2015年10月31日

失敗を繰り返す

歳をとると、いろいろな失敗を経験する。

生きていくうえで失敗は避けられない。
失敗から学び、同じ失敗を繰り返さないように注意すればよいのだろうが、凡人にとってそれはかなりむずかしい。

経験を重ねると、だんだん失敗に対する免疫が出来てくるのかもしれない。
仕事上のクレームで、菓子折り持参で謝りにいく場合でも、若い時分と現在では心の余裕に随分差があるように感じる。
何度も謝罪の場数を踏むと、相手の反応とか交渉の着地点がなんとなく見通せるようになる。
人付き合いを重ねてかつてより人馴れしている、ということもある。
その分心理的負担が軽くなっている。
ただ、それが良いことなのかどうか。

謝罪される相手からすれば、鼻歌まじりで謝りに来たような人間なら赦す気分になるまい。
顔面蒼白で、シドロモドロでも謹直に謝る人間の方を信用するにちがいない。


よく、たくさん挑戦すると失敗もまた多くなる、などという。
しかし凡人の人生においては、そのような前向きな失敗よりも、単なるボーンヘッドや怠慢に起因するくだらない失敗の方がはるかに多いのである。
くだらない失敗が多いと、その手の事件発生に慣れていちいちくよくよしなくなる。
そしてまたくだらない失敗を繰り返す。
そのようなサイクルがいつの間にか出来上がっているとすれば人生の一大事である。

何か失敗をした時に、この失敗はきっと新しいことへの挑戦の代償としての前向きな失敗なのであろう、と自分を納得させてはいけないのである。


しかし、脱臼癖とかとかと同じように、ある種の失敗がすっかり身に付いてたびたび発生する場合なんかがあって、例えば遅刻癖なんかがそうだと思うが、こういうのは防ぎ難いことが多いようである。
元ヤンキースの松井秀喜の遅刻癖も有名だった。

わたしの場合も、仕事の現場に2つ以上のモノを持参すべき時、2つのうちのどちらか片方を忘れる、という癖に悩まされている。
これが4つとか5つとかある場合はかえって忘れない。
2つとか3つとか種類が少ない時が危ないのだ。

持参するものが2つとか少ない時は、「忘れるのではないか」という不安の気持ちが少なく、4つ以上の時は不安が多量にあるのでいちいち念入りにチェックするようになる。
そういう失敗発生の枠組みはおおよそ把握できているのだが、それでもなお失敗は繰り返される。

それどころか、仕事の現場に持参すべきものを忘れる経験を重ねてくると、それに対処する術が身に付いて、だんだん失敗に対する負の感情が減じてくる。

あの松井秀喜も、遅刻癖がありながらあれほどの偉大な選手になったのだ。
忘れ物癖のひとつやふたつどうということはない。
いや、ひょっとするとこういう単純ミスを繰り返すのは、オレがある種の天才であることの証なのではあるまいか。

ふと我に返った時に、そのような世迷い事を考えている自分に気が付いたりする。
いやまったく、ヘタに長く生き延びていると、ろくなことはないのである。
posted by ヤス at 09:41| 徒然なるままに

2015年10月30日

コネクティング・ザ・ドット

アップル創立者のスティーブ・ジョブズがまだ元気だった頃、2005年のことらしいが、スタンフォード大学の卒業式祝辞のスピーチは、わりかし有名である。

スピーチで語った3つの話の最初が、「コネクティング・ザ・ドット」だ。
点と点がつながった、という話。

ジョブズが18歳くらいのとき、せっかく入学したリード大学の退学を決意して、それでもせっかくだから面白そうな授業だけ受けておこう、と思って受けたのがカリグラフィーの講義。

カリグラフィーは手書き文字を美しく見せるための西洋式書道だと思うが、この授業を受けたことで、後に開発する世界初のパソコン、マッキントッシュのタイポグラフィが美しくなったんだという。

ジョブズが言うには、授業を受けている時には将来のパソコン開発なぞ微塵も考えていない。
カリグラフィーの受講は、その時が実際に来て、パソコン開発に役立ったことで初めてその意味が分かる。
点と点がつながって初めて、過去の点が「点」だったことが分かるということだろう。

考えてみるとこういう点と点がつながる現象は、かなり普遍的というか日常的なことである。
私達が日々体験する出来事は、将来に発生するトピックの意外な伏線になっていることは、枚挙にいとまがない。
過去の体験から構成される「点」集合が、複雑に組み合わさって現在の出来事の土台となっているのだから、点と点の「コネクティング」はこの瞬間も次の瞬間も切れ目なく生起していると考えることが出来る。


また、コネクティングということで言えば、我々の脳内において神経細胞が日々新しい接続をすることによって、学習や各種の情動反応が起きていることを思い出さねばなるまい。

人生における「コネクティング・ザ・ドット」は、脳内現象の相似形現象であるようにも思われる。

ところでジョブズの言うところの話では、コネクティングは将来に「偶然」発生するものである、だから現在向き合っている「点」にさしたる意味を見いだせなくてもそれなりに大事にしないといけない、ということだろうか。

しかし人類の努力は、偶然の「コネクティング・ザ・ドット」をできるだけ計画的で必然のものとする方向に向けられ、ある程度の成果を生み出している、ということも出来るのではないかと思った。

人類は未来のある目標にギュッとターゲットを絞り込み、そこへ向けて「点」をひとつひとつ「意図的」に積み上げる試みをこれまで数多く行ってきたように見える。
そのような計画性によって、気まぐれな偶然性が荒れ狂う自然環境に、なんとか平穏無事な生存空間を確保しようとする努力こそが、人類進化の基本構造なのではないか、という気がする。


しかし自然は偉大であり、人類は宇宙に比べれば微小な存在である。
だから結局のところ、現在向き合っているこの「点」は、人類の叡智をもってしても将来他のどの「点」とコネクティングするのかは分からないのだと思う。

だからやっぱりどの「点」もなかなかおろそかには出来ないはずなのである。
そう考えると、人生なかななかだいへんだなあ、と思うのである。
posted by ヤス at 15:32| 徒然なるままに

2015年10月29日

ソニーについて心配してみる

ソニーと東芝
粉飾会計問題もあって東芝の撮像素子部門のソニーへの売却が決まった。
世界における撮像素子の需要は、スマホやタブレットの市場拡大に引っ張られて急拡大しているらしい。
ソニーはこの分野でシェア40%の首位を独走している。

つい最近まで、業績報告で下方修正を繰り返すソニーに対し世間の風当たりが強かったのが、シャープの経営危機と続く東芝の粉飾発覚で批判の矛先がそっちに集中するようになった。

