速くなるとかいう性質の話ではなく、今まで存在しなかった方法が次々出てくる、という類の話なのである。

例えば細かい個人属性や趣味やライフスタイルに合わせた広告の方法とかについて、今そっち側の業界は血眼になって開発している。
なにせスマホの普及は直近数年のことなのでたぶん業界的にまだまだ固まっていないのだ。
一方で1年もあれば新しい技法が考案されて市場投入されて、そのまま定着するか廃れるか結論がすぐに出るのだろう。
そういう意味では、すでに数年も経過している、というべきかもしれない。

とにもかくにも、スマホの普及はそれを使っている本人たちが思っている以上に世の中を変えつつあると感じる。

その変化のひとつは、事業者と、そのお客さんが持っているスマホとの位置関係であることは間違いない。
そういう変化を今さらながらひしひしと感じる今日この頃なのである。
posted by ヤス at 10:48| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月25日

技術革新と個人の仕事2

1995年わたしは 職場を移り、Macのある世界からワープロ専用機の世界に逆戻りした。
この年は阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、そして年末にWindows95が発売された、わりかしメルクマールな年だった。

新しい職場はいちおうコンサルタント会社であったが本当の意味でそうだったかは、今となっては疑わしい。
何せ請求書や旅費精算などあらゆる社内書類は手書きだった。

自分のMacを買い、ニフティでパソコン通信などしていたわたしはその頃には「手書き機能」がかなり退化しており、手書きの書類はたいそう骨が折れた。
頃合を見計らって自分の分だけ書類のパソコン化をしらっと進めたりもした。
そうすると、社内の調和を乱した罪でひどく説教されたもんである。
おまえは貴重な勤務時間中に、書類を「わざわざ」パソコンで作って時間を無駄に使った。
書類は手で書いた方が早い、計算は電卓でした方が頭の訓練になる、その辺りが説教の基本論理になっていたようである。

まるで末期の社会主義ソビエト連邦だ。
だが当時の世の中はまだそういう説教をするバカがあまり目立たない時代だったのだ。

中小企業でパソコンを置いてあるのはまだ少数派だったと思う。


あれから20年以上経ってパソコンのない会社やお店の方が稀になった。
パソコンで出来ることの基本線は20年前とさして変わっていない。
それよりも、通信ネットワークの革命的な普及が世界を変えてしまった。

アップルのiPhoneが出たのは2008年であったらしい。
今からまだ10年経っていない。

それ以前にも「スマートフォン」と呼ばれた携帯電話はあったし、シャープのザウルスみたいなPDAも一時期流行った。
だがiPhoneとそのフォロワーのAndroid端末の大群がまたたくまに普及して、今街中にいる若者もおじさんもおばさんも10人のうち7〜8人はうつむきがちに手元のスマホ画面に没入している。

世の中の人々をしてそこまでその小さな画面に視線を釘付けにさせるほどのスマホであるから、世界を変えるのは訳はない。
実際、かなり世界を変えた。
まず、人々の視線を小さい画面に釘付けにすることによって、テレビの視聴率を低下させ、新聞購読を減少させ、書籍出版を退潮に追いやり、年賀状はLINEにだいぶんとって代わられた。

それは、既存産業のうちのいくつかの会社を廃業に追い込むほどのものであるが、変化の有り様がひどく自然で滑らかだったので、世の中の多くの人々はそのことにさしたる関心を抱いていないようである。
それこそ、スマホの画面を追うのに忙しいのかもしれない。

適当に書いていたら長くなった。
次こそは新しい時代の個人単位の仕事のあり方について考えたい。
と思う。
posted by ヤス at 10:54| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月24日

技術革新で個人の時代 その1

もう20年よりかなり昔のこと、わたしが就職したとき、わたしはカッターナイフとスプレー糊を手に三流デザイナーをやっていた。
ちょうどお金のあるデザイン事務所はマッキントッシュのシステムを買い始めていた。
わたしも噂には聞いたが今と違ってインターネットも無い時代である。
NHKのドキュメンタリーでDTP=デスクトップパブリッシングが「近い将来」に印刷業界を変える、とかやっていた時代だ。
バカ高いMacを買うよりは、三流デザイナーのカッターナイフの方がコストパフォーマンスはまだ良かった。

そこから2〜3年してMacのシステムがモノクロプリンターも入れて200万円弱くらいで揃えられるようになった。
随分安くなって、リースを組めば中小の事務所でも買えるようになった。

その時わたしはすでに三流デザイナーを諦めてデザイン業務は片手間でしかやらなくなっていた。
そしてわたしが勤務していた会社にもMacがやってきた。
アルダス社の「ページメーカー」というDTPソフトとAdobeのillustratorとPhotoshopが入っていた。
あとMicrosoftのExcelもこの時始めて使った。
1994年くらいの話だ。

その直後にその会社は辞めた。
だからDTPやillustratorは少ししか触らなかったがその凄さは十分体感できた。
写真のアタリが、コピー機でいちいち拡大縮小してそれをはさみでチョキチョキ切らなくても画面の上で自由に出来る。
写植屋に文字組を発注しなくても綺麗なデザインカンプが作成できる。
ただしプリンターはモノクロなので、カラー出力は近所の「出力屋」でけっこうな料金でプリントだ。

それよりさらに驚いたのはExcelの便利さ。
Excelは計算を間違わない。
当時リゾート施設の事業計画、投資回収計画をつくっていた。

Excelを使うと与条件を変えて数パターンの計画が瞬時に出来る。
電卓とワープロで一週間徹夜続きの作業が数時間で出来る。

わたしは衝撃の体験を少しした後に某弱小コンサルタント会社に「トラバーユ」した。

新職場では、また違う種類の衝撃がわたしを襲った。
そこにはMacはもちろん無かった。
古いDOS/Vパソコンとワープロ専用機があった。
DOS/V機にはロータス1-2-3が入っていたが誰も使っていない。
見積や企画書はワープロ専用機を使うらしい。
ちなみに請求書は複写式の手書き。

