2016年01月31日

政治とカネにひとこと

甘利大臣の閣僚辞任から数日経過した。
今後注目されるのは東京地検特捜部が動くのかどうか、動いたとしてどこまで切り込めるのか。
秘書を立件して終わるのか甘利氏本人にまで及ぶのか。
などであるのかなと思う。

電撃的なタイミングの大臣辞任で野党による国会の追求も矛先が鈍りそうだ。
このあたりの政権側の「危機対応」はたいへんな上出来であるように思われる。

もちろんより重大な問題の核心は、企業団体献金と政治の関わり方であることは言うまでもないが。

巷間言われているように、利益追求を目的とする企業が何の見返りもあてにせず寄附をすれば、それは背任行為にあたるだろう。
去年の11月頃に企業献金が大幅に増えてその8割以上が自民党に入ったというニュースがあった。
経団連は会員企業への献金を呼びかけ、多くの企業がそれに応えたそうだ。
その結果、かどうかは分からないが、法人税の減税方針が政策として確実に進行している。
他にもTPPや労動法制の改正など経団連企業の関心のありそうなテーマが今後政治の俎上に乗る。
そういう議論をしている時に、企業からもらったお金が何の影響も与えないなんてことがあるだろうか。
というか、必ず影響をあたえるだろうことは考えればわかる話だ。

政治献金拠出の年間上限額は1億円であるらしいが、トヨタ自動車のように何十兆円も売上のある大企業にとっては、何千万円か寄附したところでそれは決算書の端数の下の方の金額で大したお金ではない。
その大した額ではない経費拠出によって、法人減税が実現すれば、金額的に数百億円単位の話になるはずでものすごくパフォーマンスの良い投資と言える。

しかしこのような動きは政治資金規正法の考え方に真っ向から反していないか。

また今回の甘利氏の問題では、上記法が禁じている政治家個人への献金に該当する疑いが濃厚であるが本人からはその点についての言及はなかったようだ。
羊羹の紙袋の奥に現金が入ったのし袋があったら、それは羊羹の行先の政治家個人宛の献金であるはずで、この場合政治家としてはのし袋の主に、「いったん政党に入金してそのあと自分に迂回するよう手配してくれ」と頼んだ方が良かったのではないか。

この問題は、たとえ特捜部が入っても甘利氏本人のあっせん利得立件は困難で、その点本人もタカをくくっているのかもしれない。
だが少なくとも本人が発言した事実のみを取り上げただけでも形式としての違法性が相当に濃厚であると個人的に思う。

企業団体献金の全面的な禁止、ならびに献金の入金方法で現金渡しを禁止する、収支報告書を1円単位から義務付けするとか、制度を土台から変えていく必要をきわめて強く感じる。
posted by ヤス at 14:13| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年01月30日

情報の氾濫について思う

去る1月28日は、某週刊B春の発売日であった。
そしてこの日の夜、甘利大臣が記者会見を開いて大臣辞任を発表した。
会見のタイミングについては、B春の記事を見てからにしようと思ってこのタイミングになったのだろうか。

錯綜する報道のなかには、疑惑発覚の当初から辞任は既定路線と伝えるものもあった。
まったく想像の域を出ないがわたしもそういう気がする。

変則日程でアクロバティックなスケジュールの今国会を思惑どおりまとめるために、本人・官邸とも早期の辞任やむなしと考えたのではないか。

そのあたりの手がかりは、28日発売のB春を読めばいくらか得られるはずだ。

というか、わたしとしては単なるゲスな好奇心だけを抱いて本屋に立ち寄り週刊誌コーナーに向かった。
そうしたら肝心の週刊B春は、厳重にビニールでラップされたビニ本状態で平積みされていた。
読みたければちゃんと買って読めということだ。
仕方ないのでわたしは周辺にあったビニ本ではない週刊S潮やサンデーM日などの関連記事を立ち読みして情報収集を終えた。
もちろんビニ本は買ってない。

このところのタレントの解散騒動や不倫疑惑もそうだけれど、大きな事件の際に世間に飛び交う報道、ツイート、流言飛語の数々によって、何が本当で何がウソなのか訳わからない。

まあ、タレントの騒動は関係者にとっては大きな経済的損失が伴う点でたいへんだろうが、田舎に住む一般庶民のおじさんにはさして影響はないから無視してもかまうまい。

ただし、政治家に関する事件については、投票の義務を負う国民の一人としていくらかは関心を持つべきなのであろう。
ところがこれだけたくさんの情報が飛び交っていると、ふつうのおじさんとしては、何をどう判断すべきか迷うこと甚だしいのである。

ただ、今は騒動の当事者がネットを通じて直接発言が出来るようになっている。
情報が氾濫する現代においては、一般庶民はそういう限りなく一次情報に近い直接の発言を拾って判断するのが比較的ましな方法であると思う。
しかし甘利大臣の場合は、検索しても本人の発言が拾えるようなソースが今のところ見つからない。

たぶんそういう活動をしていない人なのかもしれない。

こういうときにメディアのフィルターを通さない発言手段を確立していれば、また違った印象になったのではないか、とも思う。
もっとも、直接発言で信用を維持できるのはやましいことが無ければの話になるが。

いずれにせよ、疑惑の真相は想像するしかなく、その不確かな手がかりに基づいて我々国民は投票行動もしないといけない。

まあ情報が氾濫している現在の方が、脳みそは疲れるかもしれないが何にもない昔よりはたぶん幸せなのではないか。
そう思うことにする。

posted by ヤス at 16:24| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年01月29日

現実とファンタジーの違いについて

スターウォーズの客の入りは一段落したのだろうか。
厳しい情報統制でネタバレを防いできたスターウォーズであるが、方々に出ている評論や紹介記事を読んでいると、なんとなくストーリーの輪郭が浮かんで来るようである。
まあでも、実際に見たら想像以上に面白いのだろうとは思う。

ひとつ思ったこと。
スターウォーズの世界には、R2D2とかエックスウィングとか、ロボットや乗り物や兵器の数々が登場する。
ところでこれらの登場メカのテクノロジーは、今日の地球人類の場合と同様に日々進化しているのだろうか。

ひょっとして、スターウォーズの世界では技術進化はずっと止まったままなんじゃないか。
ハン・ソロは歳をとって時代は進むけれど、登場人物が活躍している舞台であるところの宇宙は時間が止まっているのではないか。
それがファンタジーとしてのスターウォーズの世界なのではないかと思ったのである。

たぶん、時代が変遷せず時間が止まっている世界というものがあれば、それは天国であり、あるいはファンタジーの世界なのであると思う。

そこでは誰も歳をとらない。
だから死なない。
死なないということは、新しく生まれないということになる。
いわゆる輪廻の回転が停止して煩悩から解放された世界なのではないかと想像する。

しかしスターウォーズではハン・ソロは歳をとる。
スターウォーズは家族の物語なので登場人物が歳をとらないと話が進まない。
アナキンとパドメからルークとレイアが産まれることによってシリーズで7本も映画が出来あがった。

でもたぶん彼らの周辺の世界は依然として時間が止まっている。
スタートレックみたいな瞬間転送装置とか、エックスウィングの無人ドローン化などの技術は、あるいはやれば出来るのかもしれないが、実現すると映画のハラハラドキドキが目減りしそうなのであえて開発しない。

