2015年11月10日

面倒くさい話

面倒くさいの相対論
わざわざ言うまでもないが、わたしは面倒くさがりやだ。

しかしこの現実世界で何かをしようとするときに、うわあ、面倒くさいなあ、といちいち思うのはなぜだろう。


人間は好奇心の動物であると思う。
好奇心ゆえに、未知の生物をつついたり、得体の知れぬ植物を食べてみたり、目の前にそびえる高い山に登り始めたり、いろいろとリスクの伴う行動を思わずやってしまう。

進化の神様はその状況を危惧し、行動の前に一瞬躊躇するようなプログラムを人間に仕込んだのではないか。

好奇心というアクセルを制御するブレーキとしての面倒くさい気持ち。
そういう構図があるのではないか。
そしていつしか面倒くさいの気持ちは、好奇心による行動以外の日常的なところでも機能するようになった。

という理屈は科学的にははなはだ怪しいが、ひとつのたとえ話として納得する分には構うまい。

脳が情報処理をいい加減にしてエネルギーを節約したり、野生動物が飯の時間以外ほとんどだらんと寝て過ごしたりするのを見るにつけ、生き物の基本的性向が「節約」にあるのでは、と思わざるを得ないのである。

で、人類の好奇心について。
人間に限らず、多くの高等哺乳類の子供は好奇心が旺盛である。
犬や猫の子供も、ちっちゃいときはいろんなモノにちょっかいを出し、あるいは匂ってみたり、食べてみたりする。
そして時々そこで痛い目にあって新しい事を学習する。

おそらく好奇心の本質は、学習のための根源というところにあるのだろう。

人類も同様に旺盛な好奇心を持ち合わせており、というか人類の好奇心はしばしば常軌を逸している。

何億キロメートルも離れた火星への有人飛行を計画したり、DNAを操作して人工的な生命を創ったり、この最近は特にそうだ。
人類が最近取り組んでいる壮大なプロジェクトは、おそろしく複雑大量の段取りと実施行為の精密さを要求される、本来ものすごく面倒くさいことであるはずなのに。

また「面倒くさい」は、生物的には危険行動を抑えるブレーキであった、と思ったのに、人類においてはアクセルにもなっている。

より面倒くさくないように、より便利になるように、文明は進化する。


「面倒くさい」は、命を守るための生物機能なのではないか、というのが今日の話の出発点であるが、一方近代社会には面倒くさいが許されないことによる精神疾患とかも蔓延してもいる。

人類はもうちょっと本来の面倒くさいに帰ってもいいんじゃないか。
しかし、人類社会の前に進む力は個人の面倒くさいを完全に凌駕しているようである。

この話に特に結論はない。
これ以上書くのも面倒くさいので、おしまいにする。
posted by ヤス at 11:18| 徒然なるままに

2015年11月09日

今度こそMRJ初飛行、無人宅配、自動運転など

移動する人
まさかの延期から10日ほど。
いよいよ、いよいよ今週、国産旅客機MRJが飛ぶ。
すでに地上滑走試験で離陸速度に到達し、瞬間的にではあるが前輪を浮かせたらしい。
今週中に、早ければ2、3日中に飛ぶだろう。
ほんと早く飛んでほしい。

ところで話が少し飛ぶ。
政府は2020年頃を目標にドローンによる無人宅配と、自動運転車両の実用化に向けて法律の整備をやる、規制を緩和するというニュースが流れていた。

どうもこの2つについて、政府は本腰で進めるらしい。
それはそれで素晴らしいことであると思う。

が、この2つを実現するにあたっては、当然ながらいろいろ課題の発生が予想される。


今日本で、宅配の荷物は年間40億個くらい配達されているらしい。
そして業界最大手のクロネコヤマトが年間16億個以上であるそうだ。

この膨大な荷物のうちコンマ数パーセントがドローン化しただけで年間何百万という個数になる。
当然ドローンがらみの事故がいくらかは起きるだろう。
全体の母数が大きければ、確率が小さくても毎日しょっちゅう起きることになる。
最初のうちはそれが報道で大きく取り上げられるかもしれない。