コンサルタント会社なのでクライアント企業の事業計画を作る仕事は当然ある。
だがこれも電卓とワープロ専用機で作業。

わたしは、やっと自動小銃が実用化された世界において再び火縄銃で戦うことを命じられた一兵卒になった。

過去数十年から現在に至るまで、技術革新は地方の中小企業にも大きな影響を与えている。
だが、これまでは火縄銃が連発銃になり自動小銃になるくらいの変化だった。
しかしこれからは個人でも無人ドローンや肩打ち式地対空ミサイルを駆使して敵の大軍を向こうに回せるようになる。
オヤジが独りで切り盛りしているような田舎の八百屋でもラーメン屋でも技術革新の大きな影響が出始める。
肩打ち式地対空ミサイルの調達に失敗したラーメン屋は、それが原因で店じまいしなければならなくなるような時代がもうすぐそこまで来ている。

規制の厳しい日本はアメリカと違ってその手の変化が生じにくいが、閉鎖的である分市場の一部に歪みが生じてそこが意外な商機になりうる。

次回以降その辺りについて、もう少し具体的に考えたい。
posted by ヤス at 12:11| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月23日

早く飛べ、先進技術実証機

防衛装備庁が三菱重工に開発委託している先進技術実証機Xー2の初飛行が、当初予定の2月から3月に延期された。
最近の新型機開発はスケジュールが遅れるのがお約束になっている。
またXー2は正式配備の予定もなく、数百時間の試験飛行を完了すればプロジェクトは終了である。
だから民間機のMRJの延期と違って関係者はそんなに焦っていないに違いない。

Xー2の後にいよいよ実用国産戦闘機の開発を期待する声も上がっているが、年間防衛予算5兆円の日本が総開発費が2〜3兆円、下手をすると5兆円以上掛かる新型機開発に単独で乗り出せるとは思えない。
おそらくアメリカとの共同開発になり、そこにオーストラリアやヨーロッパ、アジアの同盟国が乗っかる形になるのだろう。

その時にXー2の開発経験が活きてくる。
日本の得意分野は炭素複合材を代表とする素材技術であろう。
非金属素材はステルス技術的にも有利なはずで、より高度なステルス化も含めた機体まわりの技術についてはかなりのアドバンテージを発揮できるのではないか。

また自動車大国でもある日本は、もう何年も前から自動車の強度計算にスーパーコンピューターを活用しており、その成果は車体の軽量化や衝突安全ボディの実現に活かされてきた。
このあたりのノウハウもかなり役に立つと思う。

一方で日本の弱点は高出力の戦闘機用エンジンであると言われる。
今のところ国産エンジンで第一線の戦闘機に使えるスペックのものはまだ出来ていない。
だがおそらくそれ以上に日本にノウハウがないのはソフトウェア技術である。

考えてみるとゼロ戦の昔から、日本の兵器開発の弱点はシステム指向の意識の希薄さだったように思う。

戦闘機というのは戦闘システムの一部であって、目標地点近くまでミサイルを運搬するための運送手段である。
大昔は索敵、目標選定、照準して攻撃、の一連の流れを前線の戦闘機が全部自前でやっていた。
だから戦闘機には敵を上回る性能が求められていたのだが、今は地上のレーダーサイトや早期警戒機やイージス艦や軍事衛星などが周辺業務をかなり分担する。

昔、ゼロ戦の単機としての戦闘能力がアメリカ軍を上回っていた時の日本軍は強かったのに、戦争末期にBー29が飛んでくるようになったときには、レーダー網などの警戒システムを整備してシステマティックな迎撃体制を構築すべきであったのにそれが出来ず、相変わらずパイロットの個人技量に依存した戦い方しか出来なかったのが日本の実績である。

そして戦闘システムの構想開発とそのためのソフトウェア開発技術についてはやはりアメリカが数段上にいる。

ということで相変わらず先進技術実証機の存在意義についてはなんだか中途半端な感じがして少し心配なのだ。
まあとりあえず、無事に初飛行しているのを早く見てみたいというのは確かなのだが。

などと思った。
posted by ヤス at 11:17| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月22日

民主党は嫌いでも、


少し前に民主党のポスターのキャッチコピーがニュースになっていた。

「民主党は嫌いだけど、民主主義は守りたい」

というのがそのコピーである。
言うまでもなくAKBの前田敦子の名台詞「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」がネタ元である。

前田敦子がこう言ったのは2011年のAKB総選挙のことであったらしい。

前述の民主党のキャッチコピーに対しては、たくさんの批判のコメントが寄せられていた。
一方で賛同する意見はまったく見かけなかった。
あるいは、日本中で一人や二人は応援していたのかもしれない。
が、とりあえずぱっと見の評判はすこぶる悪い。

批判の意見の主な趣旨は、前田敦子は総選挙で一位になってあの台詞を言ったのであり、ズタボロの民主党がパロディするのはかなりの勘違いである、というもの。

だがわたしには民主党のこのコピーを考えた担当者の気持ちがなんとなく分かるような気がする。

民主党は、要するに自民党に対する批判票の受け皿になりたいのだろう。
それも、場合によっては民主党でなくても、自民党以外ならどこにでも入れてくださいという低姿勢なのだ。
たぶん。

