2015年12月31日

今あるものでどうにかしよう

昔読んだ講談社のブルーバックスに、ニュートンは、この世の物質を構成するすべての分子の位置と運動量が分かれば未来がすべて予測できるようになると考えていた、と書いてあった。

野球のボールやサッカーのボールなんかだと形が真球形からゆがんでいたりするので、跳ね返るときの動きがニュートン力学の計算と多少ずれる。

でも例えば空気中の酸素分子や窒素分子はまったく計算通りの動きをする。
だから全宇宙の分子の動きがすべて把握出来れば未来が分かる。
というのは夢のある話である。
無論、現代のスーパーコンピューターをもってしても、百年後の未来のスーパーコンピューターでも全宇宙の分子運動の計算は不可能だろうけれど。

でもニュートンの期待はコンピューターの計算能力と関係ないところで消滅した。

量子力学によってさらに小さい素粒子の世界、クオークなどの素粒子は確率的に動くことが分かったからだ。
素粒子が右に行くか左に行くかは確率的にしか分からない。
つまり、どっちに行くかは原理的に分からない。

このように宇宙の物質は土台のところでゆらゆら揺らいでいて、だから未来は原理的に計算出来ない。
この宇宙の原理として、未来は予測不可能なのだ。
同時に、宇宙の森羅万象を100%理解することは不可能なのである、とわたしは勝手に理解した。



深夜の23時頃、仕事の用事でレポートとか企画書とかを明朝までに書かないといけないとき、Kindleショップとかでそれに関連する本を2、3冊買い込んで読み始めたりすることがある。

しかしこれは明らかに間違った行動だ。
あるいは、仕事に取り掛かるのを先延ばししたいだけのようにも見える。

その仕事は、今脳みその中に入っている情報だけを基に取り掛かるべきだ。
本を数冊斜め読みして仕事に役立つ情報が得られるかどうか、はなはだ怪しい。
そして今脳みそにある情報だけでも、ねつ造なりでっち上げなりしてその仕事をそれなりの格好に仕上げることはたぶん出来る。

目の前の仕事はほとんどの場合、今脳みそにあるネタだけを頼りに始めるべきだ。
今脳みそにある情報こそが、とりあえずわたしにとっての宇宙のすべてなのであるから、と思ったりした。

posted by ヤス at 08:15| 徒然なるままに

2015年12月30日

倹約遺伝子の人類

減量はつらい。
減量するためには空腹状態を維持しなければならない。
減量がつらいというのは空腹状態がつらいということだ。
空腹状態がなぜつらいかというと、これは人類の本能に根ざした辛さだからである。

倹約遺伝子と浪費遺伝子というのがあるそうだ。
倹約遺伝子を持つ種類の人類は、腹いっぱい食べてもまだ満腹にならない。
で、せっせと食べ続けてカロリーとして消費されなかった分は脂肪で溜め込む。
かたや浪費遺伝子タイプは、すぐ腹一杯になるから脂肪で貯め込むのが苦手だ。


人類の歴史は飢餓との戦いの歴史であった。
だいたい野生動物の生活は「食うこと」を中心にまわっているように見える。

生きるために食べるのか、ひょっとしたら食べるために生きているのか。
自然本来の動物にとって、食べることは生きることそのものなのだろう。

農業が始まって穀物を中心とした食料の安定生産の道がひらけ、産業革命で工業化して動力灌漑などで生産性が向上し、バイオ技術でより収量の高い品種が生まれ人類の食事事情は改善してきたけれど、糖尿病や高脂血症などの「食べ過ぎ病」が問題になるほど飽食の時代になったのは19世紀以降、ついこの200年足らず前からだという。

原始人類には倹約遺伝子を持つものと浪費遺伝子を持つのといたけれど、長く続いた飢餓状態で浪費タイプは淘汰され、脂肪を溜め込む倹約タイプが生き残った。

しかし人類の遺伝的特性は、近代以降に突如として現れた飽食時代にはさすがに適応できていない。
おそらく遺伝子が飽食対策を整えるには10万年単位の月日が必要になる。


人類はこの問題に対して遺伝情報の進化という生物的な対策ではなく、意思のちからに基づく知的方法によらなければならない。

だから体重を減らそうと思って体重を減らす、というのは人類の知性による遺伝子的本能に対する戦いである。
だからつらい。
本能の力は偉大なのだ。


今からもうあと何十時間か経つと、日本全国のお寺さんで煩悩を象徴する百八つの鐘の音が響き渡る。
煩悩の土台には原始時代の飢餓の思い出があるに違いない。

ライザップは派手な宣伝でキワモノ的なビジネスに見えるけれど、本能との戦いを後ろ盾しているという意味で、案外根源的な商売なのかもしれない。
と思った。
posted by ヤス at 07:48| 徒然なるままに

2015年12月29日

開始のハードルを下げるには

今までにあまりやったことのないような仕事をやるとき、少し止まる。
あるいは以前やったことがあって久しぶりにやるときでも、はてこれはまず何をどうするんだったかなと、やや止まる。

短いスパンで習慣的にやっている種類のことは、着手するのにハードルが低い。
取り掛かりの手順が脳みその中でそこそこ自動化されているので、あまり考えなくても始められるのであろう。
脳みその特性として、初めてのこととか、久しぶりにやることで手順が自動化されていない種類の行為は、実際に取り掛かるまでのハードルがかなり上がるように思う。
やってみれば簡単なことでも、手を着ける前段階では眼前に見えない壁がそびえているようで、なんというかものすごくおっくうで、面倒くさい。

目の前の未来にある新しい仕事は、ほんとうは大したことがないんだけれど、少し未来にあるというだけでものすごくハードルが上がるのだ。
こういう時の正解は、何も考えないで始める、ということだと思う。
そんなことが茂木健一郎の本にも書いてあった。
でも何も考えないで流れるように止まらず仕事に取り掛かるのはかなり難しい。


一方で、毎日やっているようなことでほんの少しだけしんどいことも、本当は大してしんどくも無いのだけれど時々とてつもなく面倒くさくなることがある。

たとえばマラソンの練習で軽くジョギングに出かけようと思うのだけれど、ウィンドブレーカーを着て手袋もはめて、後は靴を履いて出かけるだけなんだけれど、その状態でふとパソコン机に座ったりした瞬間に、出かけるのがものすごくおっくうになる時がある。

これについては最近少し発見したことがある。
毎日の仕事やトレーニングについては、出来るだけ負荷を下げる、やらないといけないことを思い描いた時に、しんどいイメージをあまり思い出さないくらいのレベルに下げる。
1時間のジョギングが少し重たいなあと感じたら30分にする、それでもダメなら15分にする。
たぶんそうすると、続きやすい感じがする。