そういうところにファンタジーの要素が残っていて、だから面白い。


ひるがえって、現実の人類社会にはムーアの法則とかがあり、万能幹細胞とかの研究も進んでいて世の中止まることがないようである。
今、地球人類は総人口でも世界経済の規模でもそろそろ総ボリュームの限界が見え始めて20世紀初頭までの脳天気な拡大指向がだいぶ失われたようである。

だが、総ボリュームの拡張速度は鈍化しいつか停止したとしても、質的な前進、テクノロジーの進化は変わらず歩を進めるであろう。
というかこれまで以上に質的前進は速くなって来るのではないかという気がする。

質的にけっこうな速度で前に進む社会というものは、それに付いていけない人にとっては大変な世界である。
でも、止まっている世界というのはファンタジーの中だけにあって現実の宇宙は、どちらの方向に向かっているのか知らないが、絶え間なく変転するものであるらしい。
そして宇宙が変転し続ける限り、人類の煩悩のタネは尽きないのだがだからこそ現実世界は面白いのであろう、となんとなく思った。
posted by ヤス at 14:57| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年01月28日

誰に何を謝罪しているのか

新年早々芸能界を震撼させるネタが続いたが、ここへきて少し前の事件を思い出させるニュースがあった。
ひとつは元兵庫県議の人が身柄を拘束された上で初公判に臨んだこと。
法廷で覚えていないを50回以上連発して裁判長に怒られたらしい。
事件発覚当時の彼の記者会見「騒動」も、はや昔の話になったように感じる。

また、STAP細胞の元理研研究員が手記を出版することを突如発表した。
ネットニュースに前書きが出ていたので一読してみた。
わたしは、彼女が必ずしも悪人であるとは思わない。
ただし、彼女が書いた論文の具体的な不正の状況、図表の切り貼りの方法などを知るに及んで、彼女が厳密な論理と客観的公正性が要求されるサイエンスの世界とはまったく異質で場違いの人物であると感じた。
そして、ニュース記事に出ていた前書きの文章中には、世間を大きく騒がせたことを謝罪するとあるが、論文執筆の不正そのものへの反省や悔悟の弁は無い。

「・・・私は誰かを騙そうとして図表を作成したわけでは決してありません。一片の邪心もありませんでした。
しかし、私の図表の提示方法は、常識として決められていたルールからは逸脱していると判定されてしまいました。不勉強であったことを、心から反省し恥じています。そして、・・・」

とある。


考えてみると、昔から企業の不祥事をはじめとした謝罪会見みたいなイベントは、絶えることなく定期的に生じている。
山一証券が会社消滅したときも、最後の社長が号泣会見して話題になった。
若貴ブームのときの貴乃花も、どういうわけか宮沢りえと婚約解消したとき、わざわざ会見を開いて説明した。

わたしは、世界における謝罪のありようをあまり知らないのだけれど、日本における「謝罪」はたぶん「世間に対する禊ぎ」なのであろうと思っている。
そこでは謝罪者が自分の行った悪事について、「ここがこのように間違っていました、損害を与えた誰それにこのような具体的なお詫びをして許しを請おうと思います」というようなことは言わなくていい。
それよりも世間に無様な姿をさらして赤恥をかき、頭を垂れて、何の反省かはよく分からないけれどとりあえず反省の心情を表現する。
その姿を「世間」が見て、もうそれくらいで許してやろう、となったら神妙に世間に復帰できる。

日本では個人も企業も、世間という共同体への深い帰属、村八分にされるのかされないのかという文脈の中で存在していて、そのシステムのひとつに謝罪がある、という気がする。

マクドナルドのカサノバさんの違和感たっぷりの謝罪会見も、彼女はそういう日本文化を頭では理解していたのかもしれないが身体表現としては上手く出来なかったのでないか、という点でやや同情する。

アメリカ人やフランス人やドイツ人とかは、いったいどんな謝罪をしているのだろうか。
そういえばフォルクスワーゲンの不正に対する謝罪はどんなだったのだろう。
今度調べてみようかな。
posted by ヤス at 11:55| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年01月27日

食品廃棄について思うこと

昨日、廃棄カツの横流しのことを書いて食品の廃棄についてちょっと気になった。

日本は食品の廃棄率が国際的にもトップクラスの国らしい。
日本の消費者は他国に比べると、スーパーで買い物するときに賞味期限を異様に気にしたり、商品パッケージの汚れやへこみなどがあると買わなくなったりする傾向が強いといわれる。

そういう消費者の傾向もあってか、企業の方も鮮度管理のために商品の廃棄を厭わないところが多いらしい。

セブンイレブンが期限の時間が過ぎた弁当を捨てたり、回転寿司屋が皿の下のチップで鮮度管理して古い皿を自動ではねていく、などというシステムは世間もよく知るところとなっている。

また、あるパン屋チェーンのFC店指導マニュアルで、廃棄ロス率を一定値以下に「しない」ことについて書いてあるのを見たことがある。
要するに毎日一定量を必ず廃棄すべきという考え方なのである。
これは、閉店時間いっぱいまで商品棚に焼きたてのパンを並べて来店客の期待に応えたいと考えているからだろう。
焼きたて命のパン屋の場合、これはわりかし普通の考え方のようである。


その一方で、期限間近の商品を値引きして廃棄ロスを出来るだけ無くす見切り販売のスタイルもある。
これはスーパーマーケットにおける20時頃の惣菜コーナーでは日常の風景になっている。
最近増えているディスカウンター業態や、客引きのおまけで食品を売っているドラッグストアなんかは特に見切り販売が激しい気がする。

見切り販売で廃棄ロスを減らすと「もったいない」状態は緩和され、見切りせずに廃棄ロスを厭わず商品鮮度を維持すると、店のクォリティー感が高まる。

結果そういう構造になる。

店の商品とはいえ食べ物を捨てるのは、廃棄作業をする従業員にとってけっこうな精神ストレスになっていると想像する。

クォリティー感の高い店は安売り業態に対し、食べ物をより多く廃棄するということは、顧客は廃棄分も含めた少し多めのお代を店に払っていることになる。

これはどっちの方がいいのか、なかなか一概に言えない。

ただし営利企業の場合、利益確保のために廃棄ロスであれ見切りロスであれ、あらゆるロスを極小化しようとする強い動機がある。

それに対し、一般の消費者は企業ほどはちゃんと利益計算をしていないので、食べ残しに対する改善意識が希薄になるようである。

各種の統計によると食品廃棄の最大の発生源は一般家庭であるそうだ。
農水省のデータでは一般家庭の廃棄が1千万トン、事業所からが8百万トンであるらしい。
これは日本人3千万人の一年間分をまかなえる量であるそうだ。

どうも最近腹が減っているせいで、そういうデータがものすごく心に刺さるのである。

日本人の叡智と技術を使えば、そういうもったいない状況がせめて半分くらいは改善するのではないかと思ったりするのである。
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2016年01月26日

廃棄カツ横流しで思うこと

さて、わたしとしては、ふたつの大きな芸能ネタに気をとられるあまり注意が疎かになっていたのだが、例の廃棄カツの横流し事件について少し考えてみる。

ネットで見つけた記事によると、昨年10月に壱番屋がダイコーに廃棄委託したビーフカツ5.6トンのうちの5トンをみのりフーズに80万円で売ったとある。
横流し商品は108品目だそうだが他にも「余罪」はあるんじゃなかろうか。
とりあえずこの5トンのビーフカツ、割り算すると100グラムあたり卸値16円である。

