2015年12月06日

危機的状況

今、世の中には危機的状況がいたるところにある。
まず、テロや戦争や紛争の類が後を絶たない。
戦争や紛争ならある程度発生しそうな地域が分かるから、そこに近づかなければいいけれど、テロの場合はどこで発生するか、その範囲が広くなるのでその分恐ろしい。



自然界を描いたドキュメンタリー番組で、水牛が水辺に近づいて水を飲もうとするシーンがあったりする。
次の瞬間、水からでっかいワニが飛び出して水牛の首根っこにガブリと噛みつく。

わざわざワニの出そうな水辺に近づくなんて、水牛も馬鹿だよなあと思ったりする。

でも水辺に行かないと水が飲めない。
また水を飲みに行った100頭の水牛のうちワニに食べられるのが2〜3頭とすれば、水牛の群れ全体としてはなんとか生き延びている。

自然界に生きる水牛的には、水辺にはワニがいて草原にはライオンがおり、水を飲んでいても草を食べていてもそこには危機的状況が隣り合わせにある。


考えてみると、生きるというのは危機的状況と隣り合わせにある、ということのように思われる。
生きているということは、死ぬ可能性があるということだ。
逆から言うと、死ぬ可能性があるからこそ生きていられる、ような気がする。

話がまたややこしくなってきた。

世の中の危機的状況についてである。
世の中にはテロ以外にも、政府の財政がパンクしそうだとか、勤めている会社が倒産しそうとか、夫婦仲が決裂したとかあらゆる危機的状況が溢れている。

でも、自然界の法則の立場から見ると危機的状況こそがデフォルトなのではないかという気がする。
危ない状況は、生きていることの証ではないか。
ただ、人間のテクノロジーは自然界のレベルを遙かに越えていて、ワニが水牛を自分の食べる分だけ殺すのに比べて、人間は大量破壊兵器で人間の群れごと一網打尽にしたりする。

そういう人間のテクノロジーの激しい進化は、天上の神様も予想外だったかもしれないが、たぶん人間はこの何万年もの間、危機と向き合い必死に生き延びてきたのではなかったか。

いい会社ほど危機に向き合い、いろんなことにチャレンジして自ら危機的状況を作り出しているのではないか。
危機的状況がほとんど無い安定した会社は、たぶんもうすぐ終わる会社なのではないか。

生きることは、エントロピーの法則的にたぶんとっても不安定なのである。
だから人生は常に危機とともにあるんだよなあ、と思った。

posted by ヤス at 12:15| 徒然なるままに