2016年01月11日

山は動いている

武田信玄の旗指物に書いてある「風林火山」は孫子の兵法の一節であるが、最後の「山」のところは、「動かざること山の如し」の「山」である。

確かに山はそうそう簡単には動かない。
地震や火山噴火でブルブル震えることはあっても、いつの間にかあっちにあった山がこっちに移動したというのはあまり聞かない。

ただし、中学の理科で習ったとおり地球の地表面を構成する地殻プレートは年間5cmとか8cmとかのスピードでゆるゆる動いている。

年間5cmといえばけっこうなスピードである。

百年で5m、千年で50m、一万年で500m、一億年で5千km(!)になる。
山は自分が動いている自覚があるのだろうか。
たぶん山が動いていないと思っているのは人間だけで、山の方は地球的スケールの感覚で考えているので何か感じているのかもしれない、という気がする。
山の感覚は人間のそれに比べてあまりにスローなので、人間にとっては動いていないも同然なのだ。


さらに、である。

中学理科の時間に、地球は太陽の周りを公転しており、また北極から南極を串刺しにする軸を中心にくるくる自転していると習う。

自転によって地球の地面がどのくらいの速さで動いているのかは計算出来る。
地球の赤道の長さはぴっちり4万kmである。
日本は北緯35度くらいなのでこの部分のぐるりは赤道より短くてざっと3万2千8百kmくらい。
このぐるりが24時間で一回転するので32800km÷24H=時速1365km。

海抜0mの音速(いわゆるマッハ)が1225kmというから、1365kmはマッハ1.1である。
ステルス戦闘機F35に匹敵する速さだ。

さらに、ウィキペディア情報では地球太陽間の距離は1億4960万kmらしい。
ということは地球の公転軌道の長さは9億3950kmになる。(と思う)
これを365日かけて一回転するので1日257万km進む。
257万kmを24時間で割ると時速10万7千km。
これはマッハ87.5にあたる。

時速270kmの新幹線の400倍。
わたしが全力疾走すると時速27kmは出ると思うがその4000倍。

なんだか速いのか遅いのかよく分からなくなってきた。

さらにさらに、太陽系が所属する銀河系もたぶん猛烈に動いている。
どっちに向いて動いているのか知らないが。

そういうことで、山も地面も恐るべき速度で盛大に動いている。

振り落とされないように頑張ってしがみついておかないといけない。
posted by ヤス at 13:41| 徒然なるままに

2016年01月10日

ピークの高さより安定感

プロの仕事とは、ということについての論点はいくつかあると思う。
価格付けなどお金の面、仕事の品質はどうあるべきか、あるいは組織論や進め方などの方法論的な見方もある。

で、仕事の成果の安定感がけっこう重要なんじゃなかろうかと、ふと思ったのである。

先日本屋で立ち読みした本に、マラソン選手で市民ランナーの星である川内優輝選手の大学時代の監督が書いたのがあった。(本は買って読みましょう)
その監督が言うには、マラソンの練習で大切なのはとにかく故障しないこと。
彼が監督する学習院大学の長距離陣は、そもそも駅伝チームを組むためのギリギリの人数しか部員がいない。
だから一人でも脱落すると駅伝に出場できなくなる。
そういう事情のところに川内は入ったわけだが、強豪高校で猛練習して故障がちであった川内は、びっくりするほど楽な環境の中で故障しなくなり、かつ、その才能を開花させていったんだそうな。

その監督が言うには、マラソンに必要なのは一定のペースで最初から最後まで押していくこと。
そして日頃の練習の目的は、レース終盤にバテバテになった最低状態の時のペースを底上げすることにあるのだという。

マラソンというのは、最初の方でいくら快調に飛ばしてもラスト4km、5kmでブレーキが掛かると前半の貯金分を簡単に食いつぶしてさらに何倍もおつりがついてくる。
ランニング愛好家のレジャーとしてのマラソンであれば前半をそろりそろりとスタートしてペースの調整も自由にできるだろうが、勝負の掛かったシリアスランナーの場合そうもいかない。
競合とのペースの駆け引きをやりながら、終盤バテてブレーキの掛かった状態でどこまで速く走れるかが問題になる。