さっきAmazonで冷凍カツを検索したら95グラム×10個入りが1680円だった。
こっちは100グラムあたり約170円。

スーパーの店頭でビーフカツかいくらで売られていたのかよくわからないのだが、1個100グラムとして100円でも十分安い。
仮に店頭で80円で売られたとすると、ダイコーからの「卸値」80万円のカツは流通各社に320万円の利益をもたらしたことになる。

確かに、もともと捨てるものだから利益率は高く、日常的に薄利多売の商売をしているスーパー業界としては魅力的な商品だったかもしれない。

だが見方を変えると、元がタダにしては5トンも売ってこの程度しか儲からないのか、という風にも思えるのである。

だいたい冷凍食品というのは、きちんと製造された正規の商品でも驚くほど安いと思う。
業務用の商品では、メンチカツとか鶏唐揚げとか100グラムあたり50円とか60円とか普通である。
その値段の中に、原材料費と製造設備の償却と人件費、物流費、そして多少の利益が入っている。

たぶんそういうのは、大規模な工場で鬼のようなスピードで製造している。
鬼のスピードによって相対的に設備費と人件費を極小化しているのであろう。


工場で大量生産された加工食品は驚くほど安い価格で提供され、その恩恵を我々消費者は受けている。
だが異物混入などのトラブル時にはロットごと大量に廃棄が生じる。
これはなんとももったいない話に思える。

たぶんニュース映像に登場している被疑者のおじいさんも、捨てるのはもったいないから再度流通させたのだ、というような正義の気分が多少ともあったのではないか。

まあゴミとして廃棄(本来は堆肥化される予定だったらしい)されるものを内緒で販売し、しかも長時間常温にさらされたものを再冷凍するというえげつない状態で販売したことの罪は極めて重大であると思う。

だが一方で食品の大量生産に伴う廃棄ロスのもったいなさは、個人的にかなり気になる。



食べ物というのは、なるべく食べる直前に調理して加熱したのが美味しいに決まっている。
食品製造の「工場化」はどうしても製造後時間の経過したものを食べるはめになり、その意味で原料の実力からかなり劣化したものを食べているといえる。

だから今後調理ロボットみたいなものが発達していったとしたら、未来の食の業界は現場調理に回帰していくのではないかと期待する。

現在は、お菓子屋もパン屋も学校給食なんかも、大規模工場で大量製造して各地に配送する方式が安くて効率がよいとされているのかもしれないが、そういうのは20世紀的発想であり、なんだか非人間的に思えるのである。

というようなことをマクドでハンバーガーを喰らいながら書いている。
もし50年後もマクドが潰れてなかったら、たぶん全面現場調理になっているのではないか。
と、少し期待してみる。
posted by ヤス at 14:50| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年01月25日

体重大台突破記念投稿

さて、わたくしごとではあるが今朝の体重が59.90kgを記録した。

わたしは2月28日(日)の吉備路マラソンにエントリーしており、現在この日に向けた準備を進めているところである。
マラソンに出るので走る練習もしないといけない。
だがわたしは職業ランナーではない。
また肉体的にはもうすっかりおじさんと言うに十分な年齢領域に入っている。
おじさんが無理をしてマラソンの練習をすると必ず故障する。
少なくともわたしの場合、練習走行量がある一定値を超えると、左足のアーチやアキレス腱のあたりが痛み始める傾向がある。
過去10年間この傾向は続いており、なかなか抜本的な対策は浮かばないのである。

ただしわたしは職業ランナーではないので、痛くなったら走るのを止めるまでだ。
ひと月も走らないと痛みはすっかり無くなる。
しかしひと月走らないと次のひと月、そのまた次のひと月も走らなくなる。

いったん走る習慣を停止すると、ふたたび走るのが面倒くさくなるのである。

走らなくなるとどうなるか。

おじさんの場合、走らなくなるとお腹のまわりにお肉が蓄積してくる。
そしてお肉の蓄積は毎日少しずつのことなので、なかなか実感としてとらえることが出来ない。
気が付いた時にはお腹がお肉でゆるゆるになっている。

わたしは諸事ものぐさな人間であるが、若かりし頃の決意で唯一守り続けていることがある。
それはおじさんになってもお腹のお肉をゆるゆるにしないぞ、ということだ。
この決意は、不惑の節目を過ぎたあたりからたびたび存亡の危機に瀕したのであるが、危機のたびに一念発起してお腹のお肉除去プロジェクトを発動し、かろうじて今日に至っている。

したがって、わたしにとってのマラソンはお肉除去のためのひとつの手段であり、目的ではなかった。
だがお肉がとれて身体が軽くなり、少しトレーニングが進んでだんだん心地よく走れるようになってくると、走ることそのものが面白くなってくる。

だがあまり走り過ぎると左足が痛くなる。
痛みの発生を抑えるためには身体が軽い方がいいだろう。

ということでここに至って手段と目的は逆転し、現在は走るために体重を減らすことになっている。

一般に、体重を自分の意思で継続的に減らすことは難しいとされている。
これはわたしの実感としてもそうであるが、今ここで思いつく減量のためのポイントを以下に挙げる。
何かの参考になるかもしれない。

・毎日一回は体重を記録し、過去の記録からの推移を見守る
今はスマホ連携のタニタの体組成計などという便利なものがある。
他メーカーも含めて同様の機械の存在が多くの人びとの体重に影響を与えていると思われる。
もっとも重要なのは、あきらかに食い過ぎた後でも臆せず体重計に乗ることが出来る、そんな小さな勇気であろう。

・体重の数値を公開すること
別に誰が見ているわけでないが、たとえ虚空に向かってでも自分の体重を毎日報告しているとそれなりの緊張感が生じてまったく身の引き締まる思いがするのである。

・空腹こそ減量の伴侶である
体重は質量保存則という宇宙の原理にもとづいて増減する。
したがって「出」の運動量、「入」の食事量をコントロールしないといけない。
だが多くの人が指摘するように、運動で体重は減らない。
減量の実現は、9割以上は食事のコントロールによるものになる。
この時に炭水化物がどうとか難しいことは要らない。
ただひたすら24時間の大半を空腹とともに過ごしていれば自ずと体重は減る。
最近のわたしは不足するタンパク質をココア味の美味しいプロテインで補いつつただ空腹に耐えている。


ゴールは近い。
2月のマラソンが終わったら吉野家の牛丼特盛りを食べようかな、と思っている、今日この頃である。
posted by ヤス at 14:47| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年01月24日

無用の長物

世界の三大無用の長物というと、エジプトのピラミッドと中国の万里の長城、そして戦艦大和っていう。

これは、かつての帝国海軍の軍人自身が、停泊地に繋がれっぱなしで一向に出撃しない大和に対する自虐として言ったものらしい。

戦艦大和がまったくの無用の長物であったかどうかについてはやや議論がわかれるところではあるが、少なくとも歴史の結論が出ている現在から見ると、海上戦力としての大和はかなりの程度無用の長物であったと言える。

少し調べてみると、大和の建造予算は1.4億円ほどであったようである。
当時の国家予算が70〜80億円だったというからその2%くらいをかけて造ったことになる。
戦時中の軍事費は全国家予算の8割くらいを占めていたようなので、大和の建造費は巨額は巨額だが致命的というほどでもない気がする。