批判の矢面から一時的に外れただけでなく、実際のところ最近のソニーは直近決算も営業黒字化の上方修正、テレビ部門も黒字化とよいニュースが続いている。

果たしてソニーはこのままの調子でかつての輝きを取り戻すのか。

実を言うとわたしは密かにソニーを応援する隠れソニーファンである。
別に隠れなくてもよさそうなものだが、近年のソニーの惨状は、おおっぴらに応援することをためらわせるほどのひどさであったと言わざるを得ない。

しかし、そろそろ大丈夫なんじゃないか。

特に、件の撮像素子である。
世界首位でかつ市場が急拡大中。
おそらくもう少しすれば自動運転車や自律行動ロボットなどへの搭載でさらに拡大が期待される。

また、撮像素子を使った製品分野であるデジタルカメラにおける最近のソニー製品のキレキレぶりにも注目したい。
旧コニカミノルタのカメラ部門を買収したときはかなり心配したが、今のところ大型センサーを使ったラインナップを充実させて独自の地位を築きつつあるように見える。

また、東芝の前に粉飾で揺れたオリンパスと提携して始めた医療分野のイメージング機器も堅調であるらしい。


しかし、だ、
やっぱり素直に安心出来ない。

今のソニー社長はいい人そうだが、日本語のスピーチにもカタカナが多くて、あくまで主観ではあるがなんだか薄い感じがする。

懸案のスマホ事業も瑞兆が見えてない感じ。


隠れソニーファンとしてソニーとは一体何であるのかを考えてみたが、かつてソニーはいろんなものを小型化していた。
そもそもソニーはいろんな製品をギュッと小さくする会社なのではないか、ということ。

ウォークマンが素晴らしかったのは、カセットテープに限りなく近い大きさにメカを凝縮したことだったのではないか。

カメラも、最近は凝縮感のある製品が出ている。
好調の秘訣はその辺ではないのか。

スマホも、最近は大画面化で大きく重くなっている。
圧倒的に薄く軽いスマホを作るのが同事業の打開につながるのではないか。

などと勝手に思っている。

しかしオリンパスや東芝の失敗を見ていると、たとえ巨額の赤字になろうとも、腹を決めて真実の情報を開示し続ける、これがいちばん肝心なのかもしれない、と思った。
posted by ヤス at 11:46| 徒然なるままに

2015年10月28日

ましゃロスに学ぶ

数週間前、芸能界は結婚ブームで、特にファンでもないのにましゃロスに陥る女性が多発したらしい。
この「なんとかロス」というのは、かなり奇っ怪な現象である。

「なんとかロス」は最近たびたび生じており、昨年は「タモロス」、その前は「あまロス」などがあった。

「笑っていいとも」の番組打ち切りは、その直接的原因の大きなものに視聴率の低下があったはずだ。
かつては20%超の驚異的視聴率を上げていたのが、終盤はライバルが増えて5〜6%程度に低迷したそうだ。
5〜6%といえば人数でいうと600万人とかのけっこうなボリュームになるが、それでも足りなかったらしい。
視聴率は低迷したけれど30年以上続いたこともあり、わたしも含めて同番組を一度でも見たことのある日本人は多数にのぼると思われる。
一度でも見たことのある人は数千万人か、ひょっとして1億人近くにのぼるのかもしれない。

いずれにしても、同番組の終了による「タモロス」の発生は他のなんとかロスに比べても、かなり大規模なものであった。

「笑っていいとも」や朝ドラの終了による「ロス感」の発生は、長期にわたって定式化されていた生活習慣が強制終了されるということにより発生していると考えられる。

しかし冒頭の「ましゃロス」はどうなのだろう。
一部報道やいくつかのバラエティ番組からの情報を総合すると、福山雅治の結婚によって本来的に福山ファンではなかった多くの女性たちの心情にさえも、「ロス感」が生じたらしい。

まだファンなら分からないでもない。
しかし日頃はファンでもなかった女性たちまでもロス感を感じるのはなんだろう。
さらには、男性ファンの間にもましゃロスは発生しているらしい。

もうあの、下品な下ネタを躊躇なく口にするイケメンで歌の上手い優男、という稀有なキャラは帰ってこないのだ。

前述のとおり、このロス感というのは、今まで当然の前提となっていた生活習慣や周辺環境がある日とつぜん強制終了を余儀なくされることによって生じるように思われる。
これは、周辺環境に過剰適応していた「自己」が突然の環境変化に適応できなくなる、という意味で自我のコントロールに関する問題であろう。

しかしこのようなロス感を生じさせる芸能人なり、テレビ業界なりの威力はまだまだ大きいのだと感じる。
そしておそらく、時間の経過とともに番組が終了したり、タレントなら結婚したり引退したりして、そのたびに大なり小なりのロス感を世間に生じさせるがこの業界の日常業務なのであろう。
それどころかテレビ業界以外でも、成熟社会における消費というものには同種の「ロス感」が必然なのではないか、とさえ思われる。

「タモロス」や「ましゃロス」の発生と社会への影響のようすは、今日の消費社会で企業人はどのような商品、サービスを提供すべきかについて、重大な示唆を与えているのである、と思うのであった。
posted by ヤス at 08:46| 徒然なるままに

2015年10月27日

文明的であること

ギリシャ神話では、プロメテウスという神さまが人間に火の使用をもたらし、結果人間たちは文明を発達させたことになっている。
火を使うことでいろいろ便利になった一方、鉄製の武器をつくって戦争をしたり、さまざまなわざわいももたらされたことになっている。

この神話のディテールはよく知らないが、人間の存在についていろいろな暗喩を含んでいる。
ギリシャ神話では神さまは自分に似せて人間を創ったことになっているらしく、その時点で他の生き物たちと違う存在なのだが、さらに火の使用によって技術的なジャンプアップをすることになり、これによって決定的に他の生き物と違う世界に行ったのだと思う。

野生の動物は火を怖がるという。
それがどこまでほんとうかは知らない。
野生動物が本能的に火を怖がるのだとしたら、人間だけが火を便利な道具として使いこなし高度な文明を発達させたわけで、火の使用は、人間が本能の束縛から自由になったことを象徴しているように思える。

しかし一方で人間は、本能の束縛らか完全に開放されたわけではない。
根強く残る本能の働きは、時に食欲とかの見えやすいかたちで、また別の時には潜在意識下で本人に無自覚なまましっかり仕事をする。

人間はかなりの程度論理的に考えて将来を計画できるようにはなったけれど、肝心な部分ではまだ本能の尻に敷かれている。

このように考えると文明の進む方向というのは、人間が本能の縛りから徐々に開放されることを目指して進んできたのではないか。
その結果まず火を使い、道具を作り、また空を飛んだり宇宙に行ったり、論理的な意思決定をするための仕組みとして各種の社会組織を構成したりしてきたのだと思う。