マラソンとお金をもらってやる仕事はもちろん単純比較はできないわけだが、悪条件が重なった時にどこまで粘れるか、そしてその中で合格点の結果をひねり出せるか、というような特性は、ジャンルを問わず強い競技者の条件であるように思う。
野球のピッチャーでも真のエースは、調子の悪い時の投げ方、勝ち方を知っているっていうし。

人間ややドツボにハマると、ホームラン狙いの大振りをしがちになり、成果のピークの高さを欲しがる傾向があると思う。
しかし長い目で見るなら、成果の谷底を一定以上のレベルに底上げすることの方がたぶん大切になる。
そのように、悪条件でも一定以上の成果を出せるのがプロの仕事といえるのではないか。


ということで、42kmの最後の5kmのドツボ状態をどう粘るかが、今のわたしにとっての最大の問題である。
posted by ヤス at 09:57| 徒然なるままに

2016年01月09日

派手な人と地味な人

人間のタイプ分けにはいろいろあるが、地味な人、派手な人という分け方があるよな、とふと思った。

よくニュースなんかで犯罪の容疑者のことを近所の人にインタビューして、そんなことをする人には見えなかった、という定番のパターンがある。
まあ人間分類するときどんな場合でも言えることだが、人間性のあらゆる面において派手であるとか、地味だとか言うことはなかなか出来ないわけで、どんな人にも派手な部分、地味な部分はある。
自分が持っている派手要素・地味要素のうち、多くの人に見せる側に派手要素があると、その人は派手な人だということになるのだろう。

ところで派手な人というので思い出すのは大阪のオバチャンである。
別に大阪のオバチャンという個人が存在するわけではなく、その点注意が必要だが、テレビの世界とかにおける共通了解として大阪のオバチャンは派手だということになっている。
そして派手のシンボルとして大阪のオバチャンはヒョウ柄が好き、というのがある。

ヒョウ柄から連想して野生動物の世界に立ち返って考えてみると、生き物が派手であるというのは、ひとつには威嚇の意味、もうひとつはセックスアピールということがあると思う。
肉食動物と草食動物が混在するサバンナにおいて、補食・被捕食のせめぎあいでは両者とも地味に環境に溶け込んだ方が都合が良い。
捕まえる側が派手で目立つと獲物に察知されて逃げられる。
獲物の方も当然、捕食者に見つからないに越したことはない。
しかしたとえばライオン同士の縄張り争いとか、オスがメスを奪い合って喧嘩するとかいうときは、派手で立派な方が喧嘩が強そうに見えて有利になるのではないか。

そうやって考えると、その生き物が派手である、というのは同種族内での勢力争いに関係しているような気がする。

人間社会におけるこの手のアピールとしては、単に喧嘩が強いとか女にもてるとか以外にもう少し複雑なものがあって、例えば私仕事が出来ますとか、センスが良いのよとか、カネ持ってるぞとかいろいろある。
社会的に優位な位置を占めるためには、自分の持てるモノを積極的にアピールした方がいいとなって、それが派手な人の印象につながるのかもしれない、と思う。

一方で、テレビで見ると派手で賑やかにしゃべる人が、プライベートではものすごく地味というのもたまに聞く話であり、人間性の派手とか地味とかは一面的に語れないものがある。

ところでヒョウ柄の大阪のオバチャンは、あの派手な格好でいったい何をアピールしているのだろうか。
ワタシは大阪のオバチャンよ、っていうのを全面的にアピールすることで、買物の値段交渉とか空席のない満員電車とかで有利になることがあるのだろうか。
そのへんはよく分からない。
posted by ヤス at 15:32| 徒然なるままに

2016年01月08日

表情が語ること

誰が言ったかしらないが、男の顔は履歴書だという。
人の顔の表情とか雰囲気には、おそらくその人のそれまでの人生が刻まれているだろう。
そんなことをうすぼんやりと考えながら今朝道を歩いていて、すれ違う人の顔をながめてみた。