新しい仕事に取り掛かるときのハードルの高さについては、まだよいアイデアがない。
五郎丸選手をマネして気持ちの切り替えスイッチになるようなルーティンでも編み出してみようかと一瞬思ったが、そういうルーティンを考えるのもなんだか面倒くさいなあ、と思った。
posted by ヤス at 09:30| 徒然なるままに

2015年12月28日

ピントリングを回す方向について

わたしは写真が好きで(というかカメラが好きで)、一眼レフのカメラを昔から使っている。
まだフィルムカメラが健在だった頃、最初に買ったのがキャノンのEOS10で次がニコンnewFM2。

レンズ交換式一眼レフカメラは、本体を買った後に大仕事が待っていて、それはレンズを揃えることである。

レンズ2本、3本くらいならどうということもないが、5本、6本と増えてくるとカメラバッグの重量増加と反対に財布が軽くなっていく。
特にニコンとキャノンの2種類のレンズマウント体制では財布が軽くなる速度も2倍になる。

で、かつて購入したキャノンEOS10は当時としては最新技術の3点オートフォーカスを搭載していた。
一方のニコンnewFM2はピントも露出もレンズやダイヤルを手動で操作するマニュアル機。
EOSは文字通り触るのはシャッターボタンだけで写真が撮れる。
なんなら右手だけの片手運転でも撮れる。
しかしnewFM2は左手をレンズに添えて絞りリングとピントリングの二つの輪っかを慎重に操作し、カメラボディの右肩を掴んだ方の親指でシャッター速度ダイヤルをグリグリ回さないといけない。

その際、露出は多少いい加減でも後で修正できるがピントは修正不可なので慎重に合わせる。
そして慎重に合わせないといけないのはけっこう疲れるのである。
そこへいくとEOSのオートフォーカスの技術は偉大であった。

が、輪郭やコントラストのぼんやりした物体などオートフォーカスの苦手な被写体とか、画面の端の方にピントを合わせたいときなど、特に当時のオートフォーカスは少々使いにくいことも多かった。

だからEOSでも時々は手動でピント合わせしないといけない。

で、キャノンとニコンではピントリングの回し方が逆方向なのだ。

ニコンのレンズは右に回すとピントが遠くに合い左だと近くに合う。
キャノンはその逆で左回しで遠くにピントが合う。
ニコンの癖が染み付いていたので、2種類一緒に持って撮っているときなどついキャノンを逆に回してイライラした。

しかし最近のカメラでは、コントラスト方式で全画面域でピント合わせが出来るものがだんだん増えてきた。
また液晶画面にタッチすると瞬時にそこにピントが来てシャッターが切れたりする。

さらに、レンズのピントリングも機械式に手で回すのでなく、小型モーターが組み込んであって電気で回す方式が増えている。

あの電気式のピントリングは、出始めの頃はレスポンスが悪くてなんだかにゅるにゅるした回し心地だったが、今のヤツはタイムラグも無く気持ちよく回る。

しかも電気式なのでピントリングの回転方向を選べるようになっていて、キャノン式にもニコン式にも合わせられる。

ということで、電気式のピントリングにおいては、長年の課題であったリングの回転方向問題が解決しそうなのであるが、同時にオートフォーカス技術の進化が凄すぎて手でピントリングを回すこともめっきり無くなったなあと思った。

という、ピントリングのどうでもいい話。


posted by ヤス at 15:12| 徒然なるままに

2015年12月27日

なんとか系について語る系

昔、高校時代に理系と文系のクラス分けっていうのがあった。
この「理系」と「文系」というのはあくまで履修コースの分類を表す表現であったはずである。

しかし理系・文系は、いつのまにか「理系の人」「文系の人」と人間の属性を表す言葉になっている。

理系を履修すると国語や社会科などの文系科目の一部が授業から省略され、文系では理科や数学の一部が省かれる。
そしてその履修コースの違いによって学生の知的特性に差違が生じ、その結果理系なので日本史に疎い、文系なので微分積分がよく分からない、という人間が出来あがる。

「理系の人」「文系の人」というのはそういうことだろう。

我々の時代と最近は教育制度が違うから居間は必ずしもそのようではないかもしれない。

しかし、理系とか文系とかのカテゴライズが、人々の間で理系知識、文系知識の不足に対する言い訳として気軽に利用されてきたのは間違いないのである。


この、「なんとか系」というカテゴリーはかなり便利だ。
ビジュアル系とか、かわいい系とか、お笑い系や頭いい系など、何かの修飾言葉のお尻に「系」を付けるとある種の属性を持つ人間集団のカテゴライズが完成するというのを誰かが発見した。

以来「なんとか系」は広く日本中に普及し、便利に使われている。

ところで、この「なんとか系」とよく似た表現に「なんとか族」というのがあった。
古くは「太陽族」「暴走族」「転勤族」「社用族」、さらには「タケノコ族」などなど、なんとか系より古くから便利に使われていた形跡がある。

少し調べてみると、分類学的には系は族の上位分類であり、また社会学的には族も系もある共通属性をもった人間集団を表す言葉だが、族の方が系より結合が強いらしい。

たとえば「暴走族」は、段付きシートとタケヤリで武装したガチガチの暴走する族であるが、これを「暴走系」と言い替えるとこちらは改造控えめもしくはドノーマルのバイクで時々速度超過するか、あるいは気分の中だけで暴走するヘタレを表す表現になる。

同様に「ヒルズ族」が「ヒルズ系」に変わると、必ずしも六本木ヒルズに居住する必要がなくなる。
多額の預貯金を持たずともヒルズ族の周辺を賑わせる存在でありさえすればヒルズ系にはなれそうだ。

というわけで「族」と「系」の正しい使い分けを憶えたので、今後の文章表現に幅が出そうだなあと思っている。

しかしこのようなカテゴライズパターンは、安易な「分かったつもり系」の増殖を促し、少々危ういかもしれない。

以上、系と族の違いについて、「長い文章書くのがわりかし好き系」の人からお送りしました。
posted by ヤス at 11:55| 徒然なるままに

2015年12月26日

真面目についての違和感

今日は「真面目」という概念についてやや真面目に考えてみたい。

というのも、「あの人は真面目な人だ」とかの人物評をしばしば聞くことがあるのだけれど、そのときに「はて、その人はそんなに真面目だったっけな」と感じるようなことがわりかし多いからである。