あと、日本の街を覆い尽くしている電信柱と電線がすごく邪魔になりそうだ。
この際、街の美観のためにも電線地中化を進めて欲しいが、地中化工事はかなり金がかかるらしい。


自動運転車両についての課題について。
いちばん本質に関わるのは、完全自動にするか、切り替え式にして手動運転も出来るようにするのかという点。

自動車メーカーの立場からいえば、ファントゥドライブは商品価値の大きな要素なので切り替え式にしたいに違いない。
でも安全確保の観点からは、完全自動がよいような気がする。
グーグルなどは完全自動推しの立場らしい。

法律の整備にあたっては、この辺のコンセプトを明確にしておく必要があるが、これはたいへん難しい問題で、この先ものすごく揉めそうだ。


ところで大型旅客機の業界も、ひょっとして完全自動運転になるのかもしれない。
安全技術の確立にいろいろハードルはありそうだが、自動化出来ると現状ある問題の解決にもつながる。
パイロット不足とか、パイロットの精神疾患に起因する事故とかは無くすことができる。

現時点ですでに無人軍用機が空母に離着艦出来ている。
あながち夢でもあるまい。

そのうちモノレールみたいに乗務員のいない飛行機に乗るのが普通になる日が来るかもしれない。


まあそんなことより、もちろん有人でいいのでMRJには早いとこ初飛行を成功させてほしい、と思う。
posted by ヤス at 15:26| 徒然なるままに

2015年11月08日

見た目の演出

人間にとって、取り分け職業生活において、見た目は大事だ。

ものの本にはよく、人間が外部情報を認識するにあたって視覚情報に依存する割合が8割くらいだとか書いている。

職業生活にとっての見た目の大事さを象徴する事象は、就活における黒や濃紺のリクルートスーツである。
就活学生は否が応でも自分の見た目に敏感になる。
おそらく、転職も含めて就職活動を行っている最中が、彼・彼女の職業人生においてもっとも自分の見た目に注意を払う時期であろう。
リクルートスーツはいかにも没個性に見えるけれど、就活ガイドのサイトをのぞくと、その目的は服装に対するマイナス評価を回避するということらしい。
でも、時々街なかで遭遇するリクルートスーツを「群れ」で見ると、なんだかものすごい違和感を感じたりする。


そんな就活生も、いったん企業に入ってしまえば他にもっと重要な関心事が発生し、見た目に対する意識が薄れていく。
特に男性、特におじさんにおいてその傾向が顕著になる。
一方で女性は男性より自分の見た目に注意を払う。
男性の場合、おじさんになるにしたがって見た目への注意がおろそかになるのに、女性の場合はキャリアを重ねるほど見た目への投資額が増加する傾向があるのではないか。
キャリアウーマンにとって、男性優位の仕事社会でのし上がるには、見た目の印象をコントロールすることも含めてあらゆる要素を総動員しないと戦えない、ということなのだろうか。
(それとも単なる思い込みかもしれない)


ところでわたしはかつて広告業界にいた。
前言と相違するが、広告業界では女性はもちろん男性でも自らの見た目に大きな注意を払っていた。
スーツやネクタイや靴のブランドは言うに及ばず、自家用車に古いワーゲンをチョイスし、あるいは並行輸入で入手した見たことのない東欧製外車を乗り回したり、その努力はしばしば常軌を逸していた。

で、業界の男性に必須の見た目アイテムとして「ヒゲ」があった。
産業別「ヒゲ」比率は、広告業界がダントツで高いと思われる。
これはかつて広島県庁の仕事をしていて、県庁の担当者に指摘で気付いたことである。
たまたま会議で居並んだ時に、県庁の人に「そちらのチームはみんなヒゲなんだねー」と言われた。
(わたしはその時も含めて生まれて以来ヒゲはない)

広告業界人は生来、アピールすることのプロフェッショナルであり、そのためにはいかにもアピールの達人に見えるようにアピールする必要がある。
しかし時として流行りのスーツでビシっと決めて、ヒゲを綺麗に手入れして会議の席に座ってみると、同じようなヒゲ面が3、4人並んでいて見分けがつきにくくなるという怪現象が発生したりする。