それらの人々はたぶん100%見ず知らずである。

すれちがう人の顔をながめてみて思ったのは、履歴書というほどにはその人となりは全然わからないなあということ。
まあ知らないんだから当然だ。

それよりかは、朝のおそらく出勤途中だったであろう人々の顔には、出勤にともなう緊張感というのか、たぶんそんなに楽しそうでもなく、しかしほどほどに前向きな、そういう朝の時間帯共通の表情があるような気もした。


人間の顔の表情というのを考えると、これはおそらく言語が登場する以前はコミュニケーション手段としてものすごくウエイトが大きかったのではないかと想像する。
人間は数ある動物の中で表情筋が特に発達しているそうであるが、それもこれも、ある程度大脳が大きくなっていろんなことを考えるようになり、それを仲間に伝えないといけない、伝えたい、というケースが増えてきた、そんなことがあったのではないかと思う。

腹が減ったとか、近くにライオンが居るぞとか、おねえちゃんかわいいねえとか、原始人の集団の中にもいろいろなコミュニケーションのニーズがあったはずである。
で、伝えたいことを身振り手振りとか叫び声とか駆使して伝えるわけであるが、言語が無い状況下では、顔の表情をいろいろ変えるのがいちばん細かいニュアンスが伝わるような気がする。

そして伝えたいことランキングのかなり上位にセックスアピール的なことがあったはずで、言葉がない時は顔の表情ひとつで男を誘ったりおねえちゃんを口説かないといけない。

このようにしていわゆる美男美女の概念の元祖がつくられたのではないか。


言語というのは考えてみると、おそろしく精巧にできている。
言語誕生以降の人類は、その思考の大半を言語の組み立てによりデジタル的に行う。
そうでもしないと伝わりきらないほどに、細かいニュアンス、たくさんの情報を伝えたいというニーズがあって、ものすごくCPUパワーを消費するにもかかわらず言語使用が定着したのだろう。

考えてみると言語以前の原始時代には、外国語の壁や言葉による誤解とかいう問題も無かったわけで、言葉がない原始のコミュニケーションは、どんな風だったのかと想像すると興味深い。

ただ、すれ違う人の顔をあまりガン見しているとちょっと変な人みたいなので気を付けないといけないな、と思った。
posted by ヤス at 13:26| 徒然なるままに

2016年01月07日

グラフの右端の先が気になる

わたしが一人暮らしを始めたおよそ30年前、最初は洗濯をコインランドリーでやっていたけれど、そのうち洗濯機なる便利なものを手に入れた。
先輩から貰った二槽式のやつ。
これでもう大きな袋を下げて洗濯に出かけなくてもいい。
便利になった。
そう思った。

だが二槽式の洗濯機は今から思うとかなり手間だ。
洗いからすすぎの段階に移行する際に、洗濯槽と脱水槽間の洗濯物の移動を手動で行わないといけない。
だがこの手間は、数年のうちに全自動洗濯機の導入によって解消されることになる。
おぼろげな記憶によると、わたしが幼少の頃にはそもそも洗濯機に脱水槽は無かった。
洗濯機の箱の横っちょに、手回しのローラーが付いていて、グリグリ回しながらローラーに洗濯物を通して水を切っていた。

洗濯機ひとつとっても、この数十年の技術的進歩は早い、と言わざるをえない。
想像するに、江戸時代の元禄の頃に生まれた人であれば、洗濯といえば井戸端で洗濯板にゴシゴシやる方式が、生まれた時から死ぬ時まで変わらなかっただろう。
(江戸時代の洗濯が洗濯板方式だったかどうかは確証が無いが)

洗濯にかぎらず、トイレの水洗化とウォシュレット化、自動車の普及とハイブリッド化や電気化、駅の切符やお金の電子化、コンピューターや携帯電話の出現・普及などなど、今の時代に生きていると、生まれてから死ぬまでの世の中の変化がかなり激しい。


ところで、このような劇的な技術進化の原動力は言うまでもなく人類の「脳力」であろう。
それも誰か個人の脳みそ単独の成果ではなくて、数億数十億の脳みそが、互いに情報交換し、ノウハウを伝承した結果がこれである。

