2015年12月16日

五輪エンブレム公募問題

ケチが付いた2020年東京五輪のエンブレムが公募で決定されようとしている問題。

先頃この公募方式に対してアメリカグラフィックデザイン協会から反対の意思表明があった。
またかねてより国内からも批判の意見が出ていた。

わたしも東京五輪のエンブレムデザインを公募することについては大きな問題があると考える。

すでに公募に対して多くの提案が寄せられている。
いっぱしのプロデザイナーであれば、「当たる」確率が限りなく低い賞金100万円のために自分も応募しようとは思わないだろう。
そうなると集まる提案は素人またはセミプロ・デザイナーの作品が大勢を占めることになる。
そして集まった素人作品を複数者からなる「審査委員会」で選ぶのであろう。

他にも多くの人が批判している通り、このようなやり方は五輪組織委員会がプロのデザイン仕事を全く理解出来ていないことを示していると思う。

組織委員会はエンブレムに対し、ひとますそれっぽいもので批判を受けないデザインが用意出来ればよいのだ、と考えていると思わざるを得ないのだ。

百歩譲ってどこかの私企業が自社のシンボルマークを公募で決めるのは、宣伝目的としてありかもしれない。
公募方式にはそれなりの効用もあるだろう。

だが五輪はサッカーワールドカップと並ぶ世界の超ビッグイベントである。
そのデザイン報酬が100万円というのもあまりに少な過ぎる。
その何倍もの費用がデザイン展開のケーススタディや類似調査などにかかることが想像され、いかにもアンバランスだ。

本来のエンブレムデザインは、やはりしかるべきプロデザイナーにデザインの活用法も含めたシステムとしての提案を求めるべきだった。
その意味では、最初の佐野氏に頼んだプロセスは、あながちまちがいではなかったと思う。


問題の発端は、今回の東京五輪がその目指すべき方向、コンセプトがきわめて曖昧であることだと思う。
そして曖昧であることの原因は、五輪のプロデュースが「なんとか委員会」とかの組織体による合議に委ねられているところにあるのだと想像する。

もし可能なら、才能のある個人を指名して総合プロデューサーに任命し、その個人の情念に基づいて五輪大会をプロデュースすることが、わたしの考える理想像である。

五輪のようなイベントは、最大公約数的な平凡な企画より、クリエイティブでカッコイイものであって欲しい。

それには組織の合議や公募や多数決のような民主的方法はそぐわない。

現実の問題もいろいろあるとは思うけれど。

そんなことを考えた。
posted by ヤス at 10:53| 徒然なるままに