自民党はこれまで特定機密や安保法制、あるいは原発や沖縄問題などにおいて、国民大多数の民意を反故にしてきた。
あるいは閣僚たちの数々の失言、政治と金の問題にも関わらず、メディアに対する高圧的な態度を続けて反省の色が見えない。
少なくとも民主党はそのように考えている。

このような自民党の反民主主義的な政治手法に対し、多くの国民が危機意識を持っているに違いない。
と、民主党は考えている。

だが、今のところこれら国民の投票の受け皿が見当たらない。
おそらく現在の民主党や維新の党には投票しにくいであろう。
しかしそこのところを、民主党でなくても、共産党でもおおさか維新でも民社党でも自民党以外ならどこでもいいから批判票を投じてほしい。

そういう思いではないか。


そしておそらくそういう消去法的な投票呼びかけの意識構造が、民主党のものすごくダメなところだと思う。

企業や国家組織に依拠しない市民個人を土台に置いた日本社会の再構築や、為替メリットも資源安メリットも企業セクターがせき止めている今の経済構造を改革するというポスト資本主義的な政策軸が今必要だと思う。

自民党に反対しよう、というのはいい加減止めて、民主党に賛成しよう、という方向の打ち出しが絶対に必要なのだ。
そしてそのための政策の軸はそこら辺に転がっている。

もう手遅れのような気も若干するが。
posted by ヤス at 11:43| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月21日

丸山発言

先週の17日に開かれた憲法審査会での丸山参議院議員の発言が問題になっている。

いくつかの報道を見たけれど、この発言そのものは差別意識などに基づいて発せられたものではないようである。
どちらかというと、アメリカという国に対する憧憬や極端な畏敬の念が原因となって出てきたもののように読み取れる。

わたしは丸山議員の支持者でもないし、初めて報道を耳にしたときは、また失言が出たかと多少呆れた。
だが発言の前後の内容を読む限り、丸山議員は黒人に対する差別意識を持っていないことはまあ理解できるのである。

ただし過去の失言報道に鑑みても、この手の発言は部分的に切り取られてひとつの極論として世間に広まる傾向がある。
発言に際してそういう注意深さは当然必要な場面であったと思われるが、丸山議員の中ではアメリカへの尊崇の念があふれかえっていてそれどころではなかったと見える。

むしろ彼の発言で問題とされるべきは、話の前段のもし日本がアメリカの51番目の州になったら、という例え話の部分であろう。
日本がアメリカ領になったら日米安保問題も拉致問題も、破産寸前の日本の財政規律問題もすべて解決できるのではないか。
それどころか、(アメリカに属した後の)日本は、上院・下院とも最大の議員選出州になる可能性が高い。
したがって日本州から大統領が輩出される可能性もまた高い、そうである。

わたしは、今の日本の政府与党のあり方については大いに意見がある。
可能ならば、今のアメリカ依存の体制から、もっと欧州や中国、ロシア、アジア諸国と等距離になる方向で外交努力がなされるべきだと思う。
アメリカは現状頭一つ抜けた「超大国」であるとは思うが、政治においても経済においても「アメリカ式」が今後何十年も続けて通用するとは思えない。
当のアメリカの政治家も、その多くがアメリカ式の限界について考え初めているのではないか。

そこへきて、この日本がアメリカの51番目の州になる発言。
今更の日本のアメリカへの一体化の発想に、ものすごく時代錯誤を感じる。

まあこの話がある種の自虐ネタで、そのオチは日本州が大統領選出州になって結果日本が世界を牛耳ることが出来る、ということなのかもしれないが、それはそれでアメリカをバカにしている。


丸山議員は、人種差別を乗り越えてきたアメリカは素晴らしいという発言だ、と言い訳している。
そして彼の発言内容からはその趣旨は読み取れなくもない。

ただしもう一段彼の深層心理を掘り下げたときに、何かもう少し違ったアメリカへの複雑な感情があるような気がするのである。
posted by ヤス at 10:59| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月20日

相手と自分の都合

相手の立場に立って考える。

というのは、言うのは簡単だが実際にはかなり難しいことが多い。
まず当たり前だが、自分は相手ではない。
相手の状況や思い、そこに至る経緯などは、どちらかといえば分からないことの方が多い。

例えばお店の店員さんが初来店のお客さんの応対をするときには、お客さんの性別、歳格好や商品を見て回る仕草などからその状況を瞬時に推測し、適切な「一声」を掛けたり、とりあえず泳がせておいたり、ということになる。

だいたいにおいて相手の立場に立って考える作業は、ごく限られた既知の情報から相手の置かれた状況を推測し、その中で相手の希望要望を考えるという手順を踏むのだと思われる。


ちなみに、電器屋巡回を趣味とするわたしも売り場を歩いていると数限りなく店員さんから声を掛けられる。
だがなんというのか、わたしのフィーリングに心地よくシンクロするような声掛けはめったにない。
ほぼ9割以上の声掛けはややうざい、もしくはすごくうざい。

ものすごく一方的なのである。
例えばカメラ売り場で展示のカメラを見ている場合。
「カメラをお探しですか?」とくる。

もちろんわたしはカメラを探していない。
買う気もない。
買う金もない。

だから「見ているだけ」と応える。

だが一部の強者販売員はこれで引き下がらない。
カメラのスペックの説明を延々まくし立てたりする。
あるいは、店員が終始圧迫的なセールストークを展開することによって、買う気のなかったお客さんが最終的には買って帰った、という押し売り的な成功事例があったりもするのかもしれない。

