2015年11月10日

面倒くさい話

面倒くさいの相対論
わざわざ言うまでもないが、わたしは面倒くさがりやだ。

しかしこの現実世界で何かをしようとするときに、うわあ、面倒くさいなあ、といちいち思うのはなぜだろう。


人間は好奇心の動物であると思う。
好奇心ゆえに、未知の生物をつついたり、得体の知れぬ植物を食べてみたり、目の前にそびえる高い山に登り始めたり、いろいろとリスクの伴う行動を思わずやってしまう。

進化の神様はその状況を危惧し、行動の前に一瞬躊躇するようなプログラムを人間に仕込んだのではないか。

好奇心というアクセルを制御するブレーキとしての面倒くさい気持ち。
そういう構図があるのではないか。
そしていつしか面倒くさいの気持ちは、好奇心による行動以外の日常的なところでも機能するようになった。

という理屈は科学的にははなはだ怪しいが、ひとつのたとえ話として納得する分には構うまい。

脳が情報処理をいい加減にしてエネルギーを節約したり、野生動物が飯の時間以外ほとんどだらんと寝て過ごしたりするのを見るにつけ、生き物の基本的性向が「節約」にあるのでは、と思わざるを得ないのである。

で、人類の好奇心について。
人間に限らず、多くの高等哺乳類の子供は好奇心が旺盛である。
犬や猫の子供も、ちっちゃいときはいろんなモノにちょっかいを出し、あるいは匂ってみたり、食べてみたりする。
そして時々そこで痛い目にあって新しい事を学習する。

おそらく好奇心の本質は、学習のための根源というところにあるのだろう。

人類も同様に旺盛な好奇心を持ち合わせており、というか人類の好奇心はしばしば常軌を逸している。

何億キロメートルも離れた火星への有人飛行を計画したり、DNAを操作して人工的な生命を創ったり、この最近は特にそうだ。
人類が最近取り組んでいる壮大なプロジェクトは、おそろしく複雑大量の段取りと実施行為の精密さを要求される、本来ものすごく面倒くさいことであるはずなのに。

また「面倒くさい」は、生物的には危険行動を抑えるブレーキであった、と思ったのに、人類においてはアクセルにもなっている。

より面倒くさくないように、より便利になるように、文明は進化する。


「面倒くさい」は、命を守るための生物機能なのではないか、というのが今日の話の出発点であるが、一方近代社会には面倒くさいが許されないことによる精神疾患とかも蔓延してもいる。

人類はもうちょっと本来の面倒くさいに帰ってもいいんじゃないか。
しかし、人類社会の前に進む力は個人の面倒くさいを完全に凌駕しているようである。

この話に特に結論はない。
これ以上書くのも面倒くさいので、おしまいにする。
posted by ヤス at 11:18| 徒然なるままに