職業人において、自らの見た目を演出するのはかなり面倒くさい問題である。
世のおじさんたちが、自分の見た目に無頓着になる気分もなんとなく分かるのだ。
posted by ヤス at 07:40| 徒然なるままに

2015年11月07日

非定常状態の人類について

昔、わけあって水理学というのを勉強していた。
河川や土管などの水路を水がどのように流れるか計算するやつ。

で、その勉強の大事なことはほとんどきれいに忘れたけれど、ひとつだけ頭に残っていることがある。
「定常状態」「非定常状態」ということば。


今、上流に水源のある川があって、上流からはずっと同じ水量の水、たとえば毎秒100リットルが供給されている。
長いことその状態にある川は、どの瞬間も、上流でも下流でも毎秒100リットルの水が流れている。
水は流れているが、ずっと同じ状態で流れているので、流れ全体としてまるで止まっているように見える。
これが定常状態。

これがある瞬間、毎秒200リットルになった場合。
倍になった水の流れが徐々に下流に伝わっていく。
今まで止まっているみたいに同じ状態で流れていた川の「流れの状態」が徐々に変化する。
これが非定常状態。

しかし、ずっと毎秒200リットルが続くと、いつかその流量における定常状態に落ち着く。


今から1万年くらいの人類は、事実上の定常状態だったと言える、気がする。
生物進化的な変化はあったろうけれど、それはおそろしく微妙な変化で百年や二百年では分からない。
その頃の人類は、野生動物の延長線上でつつましくなんとかやっていた。
事実上の定常状態。

それが、農耕が始まり、いろんな道具や機械を作り、科学が進歩し、大きなエネルギー源を手に入れ、などとなって止むことのない人類の非定常状態がいつしか始まった。
それは水源の100リットルが200リットルなっておしまい、の変化ではなく、200の次は800になり、次に2千、その次は1万、みたいに、水源の時間変化もものすごく非線形的。

それでもある時代、ある瞬間は水源変化が一時的に止まって、つかの間の定常状態があったりして一息つくこともあったかもしれない。
でも今の人類は基本的に非定常状態、それも激しく複雑な非定常状態にある。
高度成長期の頃は、ある程度線形的に規則的な非定常状態にあって将来予測もある程度可能だった。

でも今は非線形的で不規則な非定常状態だから一寸先は真っ暗闇。
こういう時代は変わり身の速さこそ生き残りの秘訣になるのだと思う。

そして何より、今の時代は量的にも激しくて質的に複雑な非定常状態にあるのだということを認識しないといけないと思う。

少し気を抜いていると、そういう基本的なことを忘れてしまいがちなのではないか。
などと思った。
posted by ヤス at 11:21| 徒然なるままに

2015年11月06日

写真文化のうつろい

最近のカメラは5年くらい前と比べて、各メーカーのラインナップがだいぶん変わったと感じる。
普及タイプのコンデジから高級タイプにシフトしている。


世の中的にはカメラというのはそうたびたび買うものではない。
4、50年も昔はフィルムカメラは高級品であり、庶民は大枚をはたいて買った1台を何十年も使う、というのがけっこう普通だったのではないかと思う。

しかも今と違ってカメラユーザーは圧倒的におじさんが多かった。
昔、仕事で田舎の町のお祭りとか山開きの時の神楽なんかの記録写真を撮ったことがあるけれど、そういうイベントにはかならず、カメラマニアのおじさんが、高級一眼レフに立派なレンズを付けたのをぶら下げて写真を撮りに来ていた。

かつての日本における写真趣味はその多くをおじさんが担っていた。
そして写真趣味は、写真撮影そのものと同じかそれ以上に「写真機」への愛に偏っていた。
そしておじさんたちの写真機偏愛の少し先には、ライカやツァイス、ハッセルブラッドなどの欧州高級カメラがあった。(今もあるが)


しかし今や、カメラはほぼ家電製品になった。
国内有名ブランドのロゴの付いたカメラが7千円とか8千円とかで売られていたりする。
あるいは現在のスマホに付属しているカメラ機能は、ひと昔前のカメラの性能を凌駕している。

