2016年01月13日

経営計画、歪みのはじまり

さて、経営計画について書く。

経営計画はこの世に不要なのかといえば、たぶんそうではないと思う。
それなりに役に立つこともあるのではないか。

世の中から経営計画なるものをいったんすべて無くしたとする。
でも、すぐにどこかの社長が「なんか計画でも作ってみようかな」と言って作るだろう。
そもそも「計画」というのは、思わず作りたくなってしまう一面を持っていると考える。

それはたぶんゴリラよりもチンバパンジーよりもオラウータンよりも人類の方がずっと計画を上手に作ることが出来るからだと思う。
せっかく長い時間(300万年くらい?)かけて前頭葉の空間認識機能を磨き上げたのにそれを使わないのはもったいなさすぎるのである。

それと、マラソンで向こうに小さく見えるあの信号までがんばって走ろう、といういわゆる君原健二効果というのがある。(と、わたしは提唱している)
人間は視界に目標物を見ると思わず目指してしまう悲しい性がある。
カエルが動くものになんでも飛びついたりするのと同じだ。

その習性を活用し、来年1億円売りたいと思ったらその目標を常に視界に入れておくのはたぶん有効である。
おそらく、目標売上を決めてそれをなんとかクリアしたいなと思うような社長は、日頃から頭のなかであれやこれやの数字を思い浮かべている。
あとは頭のなかに浮かんだ数字を従業員に毎日訓示して嫌な顔されたり、PCからプリントアウトして張り出したり配ったりすればよい。
従業員も人類なので、目の前に目標が見えると思わず目指してしまう。
そこはカエルと一緒だ。

経営計画とは、本来そのあたりまでが本質的あり方なのではないかと思う。


しかし資本主義経済には、絶大なパワーを持つプレーヤーとして投資家と債権者というのがいる。
そこそこ元手のかかる事業を実現するためには、彼らから資金を拝借しないといけない。
そして資金を拝借するにはなにかもっともらしい論理的根拠が必要だ。

投資家と債権者は、資本主義にもっとも忠実な存在である。
というか資本主義そのものと言って良いだろう。
彼らには経済合理性以外の合理性は無い。
それは別に非難されるべきことではなく、そもそもそうなんだからしょうがない、そういう話。
カエルが動くものに飛びつくのと一緒だ。

で、本来ナイーブな存在であるべき経営計画が、彼ら資金の出し手に提示されたところから経営計画をめぐる四次元空間の歪みは始まる。

とりあえず、経営に関する計画のあり方は資金調達の担保代わりに使われるようになって少々ややこしくなったのではないか、というのがわたしの仮説である。
長くなったので続きは明日だ。(たぶん明日書くと思う)
posted by ヤス at 10:27| 徒然なるままに