2015年11月19日

モノの紛失と情報化社会

昨日、ふたつのものを紛失した。

まず820円が入った小銭入れ。
五百円玉1枚と百円玉3枚と10円玉2枚が入った小銭入れ。
過去3〜4時間遡って頭のなかで紛失経路をトレースした。
どうも家の中にありそうな感じがする。

考えてみると、持ち物の中でも財布というのはかなり紛失しやすい物のひとつであろう。
外出時に必ず携帯し、しょっちゅう出し入れする。
また財布はお金が入っているので、その存在をかなり意識して取り扱うものだ。
だからこそ「まさか紛失するはずがない」と思いがちである。

わたしは一向に出て来ない820円に多少の未練を感じつつも、少し不覚であったなとやや反省し、まあそのうち出て来るだろうと探すのを止めた。

その1時間後。
今度は「しゃもじ」が見当たらないのに気が付いた。
炊飯器からご飯をよそう、あの「しゃもじ」である。

しゃもじは、洗った後必ず定位置に収まるように自然と習慣化されている。
あるいは、財布と違って存在感が薄いから無意識的に取り扱う。

だから、ふっと定位置に手を伸ばして「しゃもじ」を「空振り」した時の衝撃と言ったらなかった。
小銭入れ紛失の5倍くらいの衝撃だった。
あり得べからざることが起きた。
これはひょっとして、しゃもじ専門の泥棒が侵入して、そっとしゃもじだけを盗って行ったのだろうか。

少し冷静になって考えてみると、もっともありそうなのはたぶん何かの拍子にしゃもじがゴミ箱の中に落下し、それをそのまま捨ててしまったケース。
しかし真相は分からない。


ところで、現代は「情報化」社会であるという。
この時の「情報化」の意味をあらためて少し噛みしめてみる。
ここで感じるのは、「情報化」というのはいろんな物体が電子データという無形の「情報」にどんどん化けていっていることではないか、という意味。

現金はクレジットカードになり、電子マネーが出てき、本は電子書籍になり、CDはiTunesのダウンロードに取って代わられた。
ここで注目したいのは、「情報化」したモノは、なかなか紛失しないということだ。
所有している現金は、お札や硬貨が情報化して電子化されるとこれはもうほとんど紛失ということはない。
ただしサイバー空間での盗難はあるが。

あるいは紙の本なんていうのは、けっこうかさばるし整理するのが大変だし、要る時に出てこないし、不便が多い。
そういう点では断然電子書籍が有利だ。

重要なのは、電子書籍でも電子マネーでも電子書籍も、スマホやカードなど媒体となるハードウエアを紛失することがあっても、情報空間の中においてその所有権が確実に保持されるということ。
iTunesでも一回ダウンロードした曲は、同一アカウントで後にダウンロードするときは無料になる。
その所有権がハンパないくらい確実に保持されているのだ。

電子化され情報化されてカゲロウのように姿を変えると紛失しなくなり、手で持つとしっかりとした感触が有る「物体」だと紛失リスクに無力なのだ。

以上昨日の紛失事件で思ったことである。
ついでにいうと、小銭入れの電子化は可能だが「しゃもじ」の機能を電子データ化することは、いくら文明が進んでも無理だろうな、とも思った。
そして、そこに人類の苦悩の根本が有るのではないかと思った。
posted by ヤス at 14:16| 徒然なるままに