だがそれにしてもだ。
世の中、横綱白鵬でさえ立ち会いに変化技を見せるご時世である。

全員ではないにせよ、ほとんどの声掛けは自分ペースでこちら側のようすを探るような質問がないのは問題だ。
こういう店の店員には、客に合わせるという考え方はないのだろうか。

おそらく店員の側にも事情はある。
たぶんノルマもあるのだろう。
ひょっとしたら声掛けの数もカウントしていたりするのかもしれない。

お客さんの事情も事情だが店としては売れないといけない。
だがその面が少し勝ち過ぎていないか。
店側の立場が前に出過ぎていないか。

本来はお客さんの状況を汲み取って、最適な対応を返すことが店にとっても合理的な行動のはずである。
だが、明らかに「売らんかな」の焦りが見え過ぎている。



若い女性店員の場合は、あるいは例外になることがあるかもしれない。
若い女性店員の場合、多少一本調子の声掛けであったとしても、寂しいおじさんの心を癒してくれるという効果においてお客さんのニーズに沿っている。
下手をすると、結果として新型カメラの箱をぶら下げて店を出る、ということになるかもしれない。

だがそれにしても、彼女のカメラの説明がもし痛いレベルだと、適当なところで話を切り上げていかざるを得ない。

まあお店の例だけにとどまらず、相手の立場を汲み取れていない状況は、自分自身も含めてたくさんあるんだろうなあ、と少し思った次第である。
posted by ヤス at 14:22| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月19日

同一労働同一賃金追記

一昨日書いた同一労働同一賃金についての追記。

現在の日本の企業社会では、同一労働同一賃金の実現は難しいと思う。

たしかにプロスポーツ選手とか運転手や料理人など、仕事内容の標準化が相当程度進んでいて業界内の人材流動化が活発な職業では、既に同一労働同一賃金的な仕組みがほぼ機能している。

介護福祉業界では人材不足で大変みたいだが、この業界なんかもそうだろう。


しかしそれ以外の仕事、例えば営業職について考えてみると、営業職の仕事内容というのは会社によってまちまちであろう。
新規の飛び込み営業とかルートセールスとか、物販とか保険などのサービス販売とか、いくつか類型化すればその仕事内容を標準化出来るのかもしれない。
実際、車の営業や保険セールスとか、特定の業界内ではある程度仕事内容が標準化されており、会社間の人材移動もあるだろう。
そうしてみると、営業職においては同一労働同一賃金が機能しうる余地があるのかもしれない。

しかし、小規模の会社であれば営業職が営業だけやるというのは難しく、商品開発やら現場施工やら経理事務やらいろんな仕事をやっているのが実状であろう。
場合によっては、5人くらいの小規模会社では全員が「何でも係」で、それぞれの得意技によって少しずつ仕事内容が違う、みたいなのが実情に近いのではないか。

わたしもかつて零細会社でサラリーマンをしていたときは、営業と制作と仕入管理とその他雑用をやっており、名刺の肩書きはずっと空白のままだった。

こういう状況では「同一労働」の定義付けがものすごく困難になる。



今進められている同一労働同一賃金の議論は、非正規雇用者の正規雇用化、または非正規雇用者の賃金嵩上げが大きな目的であるように思われる。
あるいは、非正規問題と一部重なる話ではあるが、女性の男性に対する賃金格差是正もあるのだろう。
だが前回言ったように企業は利潤追求が第一なので、格差がある程度解消しても、総人数を減らすとか給与水準の基準値を下げたりして総人件費の増大を押さえにかかるだろう。

だからどうやっても賃金の総額は増えない。


一方でプロ野球選手のようなきわめて特殊な専門職として、例えばマーケティングのプロを臨時に雇って売上拡大を図ったり、商品開発の手練れを招いて今までにない商品を作る、というようなことはもっとあってもいいような気がする。
そういうのは労働市場のごく一部の話になってしまって同一労働同一賃金的な話からはだいぶ遠ざかるが。

いずれにしても法規制で可能なのは格差をある程度是正することであって、実質賃金の拡大は企業の原理として無理なので、変な期待を抱かない方がいいと思う。
posted by ヤス at 11:37| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月18日

共感能力について

女の人に比較的多いように感じるのだが、映画や小説やテレビドラマ、時にはマンガを読んだときなんかでも感動して泣いた、という話を聞くことがある。
おおよそ泣くタイプの人は、悲しい場面や歓喜のシーンの別に関わらずしょっちゅう泣いている印象がある。
そういえば俳優の西田敏行も探偵ナイトスクープでいつも泣いている。
男でもある程度年をとると涙腺が緩むらしい。

もう何年も前に知り合い数人で地味に宴会をしていたとき、突然約一名の妙齢の女子が何の脈絡もなく号泣を始めて驚いたという記憶がある。
まだ酔ってみだれるというほどに飲んでもいないのに。
その女性はデザインを生業にしているクリエイターで、横にいた彼女の旧友が言うには「こいつは昔からなんか思い出して直ぐに泣く」とかなんとか言っていた。

また最近見る女性アイドルのテレビ番組なんかでも、ひとりの女の子が泣き出したのを受けて泣かなくていいやつまで泣き始めるシーンが、これもよくある。


もう何年もの間泣いたことがないおじさんには、このあたりのメカニズムがよく理解できない。

人間は社会を構成して生きる生き物であり、社会を維持するために相手の気持ちを汲み取る「共感能力」が必要なのだろう。
たぶん。


ただ小学生の頃だったか、友達が右腕(左だったかもしれないが今回は左右の別は関係ない)を擦りむいて血を流しているのを見て自分の右腕がむずがゆくなって、なんか嫌な気分を味わった、というような記憶がある。

