2018年07月18日

視聴率の記憶

視聴率というのがある。
この間のサッカーワールドカップは日本がらみの対戦カードは深夜帯ながら視聴率が30%とか40%とかになっていて、いまだにこんな大きな数字をとる番組があるんだなあと思った。
しかし大昔、50年くらい昔のテレビではNHK紅白歌合戦が視聴率80%とか、日テレのプロレスの力道山が出るやつが60%とか、ケタ違いの視聴率を取る番組がたくさんあったらしい。

わたし自身の記憶でも、子どもの頃の土曜日夜8時はドリフターズの「8時だヨ!全員集合」を欠かさず観ていた記憶がある。
「全員集合」を夜の8時から9時まで観て、その後「Gメン75」が始まってそれを観ながらウトウト寝る、みたいな感じのサイクルが毎週律儀に繰り返されていた記憶がある。

ほんとうに習慣というのはおそろしいもので、よほどの天変地異でもない限り「全員集合」から「Gメン75」の流れは鉄板だった。
そしてそれは他の多くの家庭でもそうだったようで、「全員集合」の視聴率は最盛期はだいたい40%台、最高50%、少し低調になった時代も合わせた平均値でも27%だったらしい。

しかし「全員集合」はいつの頃からか全然観なくなって、ただその時も小学生の間でヒゲダンスが流行っていたりしてまあまあ人気はあったようなのであるが、何か遠くの他人ごとのような感じになってしまった。
なぜ観なくなったのかは今ではよく憶えていないが、やはり小学生、中学生、高校生と成長するにつれ生活習慣も変わるしその中でテレビの観方も変わったのだろうと思う。
あるいはテレビ番組に求める好みも変わったのだろう。
学生時代は先輩の家で焼酎を飲みながら「オレたちひょうきん族」を観てゲラゲラ馬鹿笑いしていた。

でも変わったのはわたしの生活習慣だけではなくて、その頃からだんだんとビデオデッキも普及してきて「録画して観る」方法が広まってきたりした。
あるいはニンテンドーのファミコンが出てきたりしてみんないろいろと忙しくなった。(わたしはファミコンはほとんどやってないが)

そのうち知らない間にインターネット時代になって、最初の頃はISDN回線で動かないページをサーフィンしていただけだったが、今では動画サイトがたくさん出てきて好きな時間に適当に時間つぶしをできるようになった。

こういう時代には「視聴率」的なものはたぶんもう古い。
今の時代に視聴率が有効なのは、ワールドカップみたいにリアルタイムで観る必要があって瞬間最大風速的に日本中が盛り上がる番組くらいだと思う。
そのワールドカップの視聴率だって、以前と比べるとだいぶ下がっている。

あと10年たったら、たぶん視聴率の数字のレベルは現在よりさらに下がるのだろう。
そしていつか消えてなくなる。

と考えると、くだらないテレビ番組しか時間つぶしの方法がなかった大昔がちょっとなつかしく思えたりする。
posted by ヤス at 09:04| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月17日

セミの季節

しかし、本当に暑い日々が続いている。
いつのまにかセミの大合唱も盛大に始まっていて、クソ暑さに拍車をかけている状況である。

ところでそのセミ、夏だけ見かける昆虫のセミは、7年間地中で過ごしその後樹上に出てきて1週間で死ぬ、みたいな話が流布しているが、ネット記事を見るとそんなに長く地中にいるセミは日本にはいない。
ツクツクボウシで1〜2年、アブラゼミで3〜4年、クマゼミで4〜5年と書いている。

わたしにはどの形がクマゼミでどれがツクツクボウシかまったく判別はできないが、セミの種類でだいぶん「地中期間」が違うのだなとはじめて知った。

ところでこの地中期間は「幼虫期間」でもあるわけだが、そう考えるとセミの場合、生涯の99%以上が幼虫期間ということになる。
でもその期間配分を考えると、地中にいる間に実は大人になっていて、羽が生えて地表に出てくるときは死にかけのお爺さんとして出てくる、という見方もできる気がする。

いったいどうなのだろうか。

セミの場合は地中にいる期間が生きている期間のほとんどを占めるわけだが、地中では木の根っこに張り付いて静かに樹液をちゅうちゅう吸っているだけなので、あまり世界に関する見聞を広めることはできない。
最後の1週間に地面から這い出てきて、この世界の広いことを知り、中にはカラスに襲われたりするのもいて世界の危険なことも知り、最後の最後に今までの分を取り戻すように、地中の何倍速もの速さで人生を学び(「蝉生」を学びかな)、そういう意味では地表に出てから初めて大人になるのかもしれない。

それにセミの場合は羽があって空を飛べるのもポイントが高い。

セミのような超極端な大器晩成も、なかなか劇的でいいかもしれないと思った。
(でもやっぱり大人の時間は長い方がいい。暑いといろいろ考えが乱れる)
posted by ヤス at 09:15| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月16日