で、このような人類の「脳力」の原点は、哺乳類を中心とする動物群が大脳を発達させてきて、記憶と学習という後天的なバージョンアップの仕組みではないかと思う。
もともとDNAに組み込まれている先天的なパターン以外に、後天的に行動パターンを変性させる仕組みを導入することによって、より環境変化への適応能力が上がったのだと想像する。

DNA由来の行動パターンからだんだん自由度が増して、その行き着いた先が人類の技術の爆発的ヒートアップなのだろう。

気になるのは今後である。
人類の技術進化をグラフに描くなら、最近よく見る、右端に行くほど右上がりの傾きが大きくなって、最後の方はもうほとんど天に向かってまっすぐに線が伸びているようなかたちになるのだろう。

あの、まっすぐ上に伸びたグラフの先がどうなるのか、すごく気になる。
と思った。
posted by ヤス at 10:14| 徒然なるままに

2016年01月06日

変身は是か非か

さて、昨日書きそびれた変身について書かねばならない。

しかし記憶の力はあてにならない。
昨日、人間の変身願望について何かを考えていたと思うのだけれど、それがどんなことであったかもう忘れている。
たぶんたいしたアイデアではなかったのだろう。

しょうがないのであらためて考えてみる。

スーパーマンやスパイダーマンなどのいわゆるアメリカンコミックにも変身するヒーローが登場する。
だがよく考えてみるとスーパーマンもスパイダーマンも、変身の正体は活躍するとき用のスーツに着替えるだけで身体の中身的な変身はしない。
アメコミにおけるヒーローは、変身前も変身後も持てる攻撃力や運動機能、パワーなどは変わらない。
言ってみれば、変身する前のアメコミヒーローはすごい能力を持っているが、あたかも自分が普通の人間であるかのように澄ましているだけ。

その点、ウルトラマンや仮面ライダーの変身とは本質的に違う。


ところで、街の本屋に行くといわゆる自己啓発本がたくさんあって、そこにおける大きなテーマのひとつは「変わること」である。
だがよく考えてみると、人間は日々変わっているとも言える。
まず、子供は成長して大人になる。
あるいはおじさんは加齢によっておじいさんになる。
また、少し勉強して少し賢くなることもあるし、やばいクスリにハマって人生落ちていく人もまれにいる。
変わり方は人それぞれだが、放っておいても人間は変わる。

難しいのは制御された変身、変わりたいと思う方向への変身であろう。
変わることがテーマの自己啓発本がたくさん出版されているということは、変わりたいと思っている人がたくさんいることの証左だ。

気軽に変身気分を味わうだけであれば、髪型を変えたりファッションを変えたり女性であれば化粧を変えるということがある。
だが自己啓発本の読者が考える変身はもっと深い、人格に関わる本質的な変身だろう。

人々が変身を願望するのは、説明的に考えると、要するに出来ないことを出来るようになりたいということなのだろうか。
そう考えると、もっと方法論的な、身に付けたい能力を身に付ける手順について学ぶべきなんだろう。

でも多くの人の変身願望はたぶんそういう部分的な機能向上ではなく、全人格における変身なのではないか、そういう気がする。
なんとなくだが。

そしてそういう意味では、アメコミヒーローの変身は、現実をクールに描写していて誠実な気がする。
一方のウルトラマンは、よく言えば夢がある、わるく捉えれば現実逃避的と言えなくもない。

結局のところ、人々は変身を目指すべきなのだろうか。
今のところよく分からん、というのが今日の結論。
posted by ヤス at 10:44| 徒然なるままに

2016年01月05日

ウルトラマンは変身する

わたしが子供の頃、ウルトラマンや仮面ライダーのテレビ放映は日常の娯楽におけるかなり上位にいた。
一人で観るより楽しいということで、近所の友だちの家に押しかけて一緒に観たりもした。
どちらかというと仮面ライダーよりウルトラマンの方の記憶が強い。