ある人物について、真面目か不真面目か評価するのはかなり難しいと感じる。

それは真面目の定義、不真面目の定義が人により、場合によってかなりバラバラであることに起因するように思われる。

いつもスーツにネクタイを締めて、髪型を七三にわけた清潔な男性は、真面目な人だろうか。

ひょっとするとその男は、言葉巧みに年寄りを騙す詐欺師かもしれない。
あるいは、日頃の抑圧が知らず知らず溜まっていて、アルコールを飲むと暴れる酒乱の癖があるかもしれない。
その人の見た目や日常行動の表面的部分は真面目を判断する重要な手がかりではあるが、やはり100%ではない。

昔のプロ野球選手、特にパ・リーグでは、試合が終わったら盛り場に直行という豪傑が大勢いたらしい。
それで翌日は酒臭い息を吐きながらバッターボックスに入り、マウンドに立っていた。
阪急ブレーブスの今井雄太郎投手は、登板のたびに酒を飲み、ついには完全試合も達成した。
酒を引っ掛けて公式戦に登板するプロ野球選手は、はたして真面目といえるのか。

今井雄太郎は例としてやや適切でなかったかもしれない。
プロ野球選手が六本木に繰り出し、相撲取りが銀座でタニマチと飲み明かし、サラリーマンの企業戦士が安居酒屋でくだをまくのは、日頃の仕事でそこそこ真面目に張り詰めていて、精神のバランスを保つためにハメをはずす、という側面もあるかもしれない。

おそらく真面目と不真面目の要素は、各人の中にまぜこぜに存在するのだろう。
あるいは、人付き合いはいい加減でも、趣味のゴルフには真剣に取り組むというように、同一人物でも目の前の対象物によって真面目と不真面目が入れ替わるようなパターンがある。

おそらく真面目の概念は、ある人物とその人が向き合う対象とのセットにおいて成立するものである。


ところで「真面目」の語源をネットで検索すると、目をしばたかせて「まじまじと見る」というようなところから出現した言葉であるらしい。
それは緊張して真っ直ぐ見る、というのと同時に、おびえる、白ける、などのニュアンスも含まれているそうだ。

語源を調べたらまた少し真面目の概念理解が向こうの方に飛んでいった気がする。
そういうことをあまり真面目に考え過ぎない方がいいのかもしれない。

真面目について真面目に考えてみたが、これがほんとうの真面目であるのかどうか、よくわからない。

posted by ヤス at 11:03| 徒然なるままに

2015年12月25日

言葉の不思議

我々は日本語環境の中で育ち、自然に日本語を習得する。
言葉を覚える時に、いちいち辞書を引いて字句の意味を確かめたりしない。

たとえば、クルマと言ったらエンジンが付いてて人を乗せて走る自動車のことと思う人が多いだろう。
でも人によっては車輪状のクルクル回る「輪っか」を指してクルマという場合もある。

たいていの単語にはいくらかその意味に幅がある。
犬と言ったら大きい犬も小さいのも、老犬も幼犬も犬。
犬の意味を絞り込みたいときは「大きい犬」「小さい犬」など他の言葉との組合わせ技を使う。

その意味にある程度の幅があるために、少しの単語であらゆる事象を表現出来る。
もし単語の意味が今よりもっとピンポイントだったら、膨大な量の単語を覚えねばならない点で言葉の習得がひどく不自由になるのだろう。



言葉の意味には幅がある、すなわち多くの単語はかなり抽象的である。

言葉を使う我々は、抽象的な単語の連なりで相当程度具象的なことがらを表現出来る。


たぶん言葉を発した人の脳裏には、使った単語のそれぞれに、大なり小なりのバックストーリーがある。
さらに、その言葉を受け止めた人にも受け取った単語のそれぞれにバックストーリーがあって、同じ単語がだいたい共通のバックストーリーで結ばれている。

だから文脈が伝わる。

実際問題、あらためて考えると、日常使っている言葉はかなりぶつ切りで、飛び飛びで、ざっくりした単語の連なりであると感じる。
こんなざっくりした文章でよくコミュニケーションが出来たもんだと、人間の能力に感心するのである。

それはたぶん、三つ四つくらいの単語からなる短い文章でも、耳から入って脳の言語中枢に到達した瞬間に、ばっーと具体的なイメージに変身するメカニズムがあるからだろうと思うのである。

ところで、バックストーリーの肝心な部分にお互い相違があるとそれは誤解の元になる。
国籍や文化や宗教の違い、金持ちか貧乏か、男か女か、年寄りか若いかなど、さまざまな要因で言葉に対するバックストーリーの違いが生じるだろう。

でも人間はかなり偉大なので、多くの場合細かい食い違いはスルーする。
スルーしないと言語処理が渋滞してお話にならなくなるからだ。

言葉によるコミュニケーションは、すごいような、いい加減なような、不思議なものであるなあと、ぼんやり思ったのでした。
posted by ヤス at 14:59| 徒然なるままに

2015年12月24日

アナログとデジタル

いつの頃からか、うちにある時計は概ねデジタルになっている。

かろうじて、今使っている8千円のカシオの腕時計はアナログである。
それ以外は、卓上型のデジタルの目覚まし時計が屋内のあちこちに分散配置されている。

時計の表示方式が、アナログとデジタルのどちらが優れているのかは、デジタル時計黎明期にはよく聞かれた議論であった。
アナログ時計は12時間の時間表示の中で現在時を把握出来るという点が良いらしいし、デジタルでは何分何秒の数値が正確に認識出来る。

しかし現在では、高級時計はほぼもれなくアナログであるのに対し、デジタルはスポーツ用途などの機能性に特化したものか100円ショップに出るような低価格品のどちらか、という具合に収斂したようである。

また世の中では、旧世代はアナログでデジタルは新しい、という類型化が行われるけれど、あれは本当なのだろうか。



ここでアナログ時計とデジタル時計の性格を分ける要素として、両方式の時間表示の認識プロセスについて考えねばならない。

わたしの幼少期の記憶のひとつに、時計の時間が読めるようになったのをおばあちゃん(いわゆる祖母)に褒められた、というものがあった。
無論当時デジタル時計はほぼ無い。

時計が読めない、というのは今日においてもおバカアイドルのトークネタになるほど、相当程度の認知能力を必要とするらしい。
デジタル時計が表示板の数字を読み取ればいいだけなのに対し、アナログ時計では、脳みそのやや高度な空間認識機能を動員して時計が示す値を推定しなければならない。

「文字盤の針の位置を見る」から「時間の値を認識する」までのプロセスが、アナログの方はひと手間余分であり、かつそのひと手間は脳みその情報処理パワーを若干消費するものである。
なおかつ、アナログ時計で読みとった値は、はたして10時12分なのか13分なのか、12分47秒なのか48秒なのか今ひとつ判然としない。