MacBookの脆弱性

今この文章をMacBookで打っているのだが、どうもキーボードの調子が悪くて調子が狂う。
症状としてはキーボードの「P」がおそろしく反応が悪くて、少し押したくらいではうんともすんともいわない。
それで渾身の力を薬指に込めて数秒間「P」を押し続けるとやっとこさ反応して、液晶画面に「P」の字が現れる。
今こうやって「P」と打つたびに渾身の力を数秒間込めているのであるから、そういうけなげな努力を続ける自分を、自分で褒めてあげたい気分である。

また「P」以外にも「i」(こちらはなぜか小文字で表記することにする)もやや反応が悪い。
少し急いで「タイピング」と打とうとすると「P」と「i」の反応の悪さが邪魔をして「タング」となる。
あるいは、「i」だけ反応して「隊員具」(どういう意味だよ)となる。
このMacBookは2016年モデルで、1kgを切る軽さと小さすぎないサイズ感、打鍵感のよいキーボードなどが気に入って、主に文章を打つ用に購入したものである。

CPUスペック(「CPUスペック」には「P」が2度も登場して打鍵に苦労したぞ)はかなり控えめで、それでも文書を打つくらいのことなら差し支えあるまいと思っていたわけであるが、たしかに文書を打つ限りにおいては、性能の低さは気にならずそこそこ気に入っていた。

ところがここへ来てのこのキーボードトラブル。
ネットを調べてみると、このキーボードは最近のMacBook Proなどにも採用されている新世代キーボードであり、薄いくせに打鍵感が良いのが売りだそうだ。
ところがあまりに無理をして薄くしすぎたのだろう、アメリカでは同様のトラブルが多発してそれに怒ったユーザーが集団訴訟を起こす騒ぎになっているらしい。

いや、わたしもほんとう、その訴訟に加わりたいくらいかなり頭に血が上って来た。
(こうやって打っているうちに「U」も微妙に調子が悪いのに気がついた)

技術的に無理をしてトラブルになるのは、戦争中の大日本帝国の航空機エンジン・中島飛行機「誉」みたいだ。
誉エンジンも当時の日本の乏しい技術力の中、設計に無理を重ねて、軽量小型に高回転型の高性能を目指し、結果トラブル続発で現場の整備兵を泣かせたのである。

それで、アップル(「ップ」を打つのがものすごくむずかしいぞ)のサイトに出ていた対策として、エアダスターでキーボードの中に入り込んだホコリを吹き飛ばす、というのをやったが効果はない。

エアダスターで整備をするなんて、清掃に圧搾空気が必須の、アメリカ軍がベトナム戦争から大量導入したM16ライフルみたいだ。
M16ライフルは近未来的な外観から多くの無知な兵士がメンテナンスフリーと勘違いして実践時に弾詰まりが多発した。

まあどんな兵器も日頃のメンテナンスを怠るといざという時に役に立たないわけで、そういう意味では今までノーメンテでMacBookを使って来たわたしにも責任はあるのかもしれない。(MacBookは兵器ではないが)
が、それにしもてこの薄型キーボードはちょっと脆弱すぎるのではないか。

ということで、これからはなるべく「P」の付く単語は避けて文章を書こうと思っている今日この頃なのでした。
posted by ヤス at 15:09| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月15日

災害対策にドローン輸送の可能性

個人的にドローンの将来に期待している。
人を乗せられるくらい大型の電動ドローンで都市交通の一翼を担おうという構想は世界中で研究が進んでおり、ひところは中東のドバイで実用試験間近というニュースも流れていた。
またアマゾンがドローンによる物流の構想を表明したのは2013年のことだったらしい。
その後アマゾンは2016年にイギリスで実証実験も行っているが、現在に至るまで実用化の目処は立っていないようだ。
また日本でも楽天がドローン輸送の実証実験を行っており、こちらは秩父の山間部で高架電線を利用して飛行ルートを設定し、弁当の配達に成功したという。

ドローンの機体開発に関しては有人タイプの飛行デモも多く行われるようになっており、荷物専用の大型機も旅客機メーカーのボーイングが230kg積載して30km飛行可能なものを開発するなど、ほぼ実用可能なところまでできあがっている。

ただネックとなるのは関連する法律の整備、そのための実験データの蓄積、そして墜落など万が一の事態に備えた安全性の確保であることは間違いない。
最近のドローンが、ヘリコプターみたいに大きな回転翼がひとつふたつのタイプより、小さいプロペラが10個も16個も付いたようなタイプが多いのは、プロペラ、モーターのどれかが壊れても大丈夫なように、という配慮からだろう。

そのうち日本でも、安全性を検証した上での実証実験が各所で行われて大型のドローンが荷物を運ぶ姿がたびたび見られるようになるのではないか、と期待したりもするのであるが、ただし日本の市街地はいまだに電柱が林立し電線が錯綜しているのでドローンが飛ぶには危険過ぎるかもしれない。