痛かったり悲しかったり、そういう負の体験をしている他人がいると、見ているこちらも妙に共感して痛かったり悲しかったり同じ方向の感情が湧き起こる。
子供の頃にはわたしにもそういう時代があった。

そんな負の感情が嫌で、無意識のうちになるべく共感しない方向で自分を抑制していたのだろうか、と、ふと思ったのである。


よく泣く人に対しては、少しうらやましいようでもありまた泣いてばかりは面倒くさいよなあ、とかいろいろ感じる。
映画とかの監督、俳優や、画家、音楽家などなどの表現者においては、過剰なまでの共感能力が才能に直結していることもありうるとは思う。
一方で、他人の情動をクールに俯瞰するタイプのクリエイター、というのもありな気がする。


この文章を書くに当たっての第一の興味は、もう何十年も泣いていないここにいるおじさんの共感能力は、例えば日本人の共感能力分布においてどの辺に位置しているのか。
高いのか、低いのか。

だったのだけれども書いているうちにまあどうでもよくなった。

しかし、共感能力というものはなかなか興味深い。

人間の「感情」と「理性」のバランスは、どちらを欠いても上手くいかないのだろう。
広告企画とかマーケティングとか、それらのバランスが微妙そうな職業ではどうなのか。
それらについて考えたいが長くなったのでまた今度にする。(たぶん)
posted by ヤス at 14:24| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月17日

同一労働同一賃金

同一労働同一賃金についてのニュースを最近目にする。
わたしは日本においては同一労働同一賃金の法制化は難しいのではないかと思っている。
というか、今のところはどちらかと言えば反対の考えである。

同一労働同一賃金は、国際労働機関(ILO)憲章に掲げられており基本的人権のひとつとして謳われているらしい。
このことが推進派の論拠として大きな土台になっていると思われる。

ILO的な考え方には、賃金決定における男女差別や年齢差別などを廃絶しよう、というのがあるのだろう。

特に戦後日本は終身雇用の労働慣行のもと、結婚や出産で途中離脱しない男性を偏重し、会社への忠誠を煽って年齢や勤続年数に重きを置いた賃金決定が主流であった。
ところが2〜30年前頃から世の中の変化スピードが尋常ではなくなってきた。
企業では環境変化に対応するために、組織体制を時々がらりと刷新する必要が出てきた。
従来のように、ずっと固定的であった業務内容に合わせて特化・固定化していた組織体制では持たなくなった。

こうして終身雇用が相当程度壊れていき、人材の流動化が進み、非正規雇用の増加にもつながった。
このような中で同一労働同一賃金問題が浮上してきたのであろう。

特に日本では非正規雇用問題が大きいのだと思う。

非正規雇用者の増加が実質賃金の低下につながっており、貧困層の増加の大きな要因になっている。
だから同一労働同一賃金で非正規雇用者の賃金を上げよう。
あるいは非正規雇用者の正規雇用化を促そう。
そういう考えなのだろう。

しかし企業が支払うことの出来る人件費原資は、同一労働同一賃金導入で増加するわけではない。
法律が実現したとしても、企業側は知恵を絞って総額人件費が増加しないように血眼で工夫するだろう。


今の日本にも同一労働同一賃金的になっている業界がいくつもある。
運送業界のドライバーとか、外食業界の料理人とか、プロ野球やJリーグなんかもそうだろう。
これらの業界に共通するのは業界内における人材移動が活発なことである。
ドライバーや料理人の世界では、給料を払う会社によっていくらか差があるかもしれないが年齢や性別はほとんど賃金に影響していないと思う。(統計データを見た訳ではないがたぶんそう思う)
しかし、トラックドライバーの給料相場はこの20年くらいでものすごく下がったと聞く。

たぶん同一労働同一賃金には、日本の総額賃金を底上げするような力は無い。

しかし一方で、賃金の男女格差、年齢格差を適切にしていくことは必要だ。
だがこの問題も、企業社会における利潤低下や人材不足などによって自然と是正される方向に向かうような気がする。
あるべき労働法制は、そのような流れを促進する方向で存在すべきではないかと思う。

この問題については勉強不足で知らないことが多い。
もう少し掘り下げて調べてみたい。
posted by ヤス at 10:48| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月16日

セロトニントランスポーター遺伝子

ちょっと前にネットニュースで見かけたけれど、「セロトニントランスポーター遺伝子」というのがあるらしい。
セロトニンは人間の脳内で分泌される物質で、不安を和らげ気持ちを平静に保つ役割を果たすという。

で、セロトニントランスポーター遺伝子は、このセロトニンの働きを左右する遺伝子であるらしい。
セロトニントランスポーター遺伝子には3つの型があって、セロトニンの働きを活性化して不安に強いタイプ、不安に弱いタイプ、その中間とある。
衝撃的であったのは、アメリカ人の三分の一は不安に強いタイプの遺伝子を持っている一方で、日本人は不安に弱いタイプが逆に三分の一で不安に強いタイプは3%しかいないらしいということ。

アメリカ人は遺伝子レベルで不安に強いタイプが多く、したがって各種のベンチャー企業が生まれたり新しいテクノロジーが次々に誕生している、ということなのだろうか。

ここでひとつ疑問が沸き起こる。
アメリカは人種の坩堝で、西欧人もアフリカ系もアジア系もヒスパニックもいる。
ならば遺伝子はある程度多様性を保っていても良さそうなものだ。

この疑問に対しては以下の想像が成り立つ気がする。
かつてのフロンティアだったアメリカ大陸には、とりわけヨーロッパ辺りからリスクを厭わない冒険野郎を中心にたくさんの人々が押し寄せた。
その結果としてアメリカ大陸のセロトニントランスポーター遺伝子は、リスク指向の濃度が高まった。
と思ったりした。