ところで三大無用の長物の残りの2つだが、こっちの方が大和より「無用度」は高かったようにも思える。
特にピラミッドは単なる権威の象徴であって何か具体的な効用があるように見えない。
また万里の長城にしても、あれだけで騎馬軍団の侵入は防げない。
個人的想像としては、長城は遊牧騎馬軍団に対する一種の分かりやすい境界の目印だったのではないかと思う。
長城を壊して侵入してきたらこっぴどく仕返しするぞ、ということを分かりやすく示すために、ひとつのシンボルとしてあったのではないか。


シンボルということでいえば、戦艦大和も実戦目的というより抑止目的のシンボリックな存在として造られたのだという話も聞く。
当時の艦隊決戦構想においては、雑魚キャラの駆逐艦や潜水艦でアメリカ艦隊を漸減して、最後の大トリに大和などの主力艦隊が出撃して留めを差すという筋書きだった。

あるいは、大和の18インチ巨砲にびびって早期の講和が成立する段取りになっていたはずで、そういう意味では大和は最初から戦うことを想定していない、無用の存在として停泊地に無事に鎮座していることが主要任務であったとも言える。


しかし考えてみると、世の中には車体重量が2トンを超えるロールスロイスとか、馬力が900馬力以上もあるフェラーリとか、値段が3千万円もするオーディオスピーカーとか、無駄に過剰なスペックを持つものが沢山ある。

あるいは日本のお城にそびえている天守閣は、戦時においても平時においてもまったく役に立つ用事がない。
ただ権威の象徴としてそびえているのがその主要任務である。

またウサインボルトが無駄に速く走ったりボディービルダーが労働使役に使う訳でもない筋肉を鍛えたり、そういうことを列挙していくときりがないということに気づく。

合理的理屈を超えた沢山の過剰さ、無用の長物の数々は、ひょっとして人類が生まれながらに持っている悲しい性なのではないか。
したがって大和のような無用に長大な存在は、これからもたびたび出現するのであろうかなあ、などと思った。

posted by ヤス at 15:42| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年01月23日

ひとつのタスクはひとつの脳みそ

二人の将棋指し、AさんとBさんがいる。
AさんとBさんは10回対戦してAさんの9勝1敗になる実力差があったとする。

ここでBさんと同じ実力の棋士を9人呼んできてAさん一人対10人で対戦したらどうなるか。
たぶん結果は変わらない。

将棋を指すという行為は、ものすごく創造的で高度な知的作業である。
強い棋士が頭のなかで、映像で考えているのかそれとも別の方法でやっているのかよく知らないが、ゼロコンマ何秒かの瞬間にものすごい量の思考を行っているはずだ。
こういう高度な思考作業は、隣にいる人と相談しながらやるなんていうことは出来ない。

棋士は小さい時から時間をかけて将棋を指す訓練を続け、その結果脳細胞の配列もそれ用に最適化されているだろう。
ここに、もうひとつ別の将棋をやる脳みそを持ってきたところで、ふたつの脳みその間を神経細胞的なレベルで結合しない限りは、脳みそがふたつあることの意味は全く無いのだと思う。
(たとえ未来のどこかでそういう結合が出来たとしても、ふたつの脳みそをシンクロさせるための訓練期間がさらに必要になるだろう、と思う)

要するに何を言いたいかというと、高度な知的作業はひとつの脳みそでやるしか無いのだということである。


ジブリの映画の「風立ちぬに」にも登場した旧帝国海軍の零式艦上戦闘機の設計主務者・堀越二郎という人がいる。
彼は通常ゼロ戦の設計者である、という風に紹介される。
三菱重工のゼロ戦設計チームは、堀越以外にもたくさんいて、艤装担当とか計算担当とかいたはずである。
それでもゼロ戦の設計者といえばやっぱり堀越二郎なのである。
それは、ゼロ戦開発のイメージのすべてが、彼の脳みそひとつの中で創造されただろうからである。
これは今日のトヨタや本田の自動車開発でも同じだと思う。
逆に、開発イメージを数人の合議制か分担制で作ったとすると、それはとんでもなくちぐはぐな愚作になってしまうに違いないのである。

これは、飛行機や自動車以外でも、お菓子メーカーでも料理のメニューでもゲームソフトの開発でも基本的に同じだと思う。
具体的な開発作業は分担で出来たとしても、企画段階の最初に創造する開発のイメージはひとりの脳みそによって作った方が、より鋭く、美しく、優れたものが出来るのは間違いないところである。

だから会社なんかで新しい商品とか、新しい事業とかをやるときは、最初の企画作業は合議や分担でなく一人の人間がすべてをつくりあげるべきであると思う。

また日常的な業務で作業を分担して進めないといけないときなんかも、ひとまとまりのクリエイティブなタスクは一人の人間が担当するようにしないといけない。
そういうところに気をつけてタスクの切り分けをした方がいいよなあ、などと思った。
posted by ヤス at 11:15| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年01月22日

電話帳の分厚い束

この間、ある家の戸口にビニール袋に入れられたNTTの電話帳が立てかけられているのを目撃した。

わたしは個人的には、NTTの固定回線のお世話にならなくなって久しいので、あのタウンページとハローページの分厚い束に触れる機会がめっきり無くなっていた。
ただ今でもNTTの固定回線を使っている家庭や会社はたくさんあるだろうから、あの分厚い紙の束は以前と変わらず年に一回のペースで配達されているのであろう。

そんな当たり前の日常にあらためて気づかされたのである。

だが、実際のところ、今でも電話帳をめくって電話番号を調べている人というのはどれくらいいるのだろうか。
わたしが最後に電話帳をめくったのは何年前だったかも、もはや思い出せないくらい昔のことだ。

確かに今でも、スマホはおろか携帯電話も持たず、インターネットを覗いたこともない、というような人は、高齢者を中心にまだまだたくさんいるのだろう。
たぶん総人口の1割くらいはいるのかもしれない。
そういう人たちは、昔と変わらず今でも電話帳をめくっているだろう。

20年以上昔、広島で広告会社にいたころに、電話帳印刷の会社がクライアントの仕事で広報誌製作をやっていたことがある。
そこで電話帳とかNTTの請求書の印刷とかを専業でやっているグループ会社というものの存在を知ったが、その会社は今どうなっているのだろうと少し気になった。
ネットで調べてみると、各地にあったそれらの会社は何年か前に統合し、今では電子出版やWeb関連の業務もやっているらしい。
電話帳印刷の方は発行部数も最盛期の数分の一になっているらしいがまだ続けるようだ。

発行部数が減れば広告収益も減って採算的に厳しいだろう。
それでもなおかつ継続しているのは、顧客へのサービス精神なのか単なる惰性であるのか、それはよく分からない。

NTTと言えば、かつては叩いても揺すってもびくともしない堅固な会社であると思っていた。
そのイメージは携帯電話時代になってもしばらく揺るがず、端末メーカーも含めて多くの関連会社を従えて、これから百年くらいは無敵の存在であり続けるのだろう、と思わずにはいられなかった。
それが自由化でじわじわとシェアを失い、iモードの成功を活かしきれず、スマホ時代への対応に後れをとり、海外へのM&A投資はことごとく失敗している。

この調子でいくと、10年くらいしたらもうどうなっているか分からない、会社が無くなっているんじゃないか、社名が変わってるんじゃないか、と思ったりする。

まったく21世紀の世の中は一寸先は闇であるなあと、電話帳の束を久しぶりに見て思った。
posted by ヤス at 11:41| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年01月21日