アナログ時計の時間読み取りが今ひとつ判然としないことは、遅刻の言い訳にはよいかもしれぬ。

デジタル・アナログ問題における主要論点は、物事を白黒はっきりさせるのかそれとも曖昧なままぼんやりさせておくのかという世代間抗争もあるけれど、もうひとつ表示を読み取る際の脳機能プロセスの問題もあるようである。

ところでこの宇宙の本質は基本的にデジタルである。
宇宙の森羅万象は、素粒子という最小単位の集合で出来上がっているからである。
宇宙に存在するモノが素粒子の「粒」によって出来上がっている時点で、無から有へのなめらかな連続性は否定される。

この宇宙は、細かく見るとギザギザの階段状になっている。

しかし宇宙は果てしなく曖昧でぼんやりしていてよく分からないようにしか見えない。
その点できわめてアナログっぽい。

話がだんたん果てしなくなってきそうなので、特に結論は無いが今日は終わる。

posted by ヤス at 11:30| 徒然なるままに

2015年12月23日

隙間の意味

この世の中はもの凄い隙間だらけである。

宇宙にはブラックホールというのがあって、ブラックホールの中心部分を切り取って質量を計ると無限大であるらしい。

中心部から少し離れると、やっと重さが計れるようになる。
現地に行って計った人はいないと思うが。

なにはともあれ、ブラックホールの近くにある物質は超絶重い。
何しろ原子核同士が隙間なくびっしり詰まっている。
もし地球をブラックホール付近の密度にぎゅっと圧縮すると、手のひらに載るくらいの大きさになるっていう。

もっとも手のひらにそれを載せると死ぬと思うけれど。

ともかくも、地球上にある普通の物質は原子や電子のレベルから見るともの凄くスカスカ。
私たちの目の前にある物質とか、私たち自身の体も原子レベルでは、ひとつの原子から隣の原子まで、大草原の小さな家の隣の家までの距離くらい離れている。
いや、たぶんもっと離れている。

私たちは手に触れる物が鉄製で固かったりするとすごいしっかりしているなあと感じるが、その鉄は物質的には実はスカスカである。

そう考えると、この世の物質はハードウェアとしての実体というよりは「固い鉄の特性」という情報としての存在であるようにも思われる。

なんだか話が分からなくなってきた。


話を変える。
たいていの人間は言葉を喋る。
日本語の単語の意味についてはその一つ一つに、日本語使用者の間で共通の定義付けが共有されている。
そして、言葉を話したり書いたりして人々は意志疎通する。

そうやって出てきた文章に対して、みんなだいたい共通の受け止め方をする。
でもやっぱり人によって微妙に違う受け止め方をすることもあって、場合によっては自分に都合のよい受け止め方が出来ないかと苦労する人もいる。


再び話は変わる。
新国立競技場のコンペが最終結論がでたみたいだ。
こういうコンペでは仕様書が出されて、コンペ参加者は仕様書に書かれたコンセプトを自分なりに解釈して、自分なりのアイデアを創造して建築プランの上に具現化する。

建築コンペに限らずクリエイターの仕事はそういうパターンが多い。

発注者がこんなのが欲しい、と注文したのに対し、クリエイターは自分の創造物を提案する。

発注者の出したコンセプトの要望と、クリエイターが創造した提案との間の真空は、隙間だらけの原子と原子の間の真空のようだなあとなんとなく思ったのである。

原子と原子の間の空間は、たぶん真空だろうということになっているが、実際はよく分かっていないらしい。

でもたぶんそのスカスカの隙間は、単なるスカスカの隙間というだけでなく何か物理的な意味があるに違いないのだ。

言葉と言葉の隙間にもたぶん意味はある。

何を書いているかよく分からなくなったのでとりあえず終わる。
posted by ヤス at 13:27| 徒然なるままに

2015年12月22日

猿の顔の識別より

日本の類人猿研究は世界でもけっこう先端的であるらしい。
昔、一般向けのサル学の本をいくつか読んだことがある。

で、これは比較的有名な話だが、日本のサル研究者は野生の猿の観察研究において、いわゆる個体識別という方法を用いる。
最近は日本以外の研究者もやっているらしいが、かつては猿の群れの一匹一匹にそれぞれ名前を付けて普通に見分けていた日本研究者に対し、外国の学者はたいそう驚いたそうだ。

サル学者は猿に名札を付けるわけでもなく、顔つきを見て識別する。
体の大きさとか、毛の色などの分かりやすい特徴があればともかく、年齢の近い親戚同士の猿とかだとよく似ていて素人では分からないだろう。
しかし学者は毎日猿を眺めている。
さらに言えばものすごく興味を持って注意深く見ている。
そうやって見ていれば、自然と見分けが付くようになるのだろう。



わたしが大学生の頃、光GENJIというジャニーズアイドルがいた。
光GENJIはウィキペディア情報によると全部で7人のグループだったようだ。
わたしは彼らの存在をいちおうは知っていたけれど、個体識別はまったく出来ていなかった。
そういうわたしに対し、当時の部活の女子からちゃんと全メンバーの顔と名前を憶えるようにと指導が入り、歌番組を見たり本屋でアイドル誌を立ち読みしてなんとなく識別出来るようにはなった。

考えてみると我々人類は、身近にいる人々の顔と名前を憶えておおよそのところで識別出来ている。
これは脳機能のひとつとして人の顔の特徴を抽出し、識別する仕組みによって出来る芸当であると考えられる。
またこれもやや有名な話として「おばあちゃん細胞」説というのがあって、個別の顔に反応する脳細胞が存在するという。
この細胞は顔だけではなく、あるおばあちゃんの声や仕草などにも反応するということで、要するに深い関わりのある人物に対しては1対1で対応する脳細胞があるという。


ところで逆に、学生時代にクラス替えで周囲のメンツがすっかり入れ替わったりすると、A君とB君はそっくりだなあ、と思うようなケースが比較的続発する。
後になってみるとA君とB君はまったく似ていない。
でも会ったばかりの彼らに対しては、自分の脳内に個体識別の情報整理が出来上がっていない。
実はA君とB君の顔面の特徴の中に、自分の個体識別システムのキーになるような共通点が存在していて、それが「そっくりだ」という感覚につながっているのではないか。

上記の現象は、たとえば野球解説者がバッティングフォームを解説したりするときにも感じることである。
長年バッティングフォームを見続けているプロフェッショナルは、一瞥しただけでフォームの良し悪し、そのバッターの調子の具合、スランプの原因、などなどの分析が出来る。