そんなことを考えたのは、最近の難民問題がきっかけである。
ドイツなどのヨーロッパ諸国は、一国あたり数万から数十万人単位での難民受け入れを表明し、アメリカも10万人規模で受け容れるらしい。
ひるがえって日本はほとんど今のところゼロ回答である。
そもそも地理的なこともあって他国と同列に論じことはできないのかもしれない。

しかし過去からの日本の難民拒絶の傾向は、かなり本能的な恐怖という動機に基づいた行動であるように感じる。
一方で欧米諸国は感情論をかなりの程度乗り越えて論理的な意思決定をしているのではないか。
この問題は、文明的であろうとするのか、それとも本能に従順であろうとするのかの、文明論的な選択の問題であるように思う。
posted by ヤス at 11:47| 徒然なるままに

2015年10月26日

百聞は一見に如かずは十分でない

百聞は一見に如かずという。

これに該当する英語のことわざは「seeing is believing」だそうだ。

この場合の「believing」は「信じる」という意味であると同時に、「確かなこと」というようなニュアンスが含まれているのかもしれない。

「百聞は一見に如かず」の出典は2千年前の中国古典で、将軍が遠隔地で起きた異民族の反乱に対し、都にいてあれこれ考えるより現地に馬を飛ばして実際に見て考えた方が早い、と言ったとかいう話が元であるようだ。

出典の話はまあよい。

「一見」が「百聞」より手っ取り早いのは真理であろう。
しかし注意が必要なのは、「一見」することは必要条件であるが十分条件ではない、ということだ。

現場の事実を見るのは必要だけれど、その事実の解釈が間違っていたら十分ではない。
たとえば振り込め詐欺などはこのあたりの理屈を上手に利用する。
詐欺師の手口は、被害者にある事実を提示したり体験させたりして詐欺行為の土台にする。
被害者が見た事実がほんとのことであれ嘘であれ、被害者的には実際に体験することでまぎれもないひとつの事実がそこに出来上がる。
まさに「seeing is believing」な感じになる。

問題は、実際に見た事実や体験したことをどのように受け止めるかであろう。
今見ていることは、見方が間違っていて真実とは異なって見てしまっているかもしれない。
あるいは、ちゃんと真実をとらえていても、そこから先の解釈を間違えて変な方向に向かってしまうかもしれない。

「百聞」は「一見」に及ばないのはまったくの真理だろうが、「一見」によってことが完結するわけではない。
大事なのはその次のステップだろう。



東芝の粉飾問題とか、中国がGDP成長率を操作しているとかいう疑惑が問題になっている。
企業決算とか経済統計とかの数字は、ある意味ひとつの事実であるが、その解釈がものすごくむずかしい類の事実である。
「我が社は売上が伸びている」というよりも「対前年で7%売上が拡大している」と言う方が、説得力がある。


しかしそもそも企業決算や経済統計は、現場の事実を数量化・抽象化したものであって、「一見」の事実ではなくて「百聞」の領域に属する情報なのだろう。

そんなことで、現場の事実をちゃんと見て適切に判断するというのは、なかなかむずかしいなと思う今日この頃でした。
posted by ヤス at 14:29| 徒然なるままに

2015年10月25日

メタ認知は辛い

自覚について
スポーツの記録は、時代とともに伸び続けている。
例えば水泳競技の100m自由形では、100年前はたぶん1分を少し切るくらいだったと思うが、今では50秒を切って40秒台半ばに差し掛かろうとしている。
伸び率およそ2割くらい。
この間人間の体格が2割増しになった訳ではない。
技術、体力含めて総合的に進化したのである。

ここで大きな役割を果たしたツールとして、ビデオ動画があったことは間違いない。

水泳はもちろん陸上競技でも、野球やゴルフでも、自分のプレイ中の映像を第三者的に見ることが出来るのは、かなり大きい。

わたしが高校生の時分、今から20年くらい前には、ソニーのハンディカムとかの機器類がまあまあ一般化していて、わたしが所属していた高校の水泳部でもたまに練習を撮っていた。

自分の泳いでいる姿を見るのは、それほど楽しいことではない。
他の人もたいてい同様に言う。

これはおそらく、自分で勝手に思い描いている映像と実際のビデオ映像がかなり違っていて、そのギャップの違和感が心理的不快になっているものと思われる。

しかし、何はともあれ自分の泳ぎを客観的に見ることが出来るのは、フォームの改善にはとても役に立つ。

ここで目標とするフォームを正しく設定でき、そこへ向けて自分の身体を正確に動作させることが出来れば、修正能力が高い、ってことになるのだろう。


この原理はもちろんスポーツ以外の場面でも有効で、心理学でいうところのメタ認知がそれにあたるだろう。

ここで思うことは、メタ認知にはほぼ漏れなく違和感や不快感や微妙なストレスが伴うことだ。

暴飲暴食の後体重計に乗るとき、あるいは自分の仕事ぶりに対して極めて客観的な評価が耳に入ったりしたとき、そういう時のそんなに激痛ではないのだけれど、じんわり真綿で首を絞められるような微妙なストレス。
あれは実に嫌なものだ。

その手のストレスに耐性が出来れば、わたしもいつかひとかどの人物になれるのではないか。と思ったりする。

と思うのだが、歳をとってもそのあたりの強さはなかなか身に付かない。

昔あるところで広報関係の仕事をしていて、バイトの若い女の子に人前でスピーチをしてもらう、みたいなことがあった。
わたしはその世話係をしていて、例によって女の子のスピーチ練習をビデオに撮って自分で見てもらって修正する、というのをやっていた。
女の子にはそれがひどくつらかったらしく、途中でもう嫌だ、ってなった。

今正直に白状すると、自分で自分を客観視するのはつらいけれど、一方で人がつらがっているのを見るのは、正直悪魔的な喜びがあったものである。

そんなことを思い出していると、あるいは、ドMの自分をもう一人の自分がドSとしていじめる、そんな風に自身を完璧に客体化することが出来れば、わたしも少しは人間的進歩を遂げられるかもしれない、などとと思った。
posted by ヤス at 13:10| 徒然なるままに

2015年10月24日

オコエ瑠偉に期待する

今年もプロ野球のドラフト会議があった。

わたしはそれほど野球に詳しくない。
おそらくその知識水準は世間の多くのおじさんたちの平均レベルより下かもしれない。
その証拠に今年の各球団の1位指名選手を眺めてみたら、知っている選手がオコエ瑠偉くらいしかいない。
あと、中日が指名した小笠原っていうのは、名前はかろうじて聞いたことがあるが顔や投球時の映像が記憶に残っていない。