バッテリーが不安定な件について

今わたしはiPhone 5Sでこの文章を打っている。
わたしのiPhone 5Sは機種変からかれこれ2年と3ヵ月ほど経っていると思う。
したがって例に漏れずバッテリーの消耗が激しい。
残量表示が90%台になってからの粘りが効かず、すぐに70%60%台に急降下する。

そのくせ電源に繋ぐとあっという間に回復したりする。

この辺はいわゆるiPhoneあるあるだと思うが、iPhoneの買い替えを促す動機としてこのバッテリーの消耗はきわめて有効に作用していると思われる。

わたしとしては、機種代金支払い期間の24ヶ月が終わって請求額が約2千円ほど安くなってほくそ笑んでいたのであるが、それよりも昨今の日経平均の如く乱高下を繰り返すバッテリー残量表示のストレスが無視できないほど大きくなってきた。


これは想像であるが、おそらくiPhoneという製品は、2年ごとの買い替えを想定してデザインされているのだろう。
iPhoneはバッテリーがボディの中に厳重に格納されていて顧客が簡単に交換出来ないようになっている。
この構造によってすっきりとしてかつ堅牢なデザインが成立している。

スマートフォンというのは、まあだいたい2年も使うと、汚れたりスリ傷が増えたりだいぶくたびれてくる。
特にiPhoneのような秀逸なデザインのものだとくたびれが目立つ。
また最新版CPUを想定したアプリを入れたりすると、動作のもっさり感もあって買い替え衝動が増幅される。
そこへもってきてバッテリーの消耗が留めを差すのだ。

まあ開発者側の立場に立って言い訳をするならば、iPhoneというエコシステム全体がスムーズに進化するためにも、すべてのユーザーが一定のサイクルでハードを更新すれば最新の機能、最新のアプリで最新のユーザー体験を円滑に提供出来るのだ、ということになるのだろう。

iPhoneのエコシステムが全体として付加価値アップする体制を維持できている間は、iPhoneの陳腐化・コモデティ化を防ぐことが出来る。
アップルもしばらく安定して成長が維持出来るだろう。


たぶん顧客アンケートをとったら、iPhoneのバッテリーは簡単に交換出来た方が嬉しい、という人が圧倒的に多いのではないか。
これも想像であるけれど、アップルの強さはそういう顧客の要望を適度に無視出来るところなのではないか。

バッテリーの残量表示が不安定なのは顧客にとってけっこうなストレスになる。
だから簡単に交換出来た方が嬉しいとなる。

それに対してアップルの方は、どうせ2年ごとに買い替えるものなのだから交換可能な構造は不要なんですよ、2年ごとに買い替えした方がお客さんもアップルもみんな幸せになって合理的なんですよ、と言っているのだと想像するがどうなのだろう。

などといいつつ、小さいiPhoneが出る噂に、絶え間ない買い替え衝動を近頃頻繁に感じるなあ、などとと思っている。

posted by ヤス at 10:58| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年01月20日

面白いことを言う能力

なんだかんだいってSMAPのことが気になる。

わたしは別にSMAPやメンバーの誰かを応援しているとかいうこともないのだが、日本の芸能界における「アイドル」のロールモデルを確立したSMAPが今後どうなるのかは、やはり気になる。

今後想像されるストーリーとしてもっとも平凡なのは、解散騒動の余韻もひと段落しSMAPはふたたびテレビの世界で元の通り活躍を続けたのでした、めでたしめでたし、というパターンと思われる。
で、今日も休むことなくインターネット世界を飛び交っているSMAP関連のニュース、下世話な噂、裏事情記事などを眺めているところでは、たとえ元の鞘に収まったとしても完全に今まで通りは無い、という雰囲気を強く感じる。
こればっかりは当事者たちに直撃しないことには真相は分かりようがないが。
分かりようはないけれど、いくらか脳みそを奮って考えてみることは出来る。

で、考えてみたのだが、めでたく元の感じで活躍を再開するというのはやはり難しいのではないか。
SMAPはアイドルグループとして積極的にバラエティ番組に進出し、被り物や水かぶりなどのヨゴレ仕事も厭わずこなしたパイオニア的存在である。
いや、SMAPの前に郷ひろみや野口五郎なんかもゴールデン枠でコントをやっていた。
おそらく敏腕マネージャー女史はその辺をお手本にしたのかもしれない。
ともかくも今日において、若手のアイドルは男女問わずテレビのバラエティでお笑いのジャンルにチャレンジする、というのがひとつのお約束になっている。

それはSMAPが築いたひとつの功績と言ってよいだろう。

で、25年間の活動を通じて成熟して来たSMAP各メンバーのお笑い能力は、この事件を機会に大幅に縮小してしまうのではないか。
そうなるとあの5人はただのカッコイイ40代タレント、ということになってしまわないか。
彼らのお笑い能力が復元するためには、今回の事件を昔話として昇華し、笑い飛ばしてしまえる日が来る必要があるのではないか。
果たしてこの先スネに傷を持ち、背中に闇をしょったままで、共演のタレントを面白くいじることが出来るのか。

ネット上を飛び交う不確かな下世話情報を基に考えた限りでは、近い将来に上記のような事態が生じる可能性はゼロであるように思われる。


考えてみると、テレビタレントにとってのお笑い能力と言うのはきわめて重要、というか致命的に重要であるのだと思う。
テレビを観ている人々は、単純にほっこり笑いたいのだ、と思うのである。
というか、お笑い能力は人間のコミュニケーションの土台の非常に重要な部分と言っていいと思う。
テレビに出るエンターテナーにその能力があるのは当然でしょう、という話。

今回の事件でそこのところがかなりの程度壊れてしまったのではないかと危惧するのである。


日常生活においても、面白いことを言うのはけっこうむずかしいよなあと痛いほど思う。
われわれのレベルではすべり芸でさえ上手にすべれないのである。
その意味で、瞬発力勝負のテレビ界で活躍する人々はほんとうに偉大であるなあと、蛇足ながら思う。
posted by ヤス at 14:49| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年01月19日

生放送で謝罪、の感想

今朝はたいへん寒かった。
昨日の雨で出来た水たまりが凍っていて、やっと冬らしい冬になった。

Yahoo!の天気予報を見るとしばらくは最低気温氷点下の日が続くらしい。
寒いのはちょっと嫌だが、しかし冬が冬らしい天気であることは、経済活動も含めて望ましいことである。
雪不足のスキー場もここで積雪の貯金が出来てほっとしているのではないか。

ほっとしているということでいうと、昨日はフジテレビの番組にSMAP5人が生放送で出演して各々思いを語ったらしい。
わたしはその模様を本日未明YouTubeで観た。
その2分40数秒の動画を観る前にTwitterをぱらぱら見ていて、良かった良かったとか、ぜんぜんもやもやが晴れないとかいろんな意見が飛び交っているのを知った。

その上で2分40数秒の動画を観た。

結局のところこの生放送が何を意味しているのか、良かったのか悪かったのか、これから先解散はあるのか無いのか、おじさんにはよく分からなかった。
少し思ったのは、ひとつのタレントグループが自身の解散騒動、事務所とのギクシャクに際して、レギュラー番組の一部を割いて世間に謝罪するというこのパターンは今までに観たことがないなあ、ということ。