それはそのプロフェッショナルの脳の中で、バッティングフォームの動作を観察するためのひとそろいの脳細胞セットが出来上がっているからだろう。


プロフェッショナルになるということについて、以上のような脳内における神経細胞システムの構築作業をイメージしたのであるが、もちろんこれは聞きかじりの情報に基づくわたしの適当な想像であることは言うまでもない。
posted by ヤス at 15:15| 徒然なるままに

2015年12月21日

スポーツにおける失敗型と実力型

野球は失敗のスポーツだっていう。
一流バッターでも打率3割。
またピッチャーの方もストライクカウントは3つまでなのに対しボールカウントは4つまである。

一方で守備で失敗すると「エラー」が付く。
バッターが空振りしても記録が付かないのに守備の失敗には厳しい。
これは守備の方は成功して当たり前だからで、逆にバッティングは失敗が前提になっている。

野球以外でも、例えばサッカー。
サッカーでは一般にゴールはなかなか入らない。
シュートを10本打って1本も入らないことも珍しくない。
逆にPKは入って当たり前、外すとスタジアムがため息に包まれる。

失敗を前提にルールが作り込まれているスポーツ競技の場合、勝敗が偶然に左右される確率が高い。
その点陸上競技や水泳競技は勝敗がだいたい実力通りで決まる。
陸上におけるランニング競技の勝敗の肝は、スタートとペース配分であろう。
100mとかの短距離走ではスタートのウエイトが高くなり、マラソンのような長距離になるとペース配分の重要度が増す。

こう考えてみると、野球のような失敗型競技は、たとえ練習不足でもゲーム現場における戦術・戦略の妙で「何とかなる」可能性が高い。
一方、陸上競技などの実力型競技では、勝負の行方はスタートラインに着いた時に大方決まっている。

しかしそれでもなお、サッカーのバルサが実力通りに大勝し、背泳ぎの鈴木大地は、100m競技で身長一個分実力的に負けていたのに決勝本番で大逆転したりする。


このようなスポーツの世界における、日頃のトレーニングから本番でのパフォーマンス発揮までの流れを見ていると、人間の生き方に対する示唆がたくさん含まれているように感じる。

仕事上の場面で、これはどう考えても失敗しそうだという時はたびたびある。

でもどうしても失敗したくない、という時にどうするか。

ここはソウル五輪で鈴木大地が潜水距離を5m延ばしたような、イチかバチかのチャレンジをしてみる、というのも大いにありだ。

何もしなければ後はただの運任せになってしまう。

万一そのチャレンジが失敗したとしても、一流打者が次の打席に前打席のデータを活かすように、次のチャレンジの成功確率を高めることに繋げられるのではないか。

でも一番大事なのは日頃のトレーニングの積み重ねだ。
練習はウソをつかない。

スポーツには失敗型と実力型がある。
そしてそれぞれの競技者の振る舞いは、人生に大きな示唆を与えるものだなあ、と思った。
posted by ヤス at 09:22| 徒然なるままに

2015年12月20日

身体の左右はかなり非対称

わたしは学生時代の昔、水泳部にいた。

競泳は基本的に4つの種目がある。
自由形(クロール)、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライである。
わたしはいちおうバタフライの選手だった。
その他に得意としていたのは平泳ぎである。
どちらも左右対称動作の泳ぎ。

一方、クロールと背泳ぎは左右の動作が互い違いに繰り返される。
またクロールの息継ぎ(ブレス)は右か左のどちらか片方でしかやらない人が多く、その点で対称性が明確に破れている。

わたしの場合右と左で身体の非対称が若干ゆがんでいて、クロール、背泳ぎのような泳法ではどうしてもバランスが取れない。
というか、だいたいの人が左右の筋力・骨格が非対称なので、特に片側ブレスのクロールでは顔がブレス側に向いているときに大きく身体が持ち上がる左右非対称の泳ぎになる傾向が強い。


あるマラソン大会に出かけたらシューズメーカーのニューバランスのブースがあった。
そこで足形計測していたので測ってもらったらわたしの右足サイズは左より1cmほど大きかった。

人間のような動物は、だいたい左右対称に出来ている。
手足や目、耳、鼻の穴など左右一対である。
ヒラメやカレイなど対称性が破れた生き物もいるにはいるが、ほぼみんな左右対称。

しかし左右対称の生き物の身体は、微妙なところで少しずつ右と左が違う。
自分の顔面を子細に観察すると、鼻の形や左右の目のサイズ、口角の上がり具合、シワやほくろの配置など相違点は無数にある。
また、心臓は左に寄っているし、胃腸や肝臓などの臓器配置もかなり左右非対称。
人間の右半身と左半身は、よく似ているがかなり違うのである。

わたしがクロールと背泳ぎが苦手だったのは、自分の身体の右と左の違いに合った動作を最後まで会得出来なかったからである。

実は今でもランニングで痛みが左脚に集中して苦労している。
右と左の違いにフィットした走り方が出来ていないからだと思う。

天の神さまは地上の生き物をおおよそ左右対称に創造した。
しかし一方、その左右対称はかなりアバウトで細かく見ると右と左がけっこう違う。

その非対称が原因で若干の苦労もあったりするが、考えてみるとこのようにいい加減なシンメトリーの具合が、ある種の個性の基になっている気もする。

ということで自分の中の右と左の違いにもう少し気をつけてみようと思っている今日この頃なのである。

posted by ヤス at 11:39| 徒然なるままに

2015年12月19日

スターウオーズ!

昨日「スターウオーズ」の新作が公開された。
厳重な情報統制によってネタバレ管理されているようであるが、風の噂では評判も上々らしい。

わたしは今を遡ること37年前(たぶん)に、第一作の「エピソード4」を映画館で見た。
確か二本立てで見た記憶があって、その時のもう一本はスティーブン・キング原作のホラー映画「キャリー」であったと思う。
それは家人に連れて行かれてたまたま見たのであって自ら望んで行った訳ではなかった。

が、しかし二本の映画はたいへん面白かったと記憶している。

ところでスターウオーズに限らずだが、映画産業というのはなんだか不思議な業界であるなあと思う。

ウィキペディア情報によると1977年公開の最初のスターウオーズは、制作費1100万ドル、興行収入7億7539万ドルとある。
当時の為替レートは年初290円、年末240円くらいだったらしいが、年末の240円だと26億円で制作して1800億円の収入。
興行に当たっての原価の70倍の売上、原価率1.4%の凄い商売だ。(宣伝経費なんかもあるのだろうが)