そんなことはともかく、楽天が1位指名したオコエ瑠偉は気になる選手である。
彼がプレーする動画を見た感じでも、その躍動感やスピード感が素晴らしい。
インタビューに対する受け答えもしっかりしていて雰囲気も明るく、スター性を感じる。
ナジエリア人との混血という人種的出自はいろいろとややこしい問題も引き起こすのかもしれないが、彼の場合はその部分もプラス要素に持っていける、そんなパワーがあるように感じる。

ところで今年もいくつかの球団で監督が交代した。
いろいろとゴタゴタがあった楽天の梨田監督はともかくとして、阪神・金本、巨人・高橋由伸がなかなかのニュースであったことは言うまでもないが、DeNAのラミレスには少々驚いた。
ラミレスが監督をやるというのは、どうにもしっくりこない。
あくまでも野球素人の視点であるが、どうもDeNA球団は、中畑監督といい今回のラミレスといい、監督に対して手腕よりキャラの濃さを優先しているように見える。

まあ、それが一概にまったくの間違いであると断定することも出来ないわけだが。
プロ野球の球団経営は会社経営のメカニズムに組み込まれた存在であり、親会社の広告戦略の大きな要素である。
経営的な視点から見ると、人気が出て多くのファンを獲得して宣伝になることが大目標になる。
だからチームが勝つことは、人気が出るための一手段という位置づけにならざるを得ない。
それどころか、強くて人気の無いチームより、弱くても人気があるチームの方が選手年俸も抑えられて経営的に都合がよろしい。

ということは日本プロ野球の問題点として、常に指摘される部分である。

でも野球は勝ち負けを競うスポーツなので現場は当然勝利を追求する。
でも経営側は、少なくとも幾つかの球団においては必ずしも勝利にこだわっていないように見える。

そのような、経営と現場で目指すベクトルがねじれたややこしい世界に、あのオコエ瑠偉も進もうとしている。
そのあたり、ちょっと心配になるのである。
いろいろ考えると、オコエは日本の野球はそこそこにして早いとこメジャーに行った方が、本人的にも野球界的にもいいような気がする。

まあおじさんが心配してどうなるものでもないし、そんな小さな問題を吹き飛ばすほどの大選手になるのかもしれないが。
posted by ヤス at 15:16| 徒然なるままに

2015年10月23日

ホワイトカラーはサボっているのか

日本は先進国中でホワイトカラーの生産性が最下位だという。
一方でトヨタのカンバン方式に代表されるように製造業の生産性は高いとされる。

これってほんとうだろうか。
ほんとうだとして、なぜそんなに低いのか。

日本では、スケジュール管理のクラウド化が進んでいないとか稟議のハンコがたくさん必要とか、その原因についてはたくさんの分析があるようだ。

が、日本のホワイトカラーがサボッたり業務がクラウド化していなから生産性が低いわけではない
その答えはいたって簡単であって、彼らが勤務している会社が付加価値を産んでいないからである。

OECDの生産性ランクで1位のルクセンブルクは、人口が少ないが付加価値の高い金融業に産業構造が特化した国だ。
分子にある大きな付加価値を少ない分母のホワイトカラー人数で割り算すると、日本よりは生産性が高くなるのは当たり前だ。

だから日本のホワイトカラーは安心して良い。
とうことでは、決してない。

どちらかというと、日本のホワイトカラーは深刻に心配すべきなのだ。


日本で生産性の向上というと、どうしても製造業的な現場からの積み上げの改善活動をイメージしてしまうのかもしれない。
しかし非製造業における生産性は現場からの積み上げとは逆に、会社の戦略が創り出すものである、と思う。

儲かりそうな独自の事業分野を選ぶ、イノベーティブな商品を世に出す、絶対的な参入障壁を構築する、などの戦略的な思考によって、どの程度の付加価値が獲得できるかはある程度決まってしまう。
そうやって企業戦略によって創造された付加価値を現場のホワイトカラー人数で割り算すると生産性が上がる。
そういうものだろう。

戦略が付加価値を創造するという場合においては、ビジネスプロセスは少々荒削りで良く、改善活動は後から追っかけでやれば良いのだと思う。


だから日本のホワイトカラーの生産性が低いのは、一言でいえば日本の会社が不確実性に投資しておらず、リスクテイクしていないからである。

今、デフレ脱却のための重要課題として全産業的に賃上げを実現するという大きな宿題がある。
それで上場企業の給料が増えたり最低賃金を上げたりということがだんだん進んではいるのかもしれない。
だが肝心の付加価値拡大、生産性向上については、掛け声は掛かっているのかもしれないがあんまり進歩しているようには見えない。

今必要なのは不確実性に投資して戦略的に付加価値を増やす、そういう心意気であると思う。
posted by ヤス at 11:15| 徒然なるままに

2015年10月22日

流行に敏感な人

学生時代の友人に、ファッションの大好きな男がいた。

わたしがジャスコで500円のTシャツを買うかどうか迷っている同時期に、彼はバイトで稼いだ有り金を10万円も20万円も街場のブティックやDCブランドに注ぎ込んでいた。
いちばん最初に彼を見た時のインパクトがどうであったかは、なにぶん昔のことなのでもう忘れてしまったけれど、初めて彼を見る他の人間は一様に「あの派手な奴はなんや」みたいな反応をしていたと思い出す。

その彼はファッションが個性的であっただけでなく、人格的キャラクターもなかなかユニークであった。
よくしゃべり、適度に図々しく、頭も良かった。
見た目も中身も個性的な彼は、もちろん流行にも敏感であった。

当時住んでいた広島に無印良品が出てきて、「これはオシャレだ」と彼も早速飛びついた。
わたしとしては初めて聞く「ムジルシリョーヒン」が何であるのかチンプンカンプンであったが、とりあえずその頃から彼の家がだんだんベージュぽくなっていったような気がする。


今わたしは、流行りに乗る人間の心理について考えている。

学生時代の友人であるその彼は、人間としてはすこぶる個性的であり、おそらくは自分でも個性的であろうと意識していたと思う。
しかし一方で流行に敏感で、しょっちゅうファッション雑誌をその辺の女子といっしょに読みながら今年の流行りの色がどうとか柄がどうしたとか言っていた。

皆と同調しつつ、その同調の範囲において個性を発揮しようとする、という高度な芸当をわたしは当時あっけにとられつつ眺めていたものである。

個性的であろうとする人間が流行を追い、流行の文法に従いつつ個性を発揮しようとするのは何か矛盾しないか。


ところで流行というのは、「流行っているモノ」が主体なのではなく「流行好きな人々」の方がその本質であるそうだ。
何が流行るかというのは実はどうでもよくて、流行りにどう乗るか、流行りをどのように解釈し、自分なりに再構成して表現するかというような、「流行りに対する反応」の方がその主役なのである。