またカメラの一般化に伴い、そのユーザー層もすっかり変化した。
これは想像による推定値であるが、世の中で日々切られているシャッター回数は、大部分は女性によるものに違いない。
それも女子高生とケータイのカメラの組み合わせによるシャッター回数が、おじさんたちの高級カメラによるシャッター回数を圧倒しているに違いないのである。
あくまで想像だけれど、世の中の携帯電話の普及台数やSNSの状況を見る限り、この想像はたぶんそれほど外れてはいまい。


で、日本のおじさんの一人であるわたしは、写真というと、シャッターを切ることより写真機の方にその関心が向かってしまう昔気質の人である。
最近増殖している高級タイプのコンパクトデジカメは、より綺麗な写真を撮りたい女子と、相変わらず写真機偏愛の病を引きずるおじさん達の両方にアピールしていると思われる。

結局のところ、写真っていうのはシャッターを切ることの方が本来の目的で、写真機は手段に過ぎない。
で、最近の「高級感」のあるカメラは、なにげにシャッターを切るだけでびっくりするほど綺麗に撮れる。
写真文化がおじさんのものであった時代は終わったのだなあ、となんとなく思うのである。
posted by ヤス at 07:46| 徒然なるままに

2015年11月05日

自分録音の記憶

大昔、もう40年くらい昔、あるいはもっと前だったかもしれない。
我が家にカセットデッキがあって自分の声を録音してみた、という記憶がある。

たぶんソニーのデッキだったような気がする。
オープンリールの、でっかい輪っかのリールが2つくるくる回って、むき出しの茶色のテープを巻き取っていくやつ。
持ち運び用に大げさな取っ手が付いていて、重量は何キロあったのか知らないがとにかく大きくて重かった。

で、そのカセットデッキに録音した自分の声が、どうも自分の声に聞こえないっていう感じ。
この感じは自分の声の録音を聞いたことのある人なら誰しも経験する。

自分の肉体の外で聞こえる自分の声と、自分自身が直接聞いている自分の声では、音声信号の伝わり方が違うのだろう。
録音して聞く自分の声はいくぶん高い感じのトーンで聞こえるようだ。

実際にiPhoneのボイスメモに数秒の独り言を録音して聞いてみる。

次に同じセリフをしゃべっているのを「自分の内側」から注意深く聞いてみると、自分の声が頭蓋骨とか喉の奥の方で反響しているようで、声の振動がいくらか増幅しているようである。

人によって多少の違いはあるのかもしれないが、上記の実験の結果、自分の声は自分の外側で聞くより、自分の「内側」に居て聞く方がよい声に聞こえる。

この傾向は、歌の場合にさらに極端なものとなる。
自分の歌を録音したのを聞くのはちょっとした拷問になり得る。


自分のしゃべっているのを自分の「内側」で聞いているとよく聞こえる、というのは、声質もそうだがしゃべっている内容についてもその傾向があるような気がする。
話の内容は頭蓋骨に反響して変質するものではないがそういう気がする。
特に話をしていて少し調子づいて、やや得意気になり始めるとかなりやばい。
そういう時は自分の中に住み着いているグレムリンみたいな小人が勝手にしゃべっているような状態、のようである。


考えてみると、録音機器とかビデオ機器とか自分を記録して後で第三者的に鑑賞する装置が一般化したこの数十年はそれ以前の時代に比べると、人類の精神進化の歴史上かなり特異な時代であるように思う。

特に現代のスマホはそのような装置がぎゅっと小さくひとつに凝縮されており、おそろしく気軽にそれらの機能を使用出来る。

自分の歌声を録音して、自分自身を拷問にかけることも気軽に可能だ。

というようなわけで、自分の声や動作を気軽に第三者的に見聞き出来る現代ってかなりすごいなあ、となんとなく思っていたら、冒頭のオープンリールのカセットデッキの記憶が蘇って来たのでした。
おしまい。
posted by ヤス at 14:27| 徒然なるままに