有名な話として、スターウオーズは原作になる小説がある訳でもなく、映画のためにルーカスがゼロから物語を作っている。
だから原作の版権購入費用も無し。
また最初からグッズ販売などの収益をルーカス側が囲い込むことでシリーズ続編の制作費捻出を計画しており、ハリウッドの常識のスポンサーの呪縛からも無縁であった。

最初からそういう自由な立ち位置を目指してスタートしていたという点で、ルーカスのスターウオーズはきわめて異質かつ偉大な映画なのだと言わざるを得ない。

よくノンフィクションを基にしている映画では、最後のエンドロールの時に「この映画は実話です」みたいなのが出るけれど、ルーカスの作ったスターウオーズの物語は全てフィクションであり、ただの作り物である。

でもそれがおよそ想像を絶するマネーを産む。
人々はスクリーンを通して見る二次元平面の物語に興奮し感動してそれにお金を払う。

映画をはじめとするエンターテイメント産業は、それによって物理的にお腹が満たされることもない。
でもたぶん人間がお金を払いたくなる「価値の本体」はお腹を満たす「物体」ではなくてバーチャルな感動の方なのである。

そうでないと1千億円も2千億円も稼げないでしょう、と思った。
posted by ヤス at 11:38| 徒然なるままに

2015年12月18日

ライト兄弟から112年

昨日12月17日は、ライト兄弟の世界初の動力飛行から112年目の日であったらしい。

ライト兄弟が初飛行した1903年当時、すでに気球や飛行船は出現していた。
また当時は、ガソリンエンジンの実用化が急速に進んでいた時期でもあった。
T型フォードの登場が5年後の1908年、そういう時代。

当時は空気より思い機械を空中に浮上させることについては懐疑的な考えが一般的であったにも関わらず、ガソリンエンジンや蒸気機関を使って空を飛ぶ研究開発が世界各地で行われていたようである。

ライト兄弟のアプローチは、グライダーで飛行操縦法を確立し、これにエンジンとプロペラで推力を与えればずっと飛び続けることができるはず、というものであったようだ。

ライト兄弟がグライダーの飛行実験で見いだしたのは、機体のローリングを制御することで、今の飛行機がエルロン=補助翼で行っているやつである。

ライト兄弟は柔らかい複葉の主翼をギュッとひねってこの制御を実現した。
飛行機が安定して「飛び続ける」には、このローリング制御が不可欠だった。

ライト兄弟の初飛行については、飛行距離が250mくらいと短かったこともあって、ただの跳躍、ジャンプに過ぎないという中傷もあったようである。

しかし兄弟の「ライトフライヤー号」は、ローリング制御によって原理的にはずっと飛び続ける能力があった。
少なくともライト兄弟は、そういう風に「飛び続ける」ことをイメージして開発していたはずだと思う。

動力飛行の正しい成功イメージは、ジャンプではなく飛び続ける能力を実現すること。
飛び続けるためには機体を思い通りに操る飛行制御が必要であったこと。
そして飛行制御の要点は、ローリング方向の制御。

鳩やカラスには補助翼は付いていない。
鳥の飛翔を観察しているだけではこの発見は出来なかっただろう。
発見のためにはグライダーによる実験で開発者自ら実際に操縦することが必要だった。


ライト兄弟のその後がかなり悲劇的だったのは有名であるが、飛行機のその後の進化は凄まじい。

世界初飛行の約10年後には第一次大戦で大量の軍用機が使用され、さらに40年後の第二次大戦では何百万トンもの爆弾が飛行機から投下された。
今の軍用輸送機は重量60トン超の主力戦車だって空輸出来る。

100年前に人間ひとり乗せてよろよろ飛んでいた時からの技術の進化は凄まじいのである。

だがこの進化もライト兄弟の飛行制御の発見から始まったのであり、その意味でライト兄弟はやはり偉大なのである、と思った。
posted by ヤス at 12:15| 徒然なるままに

2015年12月17日

2016年は転換の年かも

いよいよアメリカで利上げが発表された。
NYダウはこれを好感して値を上げたらしい。
そして現在の東証市場も昨日に引き続き上がっている。

利上げは株安につながる、と単純にいかないのがなんともややこしいところだ。
今の株価は少し前から今回の利上げを織り込んだ価格になっており、利上げ実現によって先行き不透明感が払拭されたことによる株価上昇、という解説がどこかに出ていたけれど、まあそういうことなのかもしれない。

なんだか2016年の世界は、2015年以前とはパラダイムの矢印の向きががらりと変わる予感がする。

ひとつはアメリカの利上げに象徴される経済の方向性。
2016年は世界的に金融緩和策からの転換が始まる年になりそうだ。
ひと月ほど前にノーベル賞経済学者のクルーグマンの「日本への謝罪」というブログ記事が話題になったようで、わたしはもちろんその原文を読んではないのだが、そこに重要な指摘があるらしい。

ひとことで言うと金融政策主導のデフレ脱却策は間違いだった、実需喚起によるインフレ誘導が必要だったと言っている。

クルーグマンは1990年代から日本に大規模な金融緩和を提言しており、今の日銀がその提言にそのまま乗ったのかどうか知らないが、ノーベル賞学者の理論が異次元緩和実施にあたって日銀の精神的支えになっていたことは想像に難くない。

ところがその支えの大学者が、自論の大規模な方針転換を表明した。
日銀は、表向きはどうか分からないが今後は水面下で緩和方針からの転換を模索し始めるのではないか。


経済以外では、アメリカ大統領選挙がある。
今はトランプの放言ばかりが話題になっているが、本命は民主党ヒラリー・クリントンであるようだ。
そしてクリントンの選挙戦略が前回2008年選挙の時と大転換して、黒人・アジア人・ヒスパニックや女性・性的マイノリティーなどの政治経済的弱者に的をしぼった選挙戦を展開して効果を上げているらしい。

ピケティの本が売れたりして格差問題への取り組みの土壌がだんだん整っている。
またオバマの選挙を通じて民主党はネットを使った個人献金集めのノウハウも蓄積している。
企業献金に依存することがなければ、企業利益に相反する政策実現のハードルが下がるだろう。

「ゆたかな中間層の復活」の政治トレンドは票になる可能性が高いという意味で、遠からず日本でもフォロワーが出現する気がする。

企業寄りの立場が明確な自民党一強の現在の政治状況では、対抗勢力がよって立つべきポジションは「中間層」周辺から票と資金を集める仕組みをつくることが必要だと思う。

ということで、2016年は金融緩和からの転換と中間層復権への動きが顕在化する最初の年になりそうだと思っている。
posted by ヤス at 11:34| 徒然なるままに