SMAPに対する世間の支持が「世論」的な広がりを持つに至っており、なおかつ東京五輪やCMなどで長期の契約があったりして、そっち方面への説明も求められる状況にあって今回の生放送につながったのだろう。
おかげでフジの同番組は普段の3倍以上の高視聴率であったらしい。

今回の解散騒動で、SMAP担当の敏腕マネージャーは業界引退となり、事務所内の一族支配に関する良からぬ噂があちこち飛び交うなど、関係者にとってのマイナス面もいくつかあった。
しかし外野から呑気に眺めている分には、これはテレビ的には、あるいは雑誌なども含めたメディア業界全体にとって、干天の慈雨というか、暖冬続きの冬にやっと訪れた冬らしい寒気というか、そういうゲスな受け止めをついついしてしまう。

現実問題として、この問題の後日談、語られなかった真相、関係者談話などの話題で各メディアはしばらく持ちきりになるのであろう。
この騒動がしばらく賑やかさを保てば「もうひとつの騒動の当事者たち」にとってもありがたい煙幕効果を発揮するだろう。

わたし的には、今回の騒動を機に契約満了の9月で解散という結論でも良かったのではないか、という気がする。
その方が彼らの人間性の維持のためには良かったのではないか、とぼんやり思うのであるが、それなりのビッグビジネスの渦の中ではそうも言っていられない、ということなのだろう。

世間の人気をビジネスの土台にする、というのも、ものすごくたいへんだなあと思った。
posted by ヤス at 11:25| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年01月18日

バスの事故で思うこと

この間たいへん痛ましいスキーバスの事故があって、バス会社のずさんな管理とか運転手の運行実態がいい加減だったとかが問題になっている。
まだ確定的な事故原因の究明は終わっていないようである。
またニュースの詳細についてそれほど頑張ってウォッチしていないのであんまりハッキリしたことは言えないのであるが、バスの運転を生身の人間が行い、なおかつ道路状態や天候が万全でないことがある中では、同様の事故は一定の割合で発生することは覚悟しないといけないと思う。

最近は、自動ブレーキとか自動運転とか革新的な技術がどんどん進歩している。
わたしも、早く自動運転の世の中が来て楽ちんな思いが出来ないかと心待ちにしているわけだが、これからの技術の進化で悲惨な交通事故がかなり減らせるのではないか、ということも期待している。

ところで自動車の安全技術について言えば、過去数十年の間にもABSとかエアバッグとか衝突安全ボディとか、すでにいろいろ普及している。
ここでちょっとウェブを検索して、国内交通事故の長期推移を調べてみる。


image.gif

全日本交通安全協会というところに戦後のデータをグラフにしたのがあって、これを見ると昭和40年台の交通戦争時代が50年頃にいったん収束、だが自動車の台数増加によって再び事故が増える。
事故の増加傾向は平成16年頃まで続き、その後グラフは右肩下がりを描く。

一方で交通事故死者数は事故発生件数に先立ち平成2、3年頃から減ってきている。
これはたぶん衝突安全ボディやエアバッグの普及で事故に会っても死亡には至らない、というケースが増えたからだろう。
おそらくシートベルト義務化の効果も大きかったのではないか。

つまり、技術の進歩で事故による致死リスクは確実に減っているようなのである。
そして直近の10年くらいは事故発生そのものの抑制にも成功しつつあるように思われる。

特に最近は自動安全ブレーキなど、周囲の障害物を検知して衝突回避する技術の普及が急速に進んでいる。
自動車メーカー各社の努力によるこういう事実は素直に喜べる。


もとに戻って、旅客運送事業者の事故についてである。
今運送業界は貨物も旅客もドライバーの高齢化が進んでいる。
若い人がなかなか就業しないから人数も不足する。
そんな中で競合と低コスト競争をしていれば、危ないバスが出てくるのが道理だろう。

本当は業務用車両こそ自動運転化の恩恵が大きいと思うのだが、自動化時代までの間、実用化されている安全技術を義務化する方向の規制強化はあってもよい。
そういうところに補助金を投入するのであれば異存は無いのだが、そういう話は進んでいるのだろうか。
posted by ヤス at 15:50| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年01月17日

センター試験

昨日今日とセンター試験が行われているらしい。
昨日、運動公園のあたりを朝ランニングしていたら、岡山大学に向かう学生服の群れに飲み込まれた。

これはひょっとしてセンター試験なのではないか、と勝手にややエキサイトしてみたが、世の中的には試験のことはかなり話題になっていたようで、しばらくニュースチェックを怠っていた自らの不明を恥じた。

ところでこのセンター試験、われわれおじさんが高校生の頃は、まだ共通一次試験だった。
ウィキペディアで見てみると、共通一次試験は1979年に始まって1989年まで11回続いた後に、1990年から現在のセンター試験に衣替えしたそうである。

ちなみに共通一次試験の正式名称は「大学共通第1次学力試験」であるらしい。
初めて知った気がする。

思い出してみるとわたしも、今を遡ること30年以上昔に岡大の校舎の片隅でサイコロの目がプリントされた鉛筆をコロコロ転がしてマークシートの解答欄を黒く塗りつぶしたものである。


ところで共通一次もセンター試験もいいサイコロの目が出るかどうかの運試し、ではなくて、高校で習った教科の基礎的な知識がきちんと身についているのかどうかを測るのが趣旨であるようだ。
これはそれまでの大学入試で、一部の大学が超難問や想定外の奇問を出したりするのが問題とされていたからだという。

難問奇問の入試だとその時たまたま解けた奴だけが合格になって公正を欠く。
毎日地道にコツコツ勉強している学生こそ報われるべきだ、という考え方が共通一次やセンター試験の根底にあるようだ。

もちろん高校の勉強の基礎的な成果をある程度合否の判断材料とすることに異存はない。

だがそれだけだと大学は、「第一志望は公務員」の羊の群れを量産するだけのモラトリアム施設に成り下がってしまう。


例えばプロ野球みたいに、大学側のスカウトマンが全国の高校を巡回して、地方に眠る天才、奇才、オタクやマニアや変な奴をリクルートして回るみたいなのがあってもいいのではないか。
学生側も早い段階から、出来れば中学生くらいから各大学の特徴・業績の情報を収集して、優秀な学生は逆指名の学費免除で大学に入ってやる、みたいな風になると、日本の大学の眠い授業が少しは面白くなるのではないか。

大学受験くらいは真面目にコツコツ勉強した子が報われてほしい、というのは親心なのであろうけれど、それだけだと大学が不活性化していくことは間違いないと思う。
そうなれば大学に入る子供の方もゆくゆく不利益を被ることになるのだ。

まあそういう改革が簡単に出来るのなら、とっくの昔にやっているのだろうけれど。
posted by ヤス at 11:56| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年01月16日

どうでもいいが不倫と解散について

さて、日本の芸能界では今、不倫と解散の話題が持ちきりになっている。

一般的な不倫はもちろん違法行為ではない。(と思うが本当だろうか)
だが損害賠償などの民事訴訟のもとにはなるだろう。
不倫の「被害」にあった嫁さんや旦那から訴えられてカネを取られるリスクがある。

また、人気グループの解散は、どちらかと言うと憲法の職業選択の自由などを背景に、ある程度個人の意思が認められるべき領域だと思う。
ところが人気グループであるがゆえに、グループ当事者と事務所、そして広告クライアント企業など各関係者間に巨万の金銭が動く契約が存在している。
だから個人の勝手でおちおち解散も出来ない。