その理屈で言えば、日本人の遺伝子は長い長い島国生活の中で、心配性で攪乱行動を起こさない遺伝子タイプがより多く生き残り、冒険野郎タイプは早死にしてどんどん少数派になっていった、ということになるのか。

まあ、このセロトニントランスポーター遺伝子の話がどこまで正確な情報なのか分からないのだけれど、もしこれがある程度事実なら、日本の明るい未来に向けた具体的な対策のヒントになるような気もする。

日本は他国に比べて自殺者が際立って多かったりするわけだが、セロトニンのコントロールというレベルでのメンタルケアの対策などがあっても良い。

遺伝子のタイプで人間を区分したりというようなことは厳に慎まなければならないが、過剰なクレーム社会とか、自殺者の減少とか今の社会問題のさまざまな部分で参考になるのではないかと思った。
posted by ヤス at 12:30| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月15日

紙の需要減

時々、官庁関係とかの会議や説明会に出席する。
出席するとだいたい紙の資料が配られる。
多いときはA4で20枚や30枚くらいで両面刷りの資料がホッチキス止めで出てくる。
今はコピー機に自動ソーターとホッチキスの機能が付いているのが当たり前だから、100人くらい参加する会でも資料の作成はあっという間に出来るのだろう。

でもああいう資料はほとんどの人が速攻で廃棄していると思う。
中には会議の資料は必ず机の上に置いて帰る、という人もいるらしい。

わたしも紙の資料は基本なるべく早く捨てたい。
近頃は会議主催者のウェブサイト上に紙と同じPDFファイルがだいたい置いてある。
なんなら机の上に置いて帰っても差し支えあるまい。


今、出版不況で紙の書籍は発行部数がどんどん減っている。
なかでも減りようが激しいのが雑誌であるらしい。
雑誌は厚みは薄いし写真が多くて気軽に読めるのが多い。
世間で喧伝される「若者の活字離れ」とちょっと話が合わない気がするけれど、たぶん雑誌のような情報内容はインターネットに移っているということなんだろう。
実際、紙版を廃止してウェブ版オンリーになった雑誌もいくつかあるようだ。


さっき日本製紙連合会というところのデータを見ていたら、国内のここ数年間の各種の紙の需要推移が出ていた。
予想通り印刷用紙関係は年率数%のマイナスで、一方包装用紙やダンボール用紙はコンマ何%かの微増になっていた。
新聞用紙とかは2007年には370万トンあったのが2015年には300万トンまで減っている。
恐ろしい減りようだ。

紙全体でも2007年3170万トンが2700万トンくらいまで減っている。
8年間で約15%減。


会議における大量の紙の束を見るたびに、ペーパーレス化は進んでいるのかなと少し心配してたが、事実として紙の使用料、生産量は確実に減っているらしい。

仕事で流入する紙の束の処分に難儀している身としては、少しほっとするような事実である。
だが一方、印刷業界とか出版業界とかの紙関連業界の人たちには少々厳しい話ではある。

アップルのiPadが登場したのは2010年のことだったらしい。
ペーパーレスの一翼を担うべく期待されたタブレットであるが、一台数万円以上の電子機器では一枚2円とか3円の紙を代替するのはまだ難しいと思われる。

したがって会議における紙の資料は当分無くならないのだろう。
いつの日か紙の束をせっせと廃棄する作業から解放される日は来るのだろうか。
posted by ヤス at 15:04| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月14日

トレーニング効果

市民ランナーでかつ日本のトップランナーでもある川内優輝選手は、高校時代は強豪の埼玉栄高校に行った。
だがハードな練習で故障がちになり、満足な成績をあげることが出来なかったそうだ。
大学は弱小の学習院大学に入った。
学習院大学はあまりに弱小で駅伝チームを組むためのメンバーがぎりぎりしかおらず、そのためチームの監督はいかに故障者を出さないか、ということに苦心していたらしい。
だから練習は高校時代に比べるとかなりぬるく、ほとんどジョギング中心であんまり速く走っているとペースを落とすように声が飛んだ、ということが本屋で立ち読みしたその監督が書いた本に書いてあった。


スポーツの練習は、ある意味故障との戦いである。
2004年のアテネ五輪で金メダルを取った野口みずき選手も、五輪に向けて月間千キロを超える距離の走り込みを行ったそうだ。
結果金メダルを取ることが出来たが、そのためには故障をするかしないかのギリギリのラインまで追い込む必要があったわけで、たぶんそのせいだろう、アテネ以降の野口選手は故障の連続で満足な成果を出せていない。

トレーニングというのは、やると疲れる。
疲れたうえで休息し、一定時間が経過すると超回復して前以上にパフォーマンスが向上する。
オリンピックに出るようなトップアスリートは、それをギリギリのレベルでやっている。

だが大切なのは、トレーニングで追い込んで疲労することよりも、休息して疲労を取る部分の方だろう。


スポーツと同様仕事でも、あんまり過重に労働すると疲れる。
今はお年頃の関係でほとんどやらないが、20代の頃は徹夜仕事も普通にあった。
だがそういう過激な労働スタイルは、長く続かない。
少なくとも適切な疲労回復サイクルによって疲労が蓄積しない範囲でしか継続できない理屈だ。

年をとって疲れやすくなるとそういう当たり前の事実に気付かされる。
それにトレーニング効果というのはわりかし小さな負荷であってもけっこうなパフォーマンス向上をもたらす。