時間軸的に、わたしが毎週興奮して観ていたのは「帰ってきたウルトラマン」であろう。
いわゆる「初代ウルトラマン」は再放送で観たけれど、「帰ってきた」に比べてウルトラマン本体のデザインも空を飛んで怪獣に攻撃を加える飛行機もなんとなく古くてダサい感じがした。

今になって考えると、円谷プロの製作陣は「初代」の経験を下敷きに予算もスタッフもパワーアップして「帰ってきた」を作ったのではないかと想像する。


ところで、30分番組のウルトラマンのクライマックスは、主人公が変身して怪獣と3分間だけ戦い、スペシウム光線で留めを差すくだりである。
毎回毎回、飽くことなくこのパターンが繰り返され、我々少年たちは興奮してそれを観た。

主人公はウルトラマンに変身出来る。
そのことがウルトラマンの番組としての大きな「惹き」であったことはたぶん間違いない。

ウルトラマンを観た後の少年たちは、まるでウルトラマンの霊が憑依したかのように「シュワッ」みたいな奇声を発していろんなもんを蹴ったり殴ったり暴れまわったもんである。

ウルトラマンの後仮面ライダーが出て来てこちらもやはり変身可能なヒーローとして登場した。
さらに続くゴレンジャーなどの戦隊ものでも変身のパターンは踏襲される。

しかし一方でアニメを中心とするロボットものでは、当然ながら変身はない。
鉄腕アトムも鉄人28号もマジンガーZでも人間はあくまで人間。
人間はロボットを操縦するだけの無力な立場として、その意味ではウルトラマンよりは随分リアルな気分で作られているのである。

当然、変身しないロボットアニメを観た後の少年たちは、ロボットによって憑依されようがない。
少年たちもときどきはマジンガーZになって敵のロボットと戦うこともあったかもしれない。
だがそれはマジンガーZが憑依したのではなく、少年がマジンガーZを演じているのに過ぎない。

そういう意味で、ロボットものはリアルでヒューマニズムの色が濃い。
一方の変身ものは超越的で、あるいは宗教的と言ってもいいかもしれない。
だから変身ものはより没入出来た、興奮出来たように思う。

本当は人間の変身願望について書こうと思ったが話が逸れた。
とりあえず大昔に観たウルトラマンはなんであんなに興奮したのかについて、少し思い出してみたのだった。

posted by ヤス at 10:59| 徒然なるままに

2016年01月04日

植え込みのケモノ道より

スーパーマーケットの駐車場には、だいたい植え込みがあって、エリアを区切る仕切りみたいになっている。

横着をして隣の区画に行くのに植え込みをまたいで行こうと思うのだが、最近のスーパーは植え込みの手入れもきちんとしていて人間が横切れそうな隙間が出来ている箇所がなかなか見つからない。
(良い子は植え込みを横切らないようにしましょう)

それでも中には、人がたびたび通ったらしく、そこだけ2、30cmくらい枝葉が途切れて隙間になり、踏みならされて土の面が露出したけもの道状態の箇所があったりする。

そういうけもの道を見つけると、ついそこを通ってショートカットしたくなるのが人情であろう。

そんなスーパーの植え込みに出来たけもの道を見ていて、「道」というものの起源に関する疑問が頭をよぎる。

人類史において「道」というのはいつ頃出来たものなのだろう。

それはたぶん最初は森の中に出来た一筋のけもの道みたいなのだっただろう。
昔、中学の頃に山に入って道のないヤブよ中、木の枝やらクマザサやらをナタで切りながら歩いたことがあった。

それはちゃんと切り開かれた遊歩道を進むのの何倍もしんどくて時間もかかって大変だったという記憶がある。

やっぱり、出来ている道を歩くのは道なき道を歩くより随分と楽なのだとあらためて思ったのである。

もう少しちゃんとした道、例えばローマの街道とか東海道五十三次の道とかだと、進みやすくて楽チンという以外にも、この道を進むとどこそこの街に到着出来るというナビゲーションの機能も果たしただろう。

現代の日本では、こんなとこにも道はあるかというくらい山奥でも海岸線の崖っぷちにも縦横に道が走っている。
Google マップの航空写真で見ると、日本の国土はシロアリに喰われた家の柱のように見えなくもない。