2015年11月04日

日本の経済活性化について

政府100%出資だった日本郵政3社が上場して、よい値段が付いているらしい。

8月に2万円を割って以来、日経平均は上がったり下がったり不安定な動きをしていたが、長期的にはまだ上昇トレンドにあるということなのだろうか。
とりあえず日本郵政の上場のタイミングはかなり適切であったようだ。
同社の上場はこの1ヶ月ほどは上昇傾向に戻っていた日経平均にさらにプラスの影響を与えるであろうし、同社株価にとっても市場の上昇トレンドの追い風が働いているようで、相互によい効果が働いていると見える。

ところで、その他の新規上場企業数は最近どうなっているのだろうと少し気になって調べてみた。
この数年間のIPOは、2006年がひとつのピークでマザーズ、ジャスダック、ヘラクレス、東証1・2部、その他の市場合わせて188社が上場している。
それがリーマン・ショックの影響だろうか、2009年に19社と3年間で10分の1に激減している。
(データ元によってその数が微妙に違い、違いの根拠がよく分からないがかまわず話を進める)

2010年以降はそこからだんだん回復して、東証のサイトを見ると2015年は12月までに88社が上場する予定のようであり、他市場も合わせると100社程度になるのかもしれない。

いずれにせよ新規上場が増えることは、日本経済の活性化の観点からも非常によいことであるのは間違いない。


一方で中小零細事業所の新規開業はどうなっているのか。
少しネットを繰ってみたがこの2〜3年の状況がすぐに出てこない。
以前にも書いたが最近は地元の金融機関も創業融資に積極的であるようだ。
少なくともこの1〜2年は中小企業の開業はそこそこ活況かもしれない。

今日本では企業数が減少傾向であり、開業率アップが大きな宿題になっている。
日本の経済活性化のためには実際の開業率の数字を上げることも大切かもしれないが、産業の新陳代謝という意味では既存企業の新規事業も同様に大切だ。
政府も新規創業補助金には予算を注ぎ込んでいたが、既存企業の新規事業は大した施策が無かったように思う。
だからといって既存企業にただ新規事業促進の補助金を出せばいいということではない。

中小の既存企業が新しいことを始める時は、資金面と人材面で綱渡り状態に陥ることが多いのではないかと思う。
そこのところ、リスクのある新規事業に対して資金と人材を融通するようなサービスを提供する社会インフラ、そんなものをもっと整備しないといけない。
そういうインフラ整備に対してなら政府は何か施策が打てるのかもしれないし、何もしない方がいいのかもしれない。

日本市場はいろんな意味で煮詰まっていて、個人創業でラーメン屋ひとつ成功させるのもけっこう難しい。
それよりはある程度足腰のしっかりした既存企業が新しいことをやった方が、効率がいいのではないか。
と、ふと思ったのである。
のだけれど、はたしてどうなのだろう。
引き続き考えてみる。
posted by ヤス at 16:02| 徒然なるままに

2015年11月03日

パソコン導入黎明期の思い出より

昔の職場で、とあるリゾート事業の損益計画を作っていた時期がある。
1990年を少し過ぎた頃だ。
バブル崩壊の後だったが、その当時の地方都市はまだ本格的な不景気に突入しておらず、先行きに多少の不安を抱きながらもまだのんびりと仕事ができた。
リゾート計画なんていうバブリーな仕事が、まだまだ生き残っていたっていうのも懐かしい。

その事業計画の作成にパソコンの表計算ソフトを使っていた。
というか、途中までは電卓で計算してキャノンのワープロで表にしていた作業が、ある日マッキントッシュUCiが我が社にやってきて、マイクロソフトExcelでやるようになったのである。

初めてマックを使った話については以前にも書いた。
また同じようなことを書く恐れがある気がするが、かまわず続ける。

それまで電卓で行っていた作業を表計算ソフトに移行したので、当然スピードがアップしイージーな間違いも減った。
何より初期条件を変えて計算をやり直す、という時に表計算は威力を発揮する。
そういうのは現代ではあまりにも当たり前で感動もないけれど、電卓から表計算への移行が行われていたその当時には間違いなく技術進歩への大きな感動があった。