2015年12月16日

五輪エンブレム公募問題

ケチが付いた2020年東京五輪のエンブレムが公募で決定されようとしている問題。

先頃この公募方式に対してアメリカグラフィックデザイン協会から反対の意思表明があった。
またかねてより国内からも批判の意見が出ていた。

わたしも東京五輪のエンブレムデザインを公募することについては大きな問題があると考える。

すでに公募に対して多くの提案が寄せられている。
いっぱしのプロデザイナーであれば、「当たる」確率が限りなく低い賞金100万円のために自分も応募しようとは思わないだろう。
そうなると集まる提案は素人またはセミプロ・デザイナーの作品が大勢を占めることになる。
そして集まった素人作品を複数者からなる「審査委員会」で選ぶのであろう。

他にも多くの人が批判している通り、このようなやり方は五輪組織委員会がプロのデザイン仕事を全く理解出来ていないことを示していると思う。

組織委員会はエンブレムに対し、ひとますそれっぽいもので批判を受けないデザインが用意出来ればよいのだ、と考えていると思わざるを得ないのだ。

百歩譲ってどこかの私企業が自社のシンボルマークを公募で決めるのは、宣伝目的としてありかもしれない。
公募方式にはそれなりの効用もあるだろう。

だが五輪はサッカーワールドカップと並ぶ世界の超ビッグイベントである。
そのデザイン報酬が100万円というのもあまりに少な過ぎる。
その何倍もの費用がデザイン展開のケーススタディや類似調査などにかかることが想像され、いかにもアンバランスだ。

本来のエンブレムデザインは、やはりしかるべきプロデザイナーにデザインの活用法も含めたシステムとしての提案を求めるべきだった。
その意味では、最初の佐野氏に頼んだプロセスは、あながちまちがいではなかったと思う。


問題の発端は、今回の東京五輪がその目指すべき方向、コンセプトがきわめて曖昧であることだと思う。
そして曖昧であることの原因は、五輪のプロデュースが「なんとか委員会」とかの組織体による合議に委ねられているところにあるのだと想像する。

もし可能なら、才能のある個人を指名して総合プロデューサーに任命し、その個人の情念に基づいて五輪大会をプロデュースすることが、わたしの考える理想像である。

五輪のようなイベントは、最大公約数的な平凡な企画より、クリエイティブでカッコイイものであって欲しい。

それには組織の合議や公募や多数決のような民主的方法はそぐわない。

現実の問題もいろいろあるとは思うけれど。

そんなことを考えた。
posted by ヤス at 10:53| 徒然なるままに

2015年12月15日

プリウスと五輪のデザイン

新しい「新・国立競技場」のプランが2案出てきた。
報道によると今後ウエブサイトを通じて国民や選手の意見を集めて決めるらしい。
前回のザハ案にさんざん文句を付けていたので今回の案に文句は言いづらい。
出てきた2案については、1500億円の予算と納期が決まっている中で日本的建築を構想するとこうなる、という物凄くまとまった案であるように見える。
逆に、見た感じの爆発力はやはりザハ案が抜けている。
ただし爆発のために莫大な予算を要する点で今回のような案が着地点としての現実ラインなのだろう。
出来れば「建設しない」という方向のラディカルさを目指して欲しかった、と個人的に思うところであるが、行政官僚機構の性質上今回の案が最良の着地点なのである、と思うことにする。

それから広く国民の意見を聞く、というのも盲点となりそうな意外な論点を拾い出すために有効と思うが、このような場合の「意見を集める」は「責任を分散する」と同義であることが多いから注意が必要だ。

思うのは、今度の東京五輪にあたって誰か一人総合プロデューサーがいたほうがよい、ということだ。

前回の東京五輪の時は高度成長期で日本中インフラ整備で土煙が上がっているような時代であり、五輪のコンセプトは、ある共有イメージとして知らず知らずのうちに国民の間に存在していたように思う。

ベクトルが定まらない現代においては、明示的なコンセプトを打ち出さないと国民的一体感が出来ないだろう。

そして、広くみんなに刺さるコンセプトは、民主主義的多数決からは生まれない。
それは少し狂っているくらい強烈な、一人の人間の個性から出てくるものであろう。


話は変わるが新型プリウス。
今納車4ヵ月待ちらしいが、あのデザインが巷で議論を呼んでいる。

雑誌で初めて見た時はわたしも何じゃこれ、と思った。

トヨタの自動車開発は主査制になっていて、デザインとかエンジンとか足まわりとか各部門の責任者がおり、全体を統括する主査が最終的にすべての決定権を握っている。

そしてあのデザインも主査が決定を下したもので、その最終決定は役員の合議によるものでもなく、開発メンバーの多数決でもない。
主査個人の判断によって下されているからあんな突飛なものが世に出てくることが出来る。

あのデザインは、デビュー時点のインパクトやモデル末期までのデザイン鮮度の維持なども考慮した上で、「売れる」デザインになっているものと思われる。

仮に他の誰もが反対しても主査一人がこのデザインがベストと言えばそれが通るようになっている。

主査は会社からその眼力を見いだされ、全権を与えられ、失敗すれば責任を負う。
そういう修羅場からプリウスのデザインは出て来たのだ。

新型プリウスはとりあえず売れているようなので、主査の首はまず安泰のようであるが。

少し長くなった。

意思決定方式としての民主主義的多数決は必ずしも最良の結論を出さない。
このことについては他にもいろいろ思うことがあるのでまた次回以降で。
posted by ヤス at 10:29| 徒然なるままに

2015年12月14日

素人経済予測

今朝はことのほか日経平均がよく下がっている。

まあ下がったと言いってもまだ1万8千円台。
去年の12月は1万7千円、もう一年前の2013年は1万6千円台だった。
ちなみにその前の2012年12月は1万4百円くらい。

過去3年くらいを振り返ると現在の株価はもうこれで十分なんじゃないかと思える。

個人的には株は持っていないので株価が上がって儲かるということもないのだけれど、まあ下がるよりは上がったほうがいい。
わたしの周辺には株式投資をやっている人もたくさんいるし、そういう人にとってはどちらかといえば下がるよりは上がった方がいいだろう。

でも2016年はどうも株価にとっては厳しい年になるのではないかと、なんとなく思うのである。
わたしは経済学者でも投資アナリストでもない一般庶民なので何ほどの根拠はないのだけれど。


来年の日本の株価が厳しいことの理由のひとつは、やはりアメリカの利上げである。
チャイナショックで一度はタイミングをくじかれたようであるが、アメリカの金利がもうすぐ上がることはたぶん間違いない。