わたしの個人的趣味で言うならば、芸能人が所属グループを解散しようが、微妙なお年ごろの女性タレントが妻子持ちのミュージシャンと不倫しようがそんなんどうでもいいじゃんと思う。
世の中のおじさんをはじめとする多くの人々は、同様にどうでもいいじゃんと思っているのではないか。


で、この問題についてしばし真剣に、2分くらい考えてみる。

この手のゲスな芸能ゴシップを連発している週刊B春などの週刊誌は、なぜ芸能人の惚れた腫れたやら離職転職事情のスクープに血道を上げるのであろうか。
もっとも単純な想像は、そのようなゲスな記事が売れるから、である。
多少の勇み足記事による訴訟リスクを割り引いても、ゲスな記事は売れて儲かる。
となれば、厳しい出版不況を乗り切るためにもその手の記事を書かねばならない、のは無理も無い。



今回の不倫と解散の当事者の芸能人は人気が高いと冒頭書いた。
彼らと彼女は人気・好感度において芸能界のトップランカーである。
そのトップランカーの地位を活用して数多くのCMに起用され、テレビ番組のメインを張ってきた、ということがある。

彼らに巨額の金銭を投入しているテレビ局やクライアントにひとこと忠告するならば、彼らも生身の人間であるのだから、いつどこで燃えるような恋に落ちて仕事そっちのけになるか分からないのだ、ということを想定すべきであったのではないか。
あるいは、長年に渡るいろんなギスギスが溜まりに溜まってある日突然人気グループが解散するとか事務所を辞めるとかのリスクを考慮すべきであったのではないか。

というかたぶん局やクライアント企業はそんなこたあ先刻承知で考慮しているんだろう。
生身のタレントなんて、いつ事故や病気で活動不能になるか分からず、怪しい霊媒師にとりこにされて引きこもりになった実例も数多い。
この人気タレントがダメになったら次の人気タレントに乗り換えるまでだ。

週刊B春などのゲスな記事は、そのような芸能界の地殻変動のトリガーとしての役割を果たし、ある意味タレント枠の新陳代謝活性化を促進しているのかもしれぬ。
少なくとも世間の人気を広告価値に変換して巨額の利益を稼いでいることのカウンターバランスとして、週刊誌にゲス記事を書かれることのリスクがあるということである。

世の中おいしい話ばかりではないっちゅうことなんだろう。

と少しゲス記事擁護の論調になったが、わたしとしてはその手のゲス記事はどうしても好きになれないということを最後に言っておく。
posted by ヤス at 11:13| Comment(0) | 徒然なるままに

2016年01月15日

猫ブームを分析する

今日は猫ブームについて書いてみる。

なぜ今さら猫ブームについて書くのか。
今日たまたま道を歩いていて思いついたからだ。
それ以外他に何も浮かばなかったから仕方ない。


さて、この猫ブームがいつ頃始まったのかについてはよく知らない。
しかしネット環境の普及がブームの背景にあるのはたぶん間違いない。

猫はどうも狭い箱や鍋に自ら進んで入り込む習性があり、そのようすを捉えた動画がこの数年増加しており、たぶん2〜3年前には猫動画というひとつのジャンルを形成するに至った。(と勝手に思っている)

この猫動画は、スマホとスマホ動画の普及によってさらに身近なものとなり、かくして猫ブームは今絶頂期を迎えている。(と勝手に思っている)

一方のペットの雄である犬。
犬についてもネット世界の拡大に比例して、可愛らしい犬動画を見かけることは多くなった。
だが悲しいかな犬は土鍋にもぐり込んだり、畳の上にガムテープを輪っか状に貼って作った「テレポーテーション装置」の真ん中にチョコンと座ったりしない。
家畜動物として人類とともに歩んだ数万年(または数十万年かそれ以上)の間、飼い主に尻尾を振り、忠勤の限りを尽くしてきた犬としては、ネット動画のキラーコンテンツになるような習性を育むことを怠ってきたのは痛恨のミスだった。


(社)ペットフード協会のデータによると、2014年の犬の飼育数は1035万匹、猫は996万匹だそうである。
過去5年間、犬の飼育数は12.8%減で猫は3.6%増なので2015年には逆転したことになる計算らしい。
この数字を見る限り、猫は普通にしていただけなのに犬の方が勝手にこけているだけのようにも思える。


ところで、数ある動物の中で犬と猫がここまで確固たるペットとしての地位を築いたのには理由があるのだろう。
犬は知らない人が家の敷地に入った時に「ワンワン」と吠えてセンサー&警報の役割を果たすことができる。
あるいは狩猟犬や牧場犬、軍用犬、警察犬、麻薬犬、盲導犬などなど臭覚能力などを活かして他にもさまざま人類の役に立つ。
一方の猫は、昔はネズミの駆除が主たる飼育目的だったのだろうが、他に何か役に立つことはあるのだろうか。

そういう意味では、数十年前の日本には使役馬や牛も、犬猫同様人類の役に立つ動物として田舎の農家ではわりかし普通に飼われていた。
本来なら犬猫同様に馬や牛が愛玩動物としての地位を築いていても良さそうなものだと思う。
だがやはり馬や牛ではサイズ的な問題から一般的なペットとしては難しいのかもしれない。

ということで家畜動物の歴史を考えてみると、昔は役に立つ働きをすることが飼育のための必要条件であって、役に立つついでに飼い主から愛情も注がれていた存在だった。
ところが現在では、実用の役に立たなくてもひたすら愛玩の対象として元気で可愛くいてくれればよい、ということに条件が大幅緩和された。

その結果、馬車馬のように働いていた牛馬がまず脱落し、人類のために八面六臂の活躍を見せる犬を尻目にもっとも役に立たない可愛いだけの猫ちゃんがペット界の頂点を極めたのである。

猫ブームの歴史的構造は、このような家畜動物業界におけるパラダイムシフトがもたらした必然的結果であったのだ。(と勝手に思っている)
posted by ヤス at 15:26| 徒然なるままに

2016年01月14日

戦略は必要か

経営について書いて3日目。
いい加減飽いてきた。

まあとりあえず書く。

もう10年以上前になるかもしれないが、「複雑系」というのが流行った。
複雑系はもともと自然科学の用語だと思うけれど、世の中にはいろんなカッコいいワードをビジネス用語に変換して使いたい、という人がいるようだ。
複雑系の意味がまず判然としないのだが、たぶんビジネスの世界は間違いなく「複雑系」なのであって、だから複雑系を冠にいただいたビジネス書がワッと書店に並んだ。
わたしはそういうのにはわりかし素直に飛びつくタイプだ。

で、そういうやつの一冊に、ソニーの偉い人が書いたのもあった。
内容はもう憶えていない。
収穫逓増とかバタフライ効果とか複雑系関連のキーワードがぽつぽつ出てきた。

本の趣旨は、時代は変わって単純な右肩上がりから複雑系経済の考え方に頭のなかを入れ替えないといけない、ソニーはその新しい考え方で経営戦略を作っている、みたいな感じだった。(と思う)
まあいくつか別の本の内容が混ぜこぜになっているかもしれない。