毎日腕立て伏せを10回やるとか、毎日文章を300字書くとか、毎日本を10ページ読むとか、1日数分とか10分とかの小さな負荷でも効果はある。

長い人生においては、故障ぎりぎりのトレーニングよりそういう小さな負荷の積み重ねの方が効果が高い。
そういうことを最近思う。
posted by ヤス at 13:55| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月13日

執着心

少し前から断捨離なんていう言葉が流行っている。

日本の国が豊かになってだんだんモノが溢れるように増えてきて、それでちょっと困った、という人が増えているのだろう。
モノが溢れて家の中で邪魔でしょうがないなら捨てればよい。
しかし、いざ捨てようと思ってそのモノを手に取るとなんか心に「引っかかり」があって捨てられない。
わたし自身もそういうことが多い。

世の中には気持ち良いくらいにモノをスパスパと捨てられる人がいる。

モノを捨てられない人と捨てられる人の違いは何なのだろう。


わたしは写真が趣味で、というか「写真機」が好きで今でも数台のデジカメがうちに転がっている。
10年くらい前まではデジカメの代わりにフィルムカメラが転がっていた。
当時すでに実用的なデジカメが登場していてフィルムカメラはだんだん使わなくなっていた。
それでも年に数回、山に登ったり海に出掛けたりした時にフィルムカメラを持って行き、パチパチ撮影する事もあった。
だがフィルムは現像も面倒だしデジカメはどんどん高性能になるし、いつしかフィルムカメラは部屋の置物になり果てた。

全然使わないでいると、それはそれでなんだかカメラに対して申し訳ない気持ちが芽生えてくる。
部屋の置物になっていたニコンのカメラは、大事に使えば後20年くらいは壊れないで動き続けるだろう。
中古屋に売りに出せば誰かに買われて使ってくれるかもしれない。

そういうカメラに対する申し訳なさの一方で、これらのフィルムカメラを手放す事への猛烈な抵抗感があった。
あれは世間で言うところの典型的な執着心というものであろう。


人間生きていて何か事を成し遂げようと思ったら、それに対する執着心が必要だろう。
だが、世の中には適度で適切な執着心と、過剰で不適切な執着心があるように思われる。

商売でも、お店なんかを出すことがあったら何が何でも成功させるのだ、という熱い気持ちは大切である。
だが、諸般の理由でその店が上手くいかず撤退を迫られたとき、それでも続けると言うのか、あっさり撤退するのか、どちらが正しいかはやってみないと分からない。

何が何でもという成功への執着と、あっさり諦める執着の無さ、この相反する二つの面を自由自在に使い分けることが出来れば便利で良い。
世間の偉大な経営者と言われるような人は、この二面性を上手く使い分けているように見えるが実際どうなのだろう。


ところでわたしの部屋の置物のフィルムカメラは、ある時思い切って処分した。
その時はそれなりの寂しさを感じたような気もするが、売り飛ばしてしばらくすれば何という事もない。

これは捨てられないな、と思うような大事なモノ、そういうモノを捨てる事は、人生修養として時々やった方が良いのかもしれない。
などと思った。
posted by ヤス at 11:19| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月12日

予測することについて


今朝はまた急速に進みつつある円高ドル安を受けて、日経平均がだだ下がりになっている。
経験的に円ドル相場が1円動くと日経平均が300円〜500円動くことが分かっている。
だから今朝の日経平均の下げについては、あらかじめ多くの人が予見していたと思われる。

しかしこうなる一つ前の段階の日銀のマイナス金利導入発表時、この時は多くの人が今後はまた円安基調に戻ることを想像しただろう。
12月にまずドルの方が利上げして、さらに円が利下げしたのである。
ところが相対的に金利の下がった通貨の需要が減って相場が安くなる、という当たり前の予測を現実は裏切って、今このような状況になっている。

ただこの不思議な現象については多くの識者があらかじめ予想しており、昨年末からそういう記事はけっこう見かけた。

目下わたしがいちばんなるほどなあと思った意見は、3月に予定されていたアメリカの追加利上げが見送りになると多くの人が予想し始めたため、というものだ。

アメリカの景気が予想外に冷え込み、追加利上げは出来ないだろう。
それが世間の共通了解事項になっている。
大きなドル高要因が人々の「予想の中で」無くなったのでドル安に振れている。
その理屈がいちばんなるほどと思った。

まだ実現していない未来が現在を動かしている。


話は変わるが、経営における顧客満足の理屈の中に、「事前期待」という概念がある。
結果として購入した商品やサービスが同じでも、事前にその商品に対する期待が高いか低いかでお客さんの満足度が左右される。
商品を売りたい気持ちが先走るあまり、目一杯に商品のアピールポイントを流布する、時に誇大広告気味に宣伝していると、購入した人は思ったほどではなかったなと感じる。
逆に、たまたま何の期待も持たずに買ったものが少し良かったりすると、思いのほか満足が高まる。


どうも人間というのは、あらゆる場面で未来に起こる出来事を想像してしまう癖があるようだ。

未来についての想像は、中には論理的に緻密に予測されたものもあるだろうが、一方では普通の人々のなんとなくの希望的観測とかぼんやりした予感のようなものが圧倒的多数を占めるだろう。

そういう、人々の雑多な未来予測が現実に今を動かしている。
おそらく政府も日銀も、それぞれの立場でそれぞれの目的で人々の予測を動かそうと苦心しているように見える。

ちょっと前のネットニュースの見出しに「心配事の96%は現実に起こらない」っていうのがあったのを今思い出した。

人間は知らず知らずの内に未来を予測し、そのたびに一喜一憂する生き物であるようだ。
まあ出来ることなら無駄な心配はしたくないものだなあ、と思った。
posted by ヤス at 11:11| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月11日