ということを思った時、その個性的だった学生時代の友人も、実はけっこうな常識人でやや保守的な一面もあったようだなあ、というようなことを思い出してきた。

ひとくちに「個性的な人間」といっても、そこには流行に敏感な上で個性的であろうとするタイプと、ただただ個性的である人と、2種類いるのかもしれない。

そんなことを思った。
posted by ヤス at 09:16| 徒然なるままに

2015年10月21日

MRJ、来週あたり初飛行へ

三菱航空機が開発中の国産旅客機「MRJ」が、いよいよ来週にも初飛行するらしい。
同社のウェブサイトに10月26日〜30日に初飛行予定の告知が出ている。

当初予定より4度延期され、期間にして4年くらいの遅れ。
しかし今度こそは本当に飛びそうな気配だ。

受注状況も現時点で407機だそうで採算分岐点ぎりぎり、事業成立には650機くらい売らないといけないらしい。
新しいビジネスはやっぱり厳しいのだ。
ちなみに値段は47億円とのこと。

ちなみに一足先に事業化が進んでいるホンダジェットは、定員が7人でMRJの客席数70〜92人の10分の1の機体規模で値段は5.4億円らしい。

ジェットエンジンが付いて時速800kmくらいで飛ぶ飛行機が、乗員1人あたりの値段が1億円を切るっていうのは意外に安い感じがする。
ライバル機はどうなのだろう。
ちょっと調べてみた。

MRJの勝負する100席以下の旅客機市場ではカナダのボンバルディア社とブラジルのエンブラエル社が2強である。
いくつかのサイトを見てみたが、両社の100席クラスの機体価格は日本円で30億円くらいのようだ。
設計が20年以上古いので単純比較は出来ないかもしれないが、少々心配になるほどの価格差に見える。

MRJのセールスポイントは燃費性能と騒音などの環境性能がライバル機より3割ほど良いことのようであるが、こちらも前述の2社では従来機のエンジンを新型に換装して改良を進めている。


航空会社における旅客機の運用においては使い慣れた実績のある機体が有利なので、MRJの主要売り込み先としてはアジアの新興航空会社に力を入れるようだ。
どっちみち実績もなく値段も高い新型機を売り込まねばならないのであるから、何か相手の航空会社が喜ぶような仕掛けが要るような気がする。
何か適当なオマケを付けるのか、整備や運用をサポートするなんらかのサービスを付けるのか、それがどんな仕掛けが良いのかは分からないが。
いずれにせよ道は厳しそうであるががんばって欲しい。


MRJは今後も鋭意開発・改良を続けて欲しいし、川重とか富士重にも他の画期的な飛行機を作ってもらいたい。

個人的には、自動操縦の電動ヘリコプターが有望なのではと勝手に考えている。
1〜2人乗りくらいで航続距離は50kmくらいあれば十分だろう。
完全自動操縦にすれば免許も要らない。
空の上では子供が飛び出したりしないので、操縦制御もクルマより簡単なはずだ。
2人くらい乗れて現在の自動車並の値段で出来れば、都市内の10kmくらいの移動に便利なのではないか。

ホンダあたりに作って欲しい。
そして10年くらいの将来に乗りたい。
などと思った。
その前にMRJにがんばって欲しいと思う。
posted by ヤス at 14:16| 徒然なるままに

2015年10月20日

凡人と天才の話のつづき

企業は人なり、だという。

本当にそのとおりだと思う。
特に最近は社会が成熟し、産業界の構造もかなり煮詰まってきている。
1回頭をひねったくらいではイノベーションを起こせない。
2度3度と頭をひねっても無理かもしれない。
そういう時に、突破力のある異能の人材がいると助かる。

最近は「タレントマネジメント」という考え方がクロースアップされている。
社会全体が成長している中では、「ヒューマンリソースマネジメント」で組織の底上げとか活性化とかに力を入れていれば我が社は成長できた。
しかし、社会が煮詰まっていろんなアイデアが試し尽くされて凡人の脳みそでは突破出来ない状況になると、天才というか、異能の人材による突破力が必要になる。

そういう天才型で異能の「タレント」というのは、社内研修で育成できる種類の人材ではない。
野にあるタレントを見つけ出して、しかるべきポジションに配置して能力を発揮できるような環境を与える、というようなプロセスを経ることが必要になるだろう。

それは、プロ野球のスカウトやアイドル・お笑い芸人の育成などと同じ構造のように見える。

昔読んだ吉本興業の本に、吉本では芸人を育成しない、みたいな話が書いてあった。
吉本では会社の偉い人が芸人を評価して選別したりせず、とりあえず劇場に立たせてそこで人気が出たのをさらに押していく、そんなことだった。

スポーツ選手もアイドルも芸人も、ある程度の育成は出来るのかもしれない。
しかしその世界で頂点を極めるには、やはり本人のうちに元々あった「才能のようなもの」が大切な気がする。

それと似た話は企業社会でもあると思う。
それは営業とか商品開発とかプログラミングとかクリエイティブとかの、個人の才能に依存する職種で顕著であろう。

人工知能の将棋ソフトは、コンピューターの得意技である計算能力を最大限活かして、何手も先までシミュレーション出来るから強い。
でも将棋の指し手は恐ろしい数のパターンがあるので全部のシミュレーションは出来ない。
だから最後はエイヤッで指す。
そこのところは人間棋士も同じだから、人間とソフトの将棋対決はそのエイヤッの戦いである。
人間は計算能力こそコンピューターに劣るが、エイヤッの能力においてはたいへんに優れている。
だから今でも将棋でコンピューターと対等に勝負が出来る。


タレントが活躍する仕事というのは、そういうエイヤッが必要な仕事であって、単調な理屈の積み上げでは答が出せない領域の仕事である。

今のような煮詰まった社会においては、凡人は粘り強く理屈を積み上げ、野にいるタレントを見つけ出して彼らの活躍の段取りをすることが必要なのではないか、などと考える今日この頃である。
posted by ヤス at 10:32| 徒然なるままに

2015年10月19日

天才と凡人の戦い

三国志のクライマックスに、五丈原の戦いで諸葛亮孔明と司馬懿仲達が対峙する場面がある。
この場面はたぶん小説版である三国志演義の創作で、現実はどうであったかはよく知らない。
それはともかく、五丈原の場面は天才同士の戦いのありようをシンボリックに表現していると思う。

孔明も仲達も戦場における天才である。
しかし孔明の方が少し天才度が高い。
仲達は自身が天才だけにそのことがよく分かっている。

だから戦場における変幻の術を封印して戦略的行動に終止し、最終的に勝利をものにする。
孔明の健康情報や敵国の兵站能力を冷徹に見極めて、数的に絶対優勢だったのに出撃せずに待ちの姿勢を決め込むのである。
三国志演義では孔明が死んで蜀軍は撤退を始め、それを機に追撃を行おうとした仲達の大軍が「死せる孔明」によって撃退されることになっている。