要するに、ソニーの戦略は新しい市場経済のパラダイムに基いて築き上げているから素晴らしいのである、というような趣旨であったと記憶している。

複雑系ブームと時を前後して、ソニーショックが来てソニーは長い低迷時代に入る。


さて、わたしは時々思うのであるが、世の企業にとって経営戦略なるものは必要なのだろうか。
「正直な商売をする」とか「大きくならずに地元でがんばる」みたいな社是・理念のような抽象度が高くて普遍的なものは、あってよいかもしれない。
だが、一寸先は闇で来年の環境がどうなるか分からない状況のなか具体的な事業戦略を作って、それは有効でありうるのか。


性懲りもなくまた生き物の例えで考えてみる。

生き物ならみんな長生きしたいと思っているだろう。
わたしも長生きしたい。
で、生き物が長生きするための基本は、とりあえず今死なないことである。
いま死なないことの連続が結果としての長生きである。

ただし人類は計画することが出来る。
未来の空腹に備えて食べ物を蓄える、獲物の通り道にワナを仕掛けたりする。

未来を予測できる人類の素晴らしい能力の成果のひとつが「経営戦略」なのであろうけれど、なんだかそれってスマート過ぎて怪しくないか。
だって経営は複雑系だと言い、要するに複雑過ぎて先が分からんと言っているのに、具体的な経営戦略が策定可能なもんなのかい、と思う。

考えるに、生命力というのは「その場しのぎの能力」なのではないか。
そして生命力の強い会社とは、社長も従業員もその場しのぎの能力にすこぶる長けている会社なのではないか、という気がしてならないのである。

そういう意味では経営戦略なるものは、株主や金融機関に対する目眩まし、煙幕のようなものに思えてしょうがない。
それもこれも本来は自分のために考えていた経営の計画が、株主や金融機関に対する御説明や御約束の道具として流用されるようになったからではないのか。
という気が、なんとはなしにするのである。

ちなみにわたしは昔からのソニーファンであり、これまでにPCやデジカメ、プロジェクター等多くのソニー製品を購入してきたことを付け加えておく。
posted by ヤス at 13:05| 徒然なるままに

2016年01月13日

経営計画、歪みのはじまり

さて、経営計画について書く。

経営計画はこの世に不要なのかといえば、たぶんそうではないと思う。
それなりに役に立つこともあるのではないか。

世の中から経営計画なるものをいったんすべて無くしたとする。
でも、すぐにどこかの社長が「なんか計画でも作ってみようかな」と言って作るだろう。
そもそも「計画」というのは、思わず作りたくなってしまう一面を持っていると考える。

それはたぶんゴリラよりもチンバパンジーよりもオラウータンよりも人類の方がずっと計画を上手に作ることが出来るからだと思う。
せっかく長い時間(300万年くらい?)かけて前頭葉の空間認識機能を磨き上げたのにそれを使わないのはもったいなさすぎるのである。

それと、マラソンで向こうに小さく見えるあの信号までがんばって走ろう、といういわゆる君原健二効果というのがある。(と、わたしは提唱している)
人間は視界に目標物を見ると思わず目指してしまう悲しい性がある。
カエルが動くものになんでも飛びついたりするのと同じだ。

その習性を活用し、来年1億円売りたいと思ったらその目標を常に視界に入れておくのはたぶん有効である。
おそらく、目標売上を決めてそれをなんとかクリアしたいなと思うような社長は、日頃から頭のなかであれやこれやの数字を思い浮かべている。
あとは頭のなかに浮かんだ数字を従業員に毎日訓示して嫌な顔されたり、PCからプリントアウトして張り出したり配ったりすればよい。
従業員も人類なので、目の前に目標が見えると思わず目指してしまう。
そこはカエルと一緒だ。

経営計画とは、本来そのあたりまでが本質的あり方なのではないかと思う。


しかし資本主義経済には、絶大なパワーを持つプレーヤーとして投資家と債権者というのがいる。
そこそこ元手のかかる事業を実現するためには、彼らから資金を拝借しないといけない。
そして資金を拝借するにはなにかもっともらしい論理的根拠が必要だ。

投資家と債権者は、資本主義にもっとも忠実な存在である。
というか資本主義そのものと言って良いだろう。
彼らには経済合理性以外の合理性は無い。
それは別に非難されるべきことではなく、そもそもそうなんだからしょうがない、そういう話。
カエルが動くものに飛びつくのと一緒だ。

で、本来ナイーブな存在であるべき経営計画が、彼ら資金の出し手に提示されたところから経営計画をめぐる四次元空間の歪みは始まる。

とりあえず、経営に関する計画のあり方は資金調達の担保代わりに使われるようになって少々ややこしくなったのではないか、というのがわたしの仮説である。
長くなったので続きは明日だ。(たぶん明日書くと思う)
posted by ヤス at 10:27| 徒然なるままに

2016年01月12日

経営計画について考えてみる

今日はまじめに「経営計画」なるものについて考えてみたい。
以前にも何度か書いていて、どうせ似たような話になるだろうが、まあ気にせず書く。

経営計画というのはおおむねハズレるようになっているようである。
それはこの宇宙が依って立つところの未来予測の原理的不可能性からも推測出来る。

経営計画の作成をしたり審査をやったことがある人であれば実感としてよく分かるはずだ。

営業マンの受注目標でも同じようなことだと思うけれど、毎月毎月きっちり計画通りの数字を上げている「出来る営業マン」は、目標数字をにらみながら現実をそこにアジャストしているんだろう。
彼(または彼女)がほんとうはちょっと余力を残していることを皆知っている。
逆に言うと計画値に対する余力さえあれば、数字をクリアすることが出来る。

これは会社の場合でも同じで、銀行や投資家に提示した経営計画に対して会社の実力が上回っていれば計画をクリア出来る可能性が高い。
しかし単純右肩上がりでない昨今の経営環境においては、その辺の目測はたいへん難しい。

わたしも生業として会社の経営計画を作っている。
建前としては、「会社が主体となって作成する経営計画」を横で手伝っている。

で、銀行に対して必ず言うセリフ(夢遊病患者のように半ば無意識に言っている)は、

「売上も費用もかなり堅めに作ってあります」だ。

しかし結果、往々にしてゆるゆるのことが多いらしく残念ながら計画下振れに終わることもしばしばである。
ひとつ言い訳をするならば、あまりに馬鹿正直にほんとうに堅めに作ると、銀行様の想定する与条件に届かないのである。
だから様々なテクニックを駆使し、リスク回避的な売上計画と余裕を見越した費用計画にもかかわらず与条件を満たす利益とキャッシュを捻出するような、四次元空間的経営計画を作成するハメに陥る。

しかしそこは銀行(の担当者)も大したもので、そういう事情は先刻承知であって、四次元空間にひそむ時空のゆがみに対し無粋なチェックが入ったことはないのである。

あんまりそんなことを書いていると仕事の信用に差し支えるかもしれない。


とりあえず、昨今における経営計画作成作業というのは、四次元空間を駆使して光の速さを超越するようなアクロバティックなものになることが多い気がする。
というか、経営計画というのは昔からそういう本質的一面があったのではないか。
そしてそのアクロバット計画は大人の包容力によってかろうじて存在を許されている。

かと言って計画を無しにすればいいかというと、大人の事情的にそれは絶対困るのである。

結局この経営計画というのは一体何なのだろうか。
今日はいい加減字数が多くなったので、気が向いたらまた明日考えてみよう。
posted by ヤス at 14:22| 徒然なるままに