無意識の力

人間というのは、無意識にかなり支配されていると思う。

たぶん無意識には理屈が無い。
なんとなくそのように感じて、その感じに追い立てられて行動が起こる。

例えば腹が減る。
何か食料を食べたいと感じる。
さて何を食べようかと少し意識する。
それで昨日はカレーを食ったなとか、今財布に3千円しか入っていないとか、目の前に吉野家があるなとかいろいろなことを意識して何を食べようかと意識で考える。

この場合の腹が減ったなと感じる寸前までの感じ、この辺が無意識領域にあたるのだろう。
腹が減るとさまざまな身体的な信号が発せられる。
腹がグルグル鳴ったり、ちょっとフラフラするような感じがあったりする。
そのような身体からの信号を意識が判断して「腹が減ったな」と思う。

食欲とかの本能的な欲求だと話があまり面白くない。
例えば人を嫌いになる場合。

誰かを嫌いになるのは、その人に会うたびに嫌な事件が発生したり、会話を交わすとストレスを感じたり、そういうマイナスの条件強化がだんだんなされてその人を嫌いになる。
顔を思い浮かべるだけで嫌な気分がする。

この場合嫌いになるプロセスは、意識による思考で進むわけではない。
この人は自分の人生にとってプラスの役に立たないから嫌いになるべきである、と思考した結果嫌いになるわけではない。
ただなんとなく、いつのまにか嫌いになっている。

この辺の理屈は、フロイトやユングや最近の認知心理学の本でも読めばもっと明解になるのだろうが、残念ながら現時点のわたしはそういう勉強は十分ではない。
だから勝手に頭の中で想像している。

おそらく、生き物的には無意識状態がデフォルトなのだと思う。
あるいはチンパンジーやゴリラなら、かなりの程度いろいろ意識しているかもしれない。
また犬や猫くらいの動物でも何か意識のようなものを持っているのかもしれない。

ただ人間の場合、意識を言語化することによって複雑な論理思考も出来る。

そうなったのは10万年前なのか2〜3万年前なのかはよく知らない。
ただ、複雑な論理思考をする「意識」が生まれたことによって、チンパンジーなどとも隔絶した複雑巨大な人類社会が作り出されたのは確かなことだろう。

しかし長い生き物の歴史上、意識の発生はまだ日が浅く、したがって生き物にとってのデフォルトの無意識の力は依然として大きい。

人間は、自分では意識的に振舞っているつもりでも、その実ほとんど「無意識」に突き動かされているんじゃないか、時々意識によって無意識に少々抗ってみるのが関の山なんじゃないか。

そういうことをふっと思ったので、意識の力により書いてみました。
posted by ヤス at 09:33| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年02月10日

対立軸の必要性

総務大臣が国会で放送法に基づく電波停止について言及したらしい。
法律に定める不偏不党の原則を守らない場合は電波停止もありうるそうだ。

わたしの個人的意見としては、公共の電波を使用する放送局も含めたメディアの主たる役割は権力監視であり、したがって放送内容はどちらかと言えば政権批判に偏っているべきだと考える。

総務大臣の言う不偏不党の中身、あるいは現実問題として放送局の不偏不党ぶりを誰がどのように評価するのかは今のところまったく不明である。
この問題をさらに突っ込んで議論するためには、そのあたりの評価の仕方についての具体性がないと話が進まない。

それにしてもこの発言から一日以上が経過して、さぞかし発言に対する批判が巻き起こるだろうと思ったのに、少なくともわたしが見たネット界隈はまったく静かだ。
ツイッターでは政権批判側の人たちがそれなりにつぶやいているようだが、当事者である放送局から批判意見が聞こえてこないのはかなり不気味だ。

少し前の時代、サメの脳みそのおじさんが総理だった頃にこんな発言が飛び出せば世論の袋叩きにあっていただろう。
その時代ならおそらく党幹部からも官邸からも発言主に対する教育的指導が行われたのではないか。
しかし今回の発言に関しては、これまでの流れからして政権中枢に対するリップサービスであるとさえ想像される。


現在の政権は、「経団連政権」と言ってよいほど上場大企業の意向が影響している。
政権は経団連から資金と集票で支援を受ける、お返しに政権は経団連よりの政策を実現する。
しかも経団連企業はどれも有力なメディアスポンサーであるので、政権は経団連を通じてメディアコントロールもしやすい状況にある。

このような「経団連政権」システムは言ってみれば大きな贈収賄の構造を構成しており、個人的には到底肯定しがたいものである。
しかしそれもわたし個人の意見だ。
経団連よりの政策こそが適切な日本の未来を導くのだ、という主張があってもそれはまあよい。

もっとも問題なのは、これに対する明確な対立軸を野党が提案していないことだ。
現政権の大企業視点の政策軸に対しては、個人視点の政策軸があるべきだと思う。
現在の円安・株高誘導一辺倒の経済政策は、個人視点で考えれば適切でなくなるだろう。
賃上げ対策にしても、今のように経団連企業に直接要請する方法は異様としか思えない。
日本の企業社会を経団連のくびきから解放し、若い企業が成長する中で結果としての賃金上昇が実現するのが正しいあり方であると考える。

今の政治家の中には、個別にはもっとよい対立軸のアイデアを持っている人がいると思う。
個人献金の仕組みなどを地道に整えて、たとえ最初は小勢力であっても、小さな芽から対立軸を育てていかないと将来が危うい。

現在の自民党は選挙の得票率も低く、消去法的な選ばれ方で現状を維持している。
いつの日かリアルな政権交代の選択肢が出現すれば、今より少しはまともになるのではないか。
posted by ヤス at 13:48| Comment(0) | 徒然なるままに