この時の仲達の魏軍と孔明の蜀軍の戦力は魏が30万人、蜀が10万人くらいだったという。
歴史上、2倍3倍の敵を相手に完璧に勝利するという戦いのケースはいくつもある。
始皇帝後の覇を争った項羽が超人的な戦闘力を発揮したり、カルタゴのハンニバルが少数の遠征軍でローマの大軍を滅亡の淵に追い込んだり、他にも源義経やナポレオンやロンメル将軍などの事例がある。

そして少数が大軍を打ち破る場面には、必ず軍事の天才が登場する。

ところが、項羽もハンニバルも義経もナポレオンもロンメルも、自身よりかなり天才度で劣る敵に、戦略的に絡めとられてしまう。
だから我々のような凡人でも、戦略を理解すれば天才に勝つことが出来ると言える。


昔、わたしはとある企業の販売促進担当をやっていた。
その企業では毎月大量のDMを発送する。
わたしはその段取りをやっていたのだが、その作業の一環にDM封筒の糊付け作業があって、わたしもその作業に参加していたが、作業スピードにおいて若い女子社員にどうしても勝てない。
わたしとしては理路整然と作業工程を分解して不要工程を削除したり、作業の順番を工夫するのだがどうしても勝てない。
だが、その封筒貼り作業はやがて印刷会社にアウトソースされることになり、わたしの戦いは華々しい勝利に終わった。
なんなら紙のDMを廃止して電子的手段に置き換える、ということでも勝利出来ただろう。
凡人でも戦略に寄って天才に勝つことが出来るのだ。


軍事の世界では戦況がめまぐるしく変わり、情報が錯綜し、加えて生命の危険による恐怖が判断を大きく誤らせたりする。
だから軍事の世界には、総司令部から現場指揮官に至る要所にある種の天才を配置することが必須となる。
最近はドローンやGPSなどのハイテクで凡人でも天才のような戦いぶりが出来るようになってはいるのだろうが、それでも戦争の現場には余人で代え難いような才能が、今後もたぶん不可欠である。


それは企業活動でも同様で、ある程度は戦略的に対処できるけれど、成熟市場でイノベーションを起こしたりする突破力の点で、百人に一人とか千人に一人とかの才能が欠かせないと思う。

長くなったので続きはまた次回。
posted by ヤス at 09:36| 徒然なるままに

2015年10月18日

字の上手の不思議について

最近めっきり字を書かなくなった。
とはいうものの、ときどき銀行の窓口とか何かの契約書類とかで住所や名前などを書くことはある。

わたしは字が下手なので、ボールペンを握って字を書くときに妙に力が入り、手が疲れる。
1年くらい前にソフトバンクのショップで契約手続きをしたことがあったが、その時は署名サイン以外全部電子化されていて、名前以外手書きすることがなく、おまけに印鑑も要らなかったので少々感動した。(署名もiPadに電子的に手書きしたのだ)

世の中の契約書類が早いこと全部電子化されることを切に願う次第である。

ところで、世の中には字の上手な人がいる。
字の下手なわたしから見ると、その能力はうらやましいと同時にやや不思議である。
失礼ながら字の上手と知能指数は必ずしも比例はしないらしい。
頭のいい人でもものすごい悪筆というケースに時々出会うのである。

突然だけれど、字の上手下手について考えていて、ふと思い浮かんだ論点がふたつある。

まず、字を上手に書く能力っていうのは、そのメカニズムはどうなっているのかということ。
もうひとつは、上手な字っていうのは、何がどういう字だったら上手と認識されるのかという点。

わたしは10代の頃、一瞬絵描きになろうかと思ったくらい絵が好きで得意でもあるのだが、一方で抽象絵画とかの現代美術についてはよく理解できない。
あんまり感動もできない。

ところでそんなわたしでも、上手な字を見たらそれは上手な字としてちゃんと認識する。
筆文字で力強くしたためられた書道作品などを見ると、若干の感動を覚えることすらある。
ポロックやカンディンスキーなど抽象絵画の大家の絵を見ても感動しないが、上手な書道の字を見るとそれなりに感動できるのだ。
これは、書道の字のハネやウッタテの形状がある法則に従うときに感動する、ということなのか。
なんで人間は上手な字を上手と判定するのか。
考えてみるとよく分からない。

上手な字を書く能力というのも、いくばくかのミステリーを帯びている。
字の上手な人は、まっすぐをまっすぐ書く、幅や長さを揃える、各部の大きさのバランスを整えるなどの複雑かつ精巧な作業をなかば無意識的に出来る人なのであろう。
さらに、前述した上手な字の形状に関するデータが脳内の「字を書く中枢」に正確に格納されているのであろう。

手書き文字の上手下手について考えていると、いろいろな論点が浮かんでくる。
筆跡鑑定とかも面白そうだ。

ということで手書き文字の文化は、これはこれで存在価値があるような気がしてきた。
おしまい。
posted by ヤス at 13:30| 徒然なるままに

2015年10月17日

イノベーションとは何かを考える

イノベーションという言葉がある。

経済産業省なんかの役所でも最近よく使っている。

最近この言葉について多少自分なりに勉強することがあって、その結果今まで感じていた「イノベーション」の意味とは違うふうに、だんだん見えてきた。

結論的にいうと、イノベーションの中身は、何かを新しくつくることが半分で残りの半分は何かを抹殺することである、といえる。
新しくつくってその替わりに今までのものを殺す、この両面がセットでイノベーションなんだということ。

そういう意味では、フランス革命や明治維新などの政治体制の革命と相似形だと思う。

たとえばオーディオ業界では、音楽のデジタル化でアナログレコードやカセットテープがCDに置き換わり、そのCDもネットワークに取って代わられようとしている。
カメラ業界ではフィルムがデジタルになり、コンパクトカメラの売上はスマホのカメラ機能に侵食される。

今までの日本ではこのような事象について、新しい技術が創造されて普及した、という感じで技術の部分だけしか見ていないように思える。
だから日本ではイノベーションを「技術革新」と訳したりする。
技術に焦点を当てすぎているのである。
イノベーションとは、新技術でもビジネスプロセスの新しさでもいいのだが、新しいものが勢力を拡大して既存の体制をうち壊していく、その、創造と破壊の過程そのもののこと、と思った方がいいのではないか。

だからフランス革命で王様の一族がギロチンにかけられたように、イノベーションが起きるということは、既存勢力がギロチンにかけられる、血塗られた戦いが始まるということである。

そして今までの事例を思い出すと、いちど新興勢力が勢いを得たら、その後の過程は新興勢力による押せ押せの、一方的展開になっている。

資本主義が成熟するということは、マーケットのあちこちでイノベーションが起こされているということであり、イノベーションを起こすために血眼で新しい技術を探したり、イノベーティブな人材の取り合いをしたりというのが現在の企業活動の一面であると思う。