おそらく道というのは、人類が生存圏と定めたエリアを示す文明の痕跡としてもっとも分かりやすいものだろう。

しかし最近の人類は空を飛ぶことを覚えて、ひょっとしたら有史以来の道の意味が変わってきているのではないかとも思う。

街に住む人類の大多数が自家用ヘリコプターかなんかで飛んで移動するようになるにはまだしばらくかかると思うのだけれど、そうなったら道の持つ意味ががらりとパラダイムシフトするのかなあ、と、ぼんやり考えたりした。
posted by ヤス at 11:59| 徒然なるままに

2016年01月03日

ペース配分を考える

目下のところ最大の目標とするきびじマラソンまであと2ヵ月足らず。
トレーニングはまずまず順調ということにしておこう。

ところでマラソンはペース配分が難しい。
というかマラソンという競技の中身は、ペース配分をめぐる戦略性がその大部分を占めるのだと思う。

で、わたしのような素人ランナーの典型的なレースのパターンは、20kmくらいまで快調に走って25kmくらいで弱ってきて30kmで体力が絶望的になって35kmくらいであきらめの境地になる、というものだ。

その日のコンディションやペースの速さで多少前後するが、いずれにせよ25kmから35kmくらいの間で体に「異変」が起きてレースが事実上終わることが圧倒的に多い。

マラソンの走り方のノウハウ本には、30kmくらいまではゆったり走って体力を温存しろなどと書いてあるが、それが思い通りに出来れば苦労はないのである。


ところで少しトレーニングが進んで体力リソースが増加したとき、この増加分を前半に投入すべきか、後半に温存すべきか。

世の中には、短所に力を入れるよりは長所を伸ばした方がいいという意見もある。
例えば味は絶品だが店は汚いラーメン屋は、その持てる資金・労働力をさらなる味の向上に使うべきか、または店のリニューアルに投じるべきか。
あるいは日ハムの大谷翔平は、練習時間を投手と打者のどちらにどれだけ割くべきか。

長所により力を入れた方が伸び率が高いのではないかとか、弱点を最低限の水準に補強しないとそもそも勝負の土台に乗らないのではないか、など考え方はいろいろある。

また、長所と短所はどっちがどっちか判定が難しい場合も多く、単純に長所優先が正しいとも限らない。

そういうことで、持てるリソースをどのように配分するかについて、世の中の他の事例を参考にしようと思ったが、あまりうまくいきそうにない。

世の中一般のリソース配分は、実はマーケティングの問題なのであって、お客さんや競争相手の動向もにらみながら決めるべき問題である。
それは自分の意思もさることながら、自分の外側にある要因によって大きく左右されるものである。

そこへいくとマラソンにおけるリソース配分は、もっぱらおのれの意思によって決定可能だ。

タイム短縮を唯一の目標として合理的に判断すれば後半勝負なのだろう。
だがたぶん、本番では最初から行っちゃうと思う。
そして再び後半で地獄の苦しみを味わうだろう。
まるで人生のように、分かっちゃいるけど思い通りにならないのがマラソンのナイスなところなのだ、ということにしておく。

posted by ヤス at 16:35| 徒然なるままに

2016年01月02日

ディテールにこだわる

「スターウォーズ/フォースの覚醒」が大ヒットしているらしい。
ウィキペディア情報によると、この映画の制作費は2億ドルというから今のレートで240億円かかっている。
そして、公開初日の興行収入が1.25億ドル=150億円だったらしい。

そして年末のニュースで、世界最速12日間での興収10億ドル突破が報じられた。

プロモーションにも莫大なお金が投じられたとは思うけれど、さすがにもういわゆるリクープラインは越えたのではないか。
それにしても一本の映画としては凄まじい話だ。


莫大なお金を投じて製作され、無事に想定通りの超弩級ヒットになったわけであるが、スターウォーズのようなクリエイティブな世界では、製作現場において相当なこだわりを持って作業が進められているのだろう。
わたしの勝手な想像では、凄い映画ほど細かいディテールにこだわっている。
コンマ何秒のシーンのために数億円つぎ込むことをいとわない。
観ている人がなかなか気がつかない部分まできっちり作り込んであるから、作品の厚みが感じられるようになる。


