2016年01月28日

誰に何を謝罪しているのか

新年早々芸能界を震撼させるネタが続いたが、ここへきて少し前の事件を思い出させるニュースがあった。
ひとつは元兵庫県議の人が身柄を拘束された上で初公判に臨んだこと。
法廷で覚えていないを50回以上連発して裁判長に怒られたらしい。
事件発覚当時の彼の記者会見「騒動」も、はや昔の話になったように感じる。

また、STAP細胞の元理研研究員が手記を出版することを突如発表した。
ネットニュースに前書きが出ていたので一読してみた。
わたしは、彼女が必ずしも悪人であるとは思わない。
ただし、彼女が書いた論文の具体的な不正の状況、図表の切り貼りの方法などを知るに及んで、彼女が厳密な論理と客観的公正性が要求されるサイエンスの世界とはまったく異質で場違いの人物であると感じた。
そして、ニュース記事に出ていた前書きの文章中には、世間を大きく騒がせたことを謝罪するとあるが、論文執筆の不正そのものへの反省や悔悟の弁は無い。

「・・・私は誰かを騙そうとして図表を作成したわけでは決してありません。一片の邪心もありませんでした。
しかし、私の図表の提示方法は、常識として決められていたルールからは逸脱していると判定されてしまいました。不勉強であったことを、心から反省し恥じています。そして、・・・」

とある。


考えてみると、昔から企業の不祥事をはじめとした謝罪会見みたいなイベントは、絶えることなく定期的に生じている。
山一証券が会社消滅したときも、最後の社長が号泣会見して話題になった。
若貴ブームのときの貴乃花も、どういうわけか宮沢りえと婚約解消したとき、わざわざ会見を開いて説明した。

わたしは、世界における謝罪のありようをあまり知らないのだけれど、日本における「謝罪」はたぶん「世間に対する禊ぎ」なのであろうと思っている。
そこでは謝罪者が自分の行った悪事について、「ここがこのように間違っていました、損害を与えた誰それにこのような具体的なお詫びをして許しを請おうと思います」というようなことは言わなくていい。
それよりも世間に無様な姿をさらして赤恥をかき、頭を垂れて、何の反省かはよく分からないけれどとりあえず反省の心情を表現する。
その姿を「世間」が見て、もうそれくらいで許してやろう、となったら神妙に世間に復帰できる。

日本では個人も企業も、世間という共同体への深い帰属、村八分にされるのかされないのかという文脈の中で存在していて、そのシステムのひとつに謝罪がある、という気がする。

マクドナルドのカサノバさんの違和感たっぷりの謝罪会見も、彼女はそういう日本文化を頭では理解していたのかもしれないが身体表現としては上手く出来なかったのでないか、という点でやや同情する。

アメリカ人やフランス人やドイツ人とかは、いったいどんな謝罪をしているのだろうか。
そういえばフォルクスワーゲンの不正に対する謝罪はどんなだったのだろう。
今度調べてみようかな。
posted by ヤス at 11:55| Comment(0) | 徒然なるままに