アメリカの金利が上がると株式市場に流れていた資金が債券市場などに還流してアメリカの株価が下がる。
アメリカの株価が下がると日本の株も下がるのであろう。たぶん。

またアメリカの金利上昇でドル高になり、つまり円が安くなることが予想される。
日本の株式市場にとって円安は通常、株高要因なのでその分株安が緩和されることが想像されるのであるが、専門家の中にはアメリカの金利上昇が円高要因になるという人もいるようで、その辺なんだかよく分からない。


あと、27年度の補正予算が来年4日からの国会に出てくるらしい。
来夏の参院選挙に向けて、一説には衆院とのダブル選情報が流れる中でどの程度の補正予算規模になるのか注目されるところであるが、補正予算の株価への影響はプラスでもマイナスでも限定的であるのだろう。

ということで来年の経済ニュースはおおよそ厳しくなるのではないかと勝手に予想する。

問題は、日経平均とかGDPとかの大きな数字の変動が、地方の一般庶民の生活実感とほぼリンクしていないことであると思う。
関係ないからこそ、のん気に勝手な予想が出来るわけではあるが。
posted by ヤス at 11:34| 徒然なるままに

2015年12月13日

「24」で寝不足

わたしは以前からAmazonのプライム会員であり、したがって最近始まったAmazonの動画配信サービスを利用することが出来る。
そこで半年あまり利用していたHuluを退会しAmazonにスイッチすることにした。
あと、Yahoo!のGyaOも利用可能な状態にあるがこちらの方はほとんど見ない。

動画配信サービスは思い立った時に映画を見ることが出来、飽きたら見るのを中止することが出来るのでたいへん便利と感じる。

難点は新しい映画などの人気コンテンツはたいてい追加料金が必要で、追加料金無しだと視聴可能なコンテンツがかなり限られることだ。

だがこの難点も実際上ほとんど問題にはならない。
ツタヤで棚に並んだDVDの山から選択するのに比べると、かえって時間の節約になる。
この手の動画配信サービスによって、ツタヤで選んでいた時代には見なかったジャンルの映画も見るようになった気がするのである。

で、今までみなかったジャンルのひとつに連続テレビドラマがあった。

そしてこの数日、アメリカの連続ドラマの「24」に若干はまった。
連邦テロ対策ユニットの、ジャック・バウアー主人公のあのテレビドラマ。

シーズン1と2を見た。
ひとつのシーズンが24のエピソードで出来ており、ひとつのエピソードが40数分なのでひとつのシーズンだけで16時間以上ある。

連続ドラマである「24」では、毎話毎話えげつない事件が起きてドンパチと銃の打ち合いがあるのはまあ仕方ない。
この手の連続ドラマは毎週一回の視聴サイクルを念頭に制作されているのであろう。
一週間後に再度視聴者をテレビの前に呼び戻すためには、この程度の過激さは最低限必要ということなのかもしれない。

それとこれは「24」が特にそうなのかもしれないが、政治的メッセージがかなり多量に含まれているのにやや驚いた。
誤った情報に基づいた報復戦争、中東移民排斥、児童虐待、ジャーナリズムに対する情報統制などに関するメッセージが随所に入っていて、それがどちらかというとかなり民主党寄りであるようだ。

テレビというリーチの大きなメディアで政治的メッセージを流すのはかなり影響が大きいと思える。

これは初回放送が2001年11月と、直前に911テロがあったことが深く関係しているのは間違いないだろう。

アメリカという国は、大統領候補のトランプが注目を浴びるためのトリッキーな発言を繰り返したり、ハリウッド方面からきわめて政治的な映画が出て来たり、何かと騒がしいところであると思った。

それにしても、連続ドラマを2、3日で集中して見るのは健康に悪い。

もう連ドラは卒業しよう、と思った。
posted by ヤス at 14:32| 徒然なるままに

2015年12月12日

異常と正常とおじさん

もうすぐクリスマスだというのに、雨が降ったり生ぬるい気温が続いたりしている。
冬がこう暖かいと、やれ異常気象だという話になる。

ここで「異常」について考えてみる。
漢字を見ると「常と異なる」と書いて異常。
だが世の中一般で言われる異常は、困った状態、問題のある状況というようなニュアンスの方が、どちらかといえばメインであるように思われる。

異常気象といえばいつもと違うお天気というよりは、ちょっと困ったお天気、の意味になるのだろう。

異常気象の問題は、大雨による洪水や、干ばつによる農作物の不作、いつもと違う病原菌の増加など、いろいろある。
特に人類の食料生産は、いつも通りのお天気を前提に設計されている。
異常気象が続く一番の問題は食料生産に現れるだろう。

だが一方で宇宙的視点に立つと、地球の表面上で雨が降ろうが嵐が吹き荒れようが、そこに問題になることは存在しない。

温暖化で1億年後に地球の気温が摂氏500度になろうが、それは宇宙における日常の現象に過ぎない。


ところで最近、同性婚など性的少数者の権利確立にまつわる騒動がちらほら起きている。
具体的には、どこかのおじさん議員が同性婚などについて「異常」と言ったりツイートしたりしたらしい。

誤解を恐れずに言えば、わたしにはそれらのおじさんたちの気持ちが分からなくもないのである。

もちろん性的少数者の意思や権利は最大限尊重されるべきである。
また同性愛は野生動物の世界でも一般的現象であるらしい。
昔、サル学に凝っていた時期があって、その時に読んだ本にゴリラのオス同士の交尾に関する記述があったのを憶えている。
そして、ゴリラの社会では同性愛者に対する差別や攻撃などはもちろん無い。

思うに、性的少数者などのマイナーな存在に対する排撃的行動は、人類の社会や文化にその原因があるように思われる。

異常発言を行ったおじさん議員の方々を写真で拝見すると、そのお顔の表情の背後に、おじさんたちの社会的価値観が透けて見える気がしなくもないのである。
これらのおじさんたちの価値観は「正常」な異性婚を前提に確立され、潜在意識まで深く染み込んでいるのであろう。

おじさんたちにとって「異常」を認めることは、己の価値観を破壊されることにつながりかねないのかもしれない。

ところで今まで散々書いてきて、わたしは「おじさん」に対して十把一からげ的な批判をしているなと気がついたが、これは明らかに誤った一般化であると反省しなければなるまい。

おじさんにも面白い人とか融通の効く人とかいろいろなタイプの人がいる。
「異常」発言について言えば、時々ごく特殊な発言をする人が、少数出現するだけのことなのだ。

ただしそれはあくまで少数の人々であって「異常」な人たちではない、と、おじさんのひとりとしては思いたい。
posted by ヤス at 16:22| 徒然なるままに