しかし当時のわたしの立場は作業補助的なもので、先輩社員がマックをカチャカチャいじっているのを横目で見る、ということが多かった。
だからしばらくの間、社内における表計算リテラシーはかなりの下位に甘んじていた。

で、時おり社長あたりから表計算の仕事を頼まれたりすると、慣熟不十分のわたしの表計算作業はたびたび中断し、結局電卓を取り出して計算結果を直接入力するハメに陥ることもしばしばであったのである。


今の時代でも、営業一筋、とか料理の世界一筋とかでパソコンに1秒も触ったことがない、という人はたまにいる。
最近はパソコンも安くなり、普及が行き渡って猫も杓子も使うようになった。
だから今まで生きてきてパソコンを触ったことのないおじさんでも、ある日からパソコンを使いはじめたりする。

一昔前に、パソコンの導入はかえってオフィスの生産性を阻害する、という警告本がたくさん出版されていた時代があった。
だが今ではそれらの警告本が間違いであったことは明白である。
どちらかと言うとパソコンで生産性が上がったというより、パソコン以前の時代、パソコンが有れば10分で出来る仕事を2日も3日もかけてせっせとやっていたに過ぎなかった、というだけの話だと思うが。

それで、今になってパソコンの操作に苦戦しているおじさんを見ると、マックを初めて触った当時のことを思い出したりする。



ちなみに、わたしが表計算ソフトをなんとか使えるようになったなあ、と思ったのは次の職場に移ってからだ。
その職場にはパソコンがあって古いロータス123が入っていたが、他の人は誰も見向きもせず放置されていた。
そこでいちおう表計算経験者のわたしがパソコンのお守り係に任命され、マニュアルを見ながらぼちぼち操作を憶えたのである。

鶏口となるも牛後となるなかれ。
その社内におけるパソコンリテラシー最上位に君臨したわたしは、以降パソコンや表計算に対する苦手の意識も無くなったような気がする。

そんなこんなで組織において比較優位の一芸に秀でることは、それなりに有意義なのではないか、などと思う今日この頃なのであった。
posted by ヤス at 14:17| 徒然なるままに

2015年11月02日

常識を破るのは簡単ではない

新しいことを考える時なんかに常識を疑え、みたいなことをよく言う。

わざわざ「疑え」と言わないといけないのは、意識していないと疑うことができないほど常識が人々に身に付いてしまっているからだろう。
また世の中を大きく変えてしまうほどの新発見や新事業を行うような人は、常識のネジが2〜3本外れているような、ある種の狂気が必要なのではないかと思う。

ところでこの常識っていうのは、一体何なのだろうか。
あらためて考えてみるといろんな論点があるように思われる。
まず、常識というのは人間の社会生活とセットで存在するものである。
社会が変わると常識も変わる。
日本には日本の常識が、アメリカにはアメリカの常識がある。
同じく、アラビア半島にもシベリアにも、エスキモーにもマサイ族にもそれぞれの社会ごとに常識はあるだろう。
たぶん気候風土や宗教・風俗などを基に、ある生活様式や思考様式が歴史的過程を経て最もしっくりくる「常識」として定着した、みたいな話だと思う。

常識に理由は要らない。
常識だからそうなっているのだ、という事でたいていまかり通るのが常識であろう。
これを脳機能的に前向きに捉えるなら、社会生活の多くの要素を常識として判断することにより、思考をもっと別の創造的仕事に振り向けることができる、と言うこともできるかもしれない。
とりあえず常識として決まっていることについては、考えることが要らないから楽ちんなのである。


しかし異文化の接触が、ときに常識に疑問の余地を生み出すことがある。
紀元前3世紀頃の古代中国の戦国時代、当時の中華世界では馬に直接騎乗するのは野蛮人の所業というのが常識だった。
当時の中華諸国は馬に曳かせた戦車に乗って戦っていた。
それを趙の武霊王が北方遊牧民に倣って騎乗に適したズボンを穿き、馬にまたがって戦う「胡服騎射」を取り入れた。
胡服騎射はほどなく中華世界に浸透したようであるが、それはその方が戦力的に有利だったからだろう。