しかしモノには限度というのがあって、スターウォーズといえどかけられる予算には上限があったろう。
映画一般において、かける予算の上限を割り出すのはたぶん難しい。
監督としてはもっとお金をかけたい、しかしプロデューサーがそれを許さない、そういう場面も多いだろう。


普通の仕事においても、どこまでディテールに時間や予算をかけるかはかなり難しい問題だ。
今日の日本社会は成熟化していて、あらゆる産業分野が激しい競争状態にある。
こういう競争状態では、子細なディテールの差が勝敗の明暗を分けたりするのではないか。

そうだとすると細かな作り込みもおろそかに出来ないなと思う。

というか、真に優れた創造物は、ディテールまでが統合的にバランスよく作り込まれているのではないか、という思いが最近強い。

重箱の隅をつつき、時にはプロデューサーの制止を振り切る映画監督のようにディテールの作り込みに暴走するのもありなんじゃないか。

そんなことを思う、2016年二日目の朝なのでした。

posted by ヤス at 09:12| 徒然なるままに

2016年01月01日

正月とクリック感

またカメラの話でなんだけれど、最近キャノンが展開しているコンパクトカメラのG7XなどのGシリーズには、レンズの根元にマニュアルピント調整などを行うためのリングが付いている。
キャノンのG7Xのサイトを見るとコントローラーリングという名称のパーツであるらしい。

で、わたしの愛機であるSONYのRX100にも同じようにリングが付いているが、こちらはSONYのサイトで確認するとコントロールリングという名称になっていた。

ほぼ同じカタチ、同じ機能のリングであるが名称を微妙に変えているのがなんだか微笑ましい。
そういえばカシオやパナソニックにも同様のリング付きの機種があったが各社のリングの名称はどうなっているのだろう。
いちいち調べるのが面倒なので他社は置いておくとして、問題は、SONYとキャノンではリングにクリック感が有る無しの違いがあること。

わたしのSONYにはクリック感が無く、キャノンにはある。

クリック感が有ると、動画撮影中にマイクがクリックの音を拾う可能性がある。
また、クリックとクリックの間の中間領域に何かを合わせたいとき、合わせにくい、または合わせることが出来ない。

一方でクリック感が有ることによって、例えば絞りの設定をf2.0とか、f5.6とかの節目の値にぴったり合わせられる。
クリック感がないと、f2.12とか、絞り値がそういう微妙な領域に踏み込んでしまってきっちり合わせたい人にはもどかしいだろう。(その辺のメカニズムはよく知らない)

カメラのコントロールリング(またはコントローラーリング)にクリック感を求めるか求めないかは、その人の世界観、宇宙観の違いであるように思われる。


ところで今日は一年の節目の正月である。

カレンダー上には正月のような節目の日が、端午の節句とか春分の日とかハロウィンナイトとかたくさんある。
一週間や1ヶ月のサイクルもある。
また、一年に一回誕生日が来てひとつ歳をとる。

その人独自の節目の日というのもそれぞれあるのだろう。

しかし数ある節目の日において、そのチャンピオンが正月であることはたぶん確かだ。

しかし、太陽の周りを約365日かけて回る地球が、正月の位置にさしかかるたびにクリック感があって、そこで小さく揺れたりはしない。

というか、地球が正月の位置で揺れないからこそ、ちゃんと正月が分かるようにカレンダーがある。

そして正月のクリック感を感じることによって、時間の経過を確実に知る。
地球は猛スピードで太陽の周りを回り、時間は一分一秒、今も確実に進んでいる。
そういうことが人間にはなかなか実感として感じられない。

回っている実感としてのクリック感は、やはり必要なのかもしれない。

ところで、わたしはカメラのリングはクリック感がない方が好きだ。
でも、クリックがあることにも、それ相応の良さがあるのかもしれない、と思った。

ところでみなさま、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
ああー、正月だなあ。
posted by ヤス at 07:31| 徒然なるままに