その中で生きていくためには、イノベーションを起こす方に居た方がいいのは間違いない。
そしてイノベーションで抹殺される方には居ない方がいい。
さらに、イノベーションを起こせるような個人であればなおいいのだろう。

そういうことを少し考えた。
posted by ヤス at 13:56| 徒然なるままに

2015年10月16日

そろそろパソコンが欲しいのだが

キーボードの未来
今、この文章はiPhoneにインストールしたATOK Padで書いている。
わざわざATOK Padで書く理由は、これだと現在の文字数が分かるからである。
あと、このアプリには確か二千円くらい払っているので使わないともったいない。
それだけである。

しかし、携帯電話で文章を書く時代が来ようとは、かつて想像もしなかった。

わたしが最初にパーソナルコンピューターを買ったのは、確か1994年、MacのPowerBook150っていうやつ。

値段は23万円くらいだったと思う。
(PowerCDというスカジーのCDドライブと合わせた値段だった気がする)
当時のわたしの月給に匹敵した。
モノクロ画面で640×480の解像度。
ニッカドバッテリーで30分ほどで電源がダウンした。
CPUのクロック周波数は33メガヘルツ。
クロックだけで見ても今の50〜100分の1の遅さ。


次に買ったのはMacのPerforma6200というデスクトップ。
確か1996年のことだ。
ブラウン管のカラー画面になった。

その後はウィンドウズに宗旨替えし、約10台をとっかえひっかえして今日に至っている。



昔から思っていたこととして、パソコンは、パーソナルっていうくらいだからノートでないとだめだということ。

しかしかつてのノートパソコンは、重量が4キロくらいあったりハードディスクが壊れたり、もって歩くにはさんざんだった。
やっと実用的に持ち運べるようになったのはSSD化して重量が1キロくらいに収まるようになったこの5〜6年前からのような気がする。

しかも最近は、安いタブレットがたくさん出ている。
タブレットのスペックを見るとモバイルで使うには申し分ないように思われる。
しかしひとつ問題があって、それはキーボードをどうするか。

タブレットの画面に出る仮想キーボードより、ほんまもんのキーボードが断然打ちやすい。
しかもウィンドウズタブレットはタッチ操作に関してはまるで未完成で、マウスとキーボードが必須の装備だ。

本当はキーボード一体型のノートパソコンが使い易い。
だが今となってはノートだと少しかさばる。
重量が500グラムくらいでキーボードがついてパカッと開けてすぐ使えて、8インチタブレットくらいのかさばり具合で、エクセルが使える機種、もちろん文章もキーボードで快適に打てる、そんなのが欲しいのだが今のところ該当するモデルは無いようだ。

技術の進歩は速いので、そのうち驚くようなのが出ると期待して待つことにしよう。
それまではiPhoneでぼちぼち打つことにする。
posted by ヤス at 09:57| 徒然なるままに

2015年10月15日

中間層の減少問題について

消費税の軽減税率が問題になっている。
これには公明党が強くこだわっているようだ。
消費税率アップの三党合意の時に、公明党は支持層に対して軽減税率の導入を条件にコンセンサスを得たのだろうか。
10%への増税の実現そのものも含めて判断がかなり難しくなってきたように思える。
これは来年あたりもうひと波乱あるかもしれない。

公明党が軽減税率にこだわるのは福祉政党を標榜し、弱者保護の立場をとっているからだ。
政治にとって福祉は外交軍事とならんで主要な仕事である。
消費税は弱者に厳しい税制なので、格差問題が声高に叫ばれる今日にあっては、なんらかの弱者救済策の導入が避けられない状況だろう。

とはいうものの、税制のあり方についての問題はむずかしいのでひとまず置いておく。

経済的強者と弱者の問題についてぼんやり考えてみる。

資本主義社会ではある程度の格差があることが正常な状態だろう。
今問題になっているのは、多くの弱者を底辺とし一握りの強者を頂点とするピラミッド構造が、山の中腹がだんだん細ってきて頂上が上に尖り、そして底辺がだらーんと広がっているということにある。
いわゆる中間層の減少の問題だ。

ある書籍によると、中間層が減っているのは地球上に開拓対象であり搾取対象となるフロンティアが無くなってきたからだという。
昔は植民地と呼ばれる地域がその対象であったわけだが、そういう時代はとっくに終わってしまった。
だから経済強者は国内に新たな搾取対象を求めたのだという。

中間層にとって悪いニュースがまだある。
今後10年くらいで人工知能の実用化が急速に進むと予想される。
人工知能の進歩により経理とか営業や接客、ある種の企画業務なんかもだんだん機械化されていく。
今はぜんぜんピンとこないけれど、これまで数千年の間人類が進歩の道を驀進してきた実績を思うと、ホワイトカラー業務の機械化は間違いなく実現する。
そして中間層の仕事がだんだん無くなっていく。

100年後の人類社会はどうなっているのだろう。
未来の経済強者の条件は何なのだろうか。


ひとつ思いついたことがある。
人工知能になくて人間にあるものがひとつあって、それは動機、モチベーションだ。

金持ちになりたい、有名になりたい、世のため人のために役に立ちたい、などというモチベーションは今のところ人間にはあるが人工知能にはない。(と思う)
そういう人間の持ついろんな「動機」が、社会を進歩させ、同時に数々の不正や不具合も産み出している。

いっそ議員の先生や大臣も人工知能に置き換えたらいいんじゃないか。

何はさておき格差問題、中間層の減少はむずかしい問題だと思った。
posted by ヤス at 11:21| 徒然なるままに

2015年10月14日

とりあえずもがいてみることについて

最後はもがけ
かつてわたしが競泳をやっていたことは何度か書いた。

競泳時代に聞いた「教え」に、「ラストはとにかくもがけ」というのがあった。

この教えは今考えるとなかなか深い。

バテバテでラストに差し掛かったとしても、まだ火事場のクソヂカラが残っている。
だが疲労困憊のうえに切羽詰まった精神状態にあるラストの部分では、ともすると残る力を振り絞るのを忘れてしまうことがままある。

だから、ラストはもがけの教えは、いついかなる時もラストは力を出し切ることを身体に染み込ませるためのもの、と解することができる。

さらにだ。
オリンピックに出るような一流スイマーならラスト5メートルの重要性は非常に大きい。
一流スイマーなら、ラストはもがきながらも正確に美しく泳げないといけない。
彼らの場合、ラストをもがけの教えは、いかに正確に美しくもがけるか、そのために毎日どんな練習をするか、ということの意味が大きい。
(彼らももがけと教えられているかは知らないが)