戦争に有利という厳しい合理性の前には常識も無力になる。
たぶん馬に触れることの少なかった農耕民族にとって馬に直接またがることはなかなか勇気の要ることだったのだろう。
今までは、直接騎乗は野蛮人の所業という常識を盾にしていたけれど、戦争に負けて命をとられれば元も子もない。

胡服騎射導入にあたって趙の国では、重臣たちを中心に大きな反対論が起き、ひとしきり混乱したらしい。
常識が打ち破られる瞬間は、人々の間に常識に盲従する心理が大きな抵抗力となって働くのだろう。

こういう場合、その瞬間に常識を破る側に居るのは勇気がいる。
まったく簡単なことではない。
こういうことを書いている自分であっても、おそらくその時には抵抗力の側にいるだろう。
せめてそれくらいのことは自覚しておかないといけない、と思った。
posted by ヤス at 06:55| 徒然なるままに

2015年11月01日

ハロウィンについて

昨日はハロウィンだった。
都会では仮装した人々が繁華街に繰り出して賑やかだったらしい。

さらには、若干のトラブルがあったり、大の大人が仮想して騒ぐなよ、みたいな批判の声がSNSを飛び交ったりもしたようだ。

わたしとしては近年のハロウィンにおける日本国内の盛り上がりについて、楽しそうでよいと思いこそすれ、批判しようという気はゆめゆめない。
だがひとつ不思議なこととして、なぜ日本でハロウィンがこれほど盛り上がるのかということがある。

ハロウィンはもともと古代ケルトの風習がイギリスに引き継がれ、その後英語圏諸国に広まったものであるらしい。
そしてカトリックの国ではほとんど行われていないらしい。
さらに近年では、英語圏の国でもアメリカでもっとも盛り上がっていたらしい。

しかし、この数年はどうも世界で日本がいちばん盛り上がっているのではないか。
アメリカのハロウィンを見たことがないのでほんとうのことは知らないが。
というか、実は日本のハロウィンの盛り上がりすら見たことがないのだが。

それはともかく、英語圏でもなくキリスト教の国というわけでもなく、ましてやケルト民族とは縁もゆかりもないはずの日本でなぜにハロウィンが盛り上がるのか。

日本でハロウィンが定着したことの直接的な原因は、東京ディズニーランドであるらしい。
今から15年くらい前、2000年前後に大々的に行ったハロウィンの仮想イベントが徐々に「園外」に拡散し、日本国中のディズニー大好き系の人々によって各地で盛り上がるようになったようだ。
さらに、日頃から鵜の目鷹の目で販促イベントのネタを探しているお菓子屋さんや小売流通系の企業の皆さんがこれらの動向を察知して、各種のキャンペーンを張るようになったものと想像される。

かくしてディズニーランドが最初に火を付け、夢の国を愛してやまない人々を中心にあらたな祭りが発生し、そこに国内の企業群が油を注いでいよいよ盛んに燃えるようになったのである。
(と想像される)

基本的に日本人は祭りが好きなのだろう。
「ハレとケ」という時の「ハレ」の感じ。
少し自制のネジをゆるめて馬鹿騒ぎ出来る「ハレ」の時間の、ちょっとテンションが上がる感じの気持ちよさはわたしにも分かる。

日本の場合宗教的なしばりもゆるいから、クリスマスにバレンタインにハロウィンと舶来のイベントでも抵抗なく消化できるのだろう。
そのうちスペインのトマトを投げ合うあのお祭りも上陸するんじゃないか。
(もっとも、そのためには無駄になる大量のトマトが必要だけれど)

子供の祭りに大人が馬鹿騒ぎしてるんじゃない、みたいな批判についても、それはそれでもっともであるが、一度味わった祭りの楽しさを人々は手放すまい。
だからハロウィンは、来年以降も普通に続くだろう。
そしていつの間にか定着してクリスマスみたいにごく普通の年中行事になっていることだろう。
そしてその頃には、さらに別の舶来のお祭りがニュースになっているだろう。
と思った。
posted by ヤス at 08:12| 徒然なるままに