話は変わる。
最近ネットで猫動画をよく見る。

猫は、何かびっくりすることがあると物凄い勢いで飛んだりダッシュしたりする。
これは、野生で生きている時には、危険に際してとりあえず飛んだり跳ねたりした方が、生存確率が高いということなのではと推測する。
人間を含めて多くの生き物が、切羽詰まるとパニックになるのは、そういうことなのではないか。

進化論的に、進退窮まった時にはとりあえすもがいてみるということの有用性が確かにあるのではないか。

ただ、猫と違って人間には立派な大脳皮質があり高度な論理的思考ができる。(はずだ)

これは、人間は野生の本能としてとりあえずもがいてみる前に、脳みそを働かせて考えを練ることができる、そのような二段ロケットになっていると考えることができるだろう。

でも、いったん考え出すとなかなかもがけなくなる、そしてもがいているときには考えられない。
そういうもんだ。

だから、窮したときはなるべくシンプルに、あんまり考えないでとりあえずもがいた方がいいような気がする。

ただし、いかに正確に美しくもがけるかは、日頃の準備がものをいうのだろう。
とりあえずそういうことにしておく。
posted by ヤス at 09:31| 徒然なるままに

2015年10月13日

今まで大丈夫は、これからも大丈夫か

長く生きているとだんだん世慣れてくる。
今まで数十年生きてきて大丈夫だったから今後もたぶん大丈夫だろう、という思い。
この手の思いは20歳代では芽生えず、30歳代でもまだあまり感じないように思う。
昔風にいうところの「初老」の気が出始める年齢にさしかかってはじめて、そういう気分の存在に気づくものであろう。

今まで大丈夫だったからこれからも大丈夫という気分は、ポジティブにとらえれば経験に裏打ちされた「自信」と表現もできる。

とりたてて努力と鍛錬の日々を送っていない平凡な人間でも、今まで大丈夫だったという過去の実績は、これからの人生もほぼ大丈夫なことをある程度保証してくれるだろう。


そういう気分が自分の中に確かにある。
それは、日頃あんまり意識はしていないが確かにあって、腰のあたりに見えない重しとなってぶら下がっていて、それは年にひとつずつ増えていっているのではないか。

今まで大丈夫だった人生を年々重ねていると、いつのまにか重しが増えて腰を上げるときに「よっこらしょ」と言わないと立ち上がれなくなる。
たぶんそのうち「よっこらしょ」と声を出すだけで、立ち上がらなくなる。


人類の営みは、他の生き物に比べるとひどく複雑で、ただ食って寝て生きるというだけでなく、会社をつくったり、芸術活動を行ったり科学技術を極めたりいろいろと忙しい。

社会の中で人間として生きる、ということは、そういう忙しい人類の営みに参加して忙しく生きることであって、このような生き方は他の生き物に比べるとかなり不安定で、エントロピー的に位置エネルギーが高い状態で、いつか転がり落ちそうな不安が常にある。

だから時々、今まで大丈夫だった、だからこれからも大丈夫だろう、と思わないとやっていられない。
と、思う。
しかし、そのように思っている人ほど、将来の備えがだんだんおろそかになって、いつか大丈夫でなくなる可能性が大きくなるのではないか。


老後の切羽詰まった段階で、突然の大丈夫でない状況を迎えないようにするためには、若いうちから時々大丈夫でない経験をしておくことが必要かもしれない。

若いうちに痛い目にあっていれば、その後の備えをしっかりするようになるんじゃないか。

一方で、大丈夫でない経験をして、けっこうたいへんだったけれど結果なんとか大丈夫だった、という人の場合はどうすればいいのだろう。

そういう剛の者に限っては、大丈夫でない時も結果大丈夫だったことを自信に思っていいのかもしれない。

などと、いろいろ考える。

はたして今まで大丈夫だったということは、これからも大丈夫ということなのか。
年齢を重ねると要らない心配が増えていけない。
posted by ヤス at 13:56| 徒然なるままに

2015年10月12日

不安の心理について

不安や恐怖は無くてすむなら無い方がいい。

しかしどうも、不安の心理は生存確率を向上するための進化上のメカニズムであるらしい。
したがって不安があるのは正常なのであって、不安を感じない人は、高等哺乳類として働くべき機能がいくらか欠けている、と言えるかもしれない。

昔、テレビ番組で実験用のネズミにストレスを与えるという場面があった。
何の実験か忘れてしまったが、器具に固定したネズミを鼻と口以外水に沈めるというサディスティックなシーンだった。
水が苦手なネズミにはものすごいストレスらしい。

ネズミは泳ぎが苦手なので誤って水中に落下すると溺れ死ぬ可能性がある。
だから水没の危険が迫ったら不安ないし恐怖を感じるように出来ている。
もしここで恐怖のシグナルが生じなかったら、そのネズミは平穏な気持ちのまま溺れてしまうだろう。


不安の気持ちと同じようなものとして、痛覚とか、空腹感とかもあるのだと思う。
身体のどこかが痛い、と感じるのはその部位が怪我や病気で損なわれているからで、たとえば足を怪我したのに平気で飛んだり跳ねたりできたらますます怪我が悪化する。
腹が減ったり喉が乾いたりというのも、生命維持の仕組みのひとつだろう。

不安の心理は単純な生命維持の働きだけでなく、もう少し高度な人間的活動において動機付けにもなったりする。
老後の不安を解消するためにがんばって働いて貯金する、保険に入ったりする。
あるいは「恐怖のマーケティング」というのがあって、人間は不安や恐怖を動機に買い物をすることさえある。


よく分からないのは、不安によるストレスが累積するといろいろと健康上の不具合が生じるということ。
ストレス性の胃炎や胃潰瘍、うつなどの精神疾患なんかを発症するのはなぜだろう。

不安を感じて、不安を解決するための行動をしてそれでおしまい、でいいんじゃないのか。
不安がたくさん続くとそれが原因で病気になってしまうのは、何か解せない。

ひょっとして、天の神様はあんまり危なっかしい行動ばっかりするのは好ましくないと考えて、危ない行動を続ける個体はいっそ病気になって滅ぼしてしまえ、と思ったのかもしれない。




昨日、街を歩いていて大きい方の便意に襲われて、しばらくのあいだ不安と恐怖のストレスにさいなまれた。
しばらく歩いていたらビジネスホテルがあったので、そちらで用事を済まさせていただいた。

快適なウォシュレットの温水のぬくもりを感じながら、得も言われぬ安堵を感じた。

不安を解消すると、その落ち込み分を埋めておつりがくるほどの幸福がやってくるようである。
そういうことをウォシュレットの最中に思った。

少し話がずれたかもしれない。とりあえずおしまい。
posted by ヤス at 07:53| 徒然なるままに