そうやって考えると輸送用のドローンがまず活用できそうなのは、人口があまり密集しておらず障害物が少ない過疎地の田舎になるかもしれない。
公共交通も不便で自動車も運転できなくなった高齢者が、ちょっとデイサービスまでの移動手段として有人ドローンを使うとか、スーパーに買い物に行く代わりにドローンでの配達を利用するとかは十分ありだろう。

また現在も先日の大雨被害の復旧作業が続いているが、このような大規模災害時、道路寸断や渋滞で陸の孤島になった地域に緊急手段としてドローンで荷物を届けるとかは現状の技術で可能ではないか。
既存のヘリコプターは機数が限られ運行コストも高額で小回りが効かない。
今後も大雨や地震災害は定期的に発生が予想されるので、この部分に特化したドローン活用の法律を整備し体制を整えたらどうかと思ったりする。

そうやっていろいろ考えていると、輸送ドローンがさっそく活躍できそうなのは軍事利用である。
先述のボーイングが開発した大型ドローンも軍事用を見据えているのだろう。
実際に軍事用のドローン輸送システムは開発が進んでいて、今後は戦争で鍛えられたドローンの技術が民生用に降りてくるという感じになるのかもしれない。
それはそれでやや複雑だが、今後のドローンの活躍に期待したいと思っている。
posted by ヤス at 12:47| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月14日

シート倒していいですか問題

最近時々新幹線やバスの座席を倒す時に、後ろの人に「倒していいですか」と確認した方がいいとか、別にしなくてもいいじゃないかとかいうのがネット上で話題になることがある。
どこかのバス会社で、出発するタイミングとかで運転手さんが「みんなで一斉にシートを倒しましょう」みたいなことを言って、それで乗客がみんな気兼ねなくシートを倒せて神対応、みたいなのがニュースで流れていたこともあった。

そういうわけで、現在世間的にこのような乗り物におけるシートリクライニング時に、後ろの人に声をかけた方がいいのかどうかがかなり重大な問題となっているわけであるが、実を言うとわたし自身は後ろの人に確認したことはたぶん一度もない。
たまに新幹線とかに乗って前の人がシートを倒すことがあり、中には「倒します」と丁寧に確認いただくこともままあるわけだが、わたしとしては別に確認や了解なしにシートを倒したら許さん、と思ったことは一度もない。

第一、新幹線のシートはよくできていて、背もたれのところにある小さいテーブルとかも前の人がシートを最大に倒そうが全然位置が動かないようになっている。
またシートの前後間隔もシートのリクライニングを考慮して設計されているに違いなく、前の人が最大角度まで倒したところで後ろ側のわたしとしては、狭くて苦しいとかも一切ない。

電車の設計をする人も運用しているJRの人たちも、おそらく誰一人リクライニングの時に後ろの人に確認しろとかは思っていないはずなのである。
にもかかわらず確認する人が絶えないのは、これはもっぱら乗客側の都合によるということになる。

これはあくまで想像だが、ある時お客さんがシートの前後に座っていて前の人が黙ってシートを倒して、その時後ろ側の人が無言で倒れてくる目の前のシートの動きを見て少々イラっときて、「俺様の了解なしにシートを倒しやがって」と思って、「チッ」と舌打ちをしたりしたんじゃなかろうか。
その舌打ちが前の人の耳に入って、それでビビってそれがトラウマになって、以来その人はいちいち後ろに了解を取るようになったのではないか。

つまりこれは後ろ側の人が、箸が転んでもイラっとする、目の前のシートが自分めがけて倒れてきたらさらにイラっとする、という世間的なイライラ問題なのではないか。

この「シートを倒していいですか」といちいち聞いてくる人というのは、東京方面の品のいい紳士とかが多いような気がなんとなくするのだが、逆にそういう人は日頃から世間のイライラに晒されて常に防衛的になっているのかもしれない。

しかしクソ田舎に生きるわたしのような鈍感な人間は、後ろの人のイライラに一切頓着せずに平気でシートを倒すことができるのは、田舎暮らしの最大の効用ではなかろうか。

というのは少し違うかもしれないが、あまり何でもイライラしないのは、重要な人生のノウハウであることは間違いない。
posted by ヤス at 11:42| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月13日

血液型占いは下火になったのか

最近、A型はまじめだからどうしたとかB型はいいかげんだからどうとかいうような、いわゆる血液型占い的な話を聞くことが少なくなった気がする。
従来から血液型占いの撲滅をひそかに念願していたわたしとしては、少しうれしい。

ただ人間というものは、いつでも何かよりどころを欲する生き物であるようで、だからいつの世にも占いとかのたぐいはなくならない。
O型はおおざっぱとかAB型は分裂症ぎみとか、とりあえず4つの血液型である程度その人物の傾向と対策を確定することができると、そこに至る人物判断のための思考が節約できて楽チンだ。
しかも血液型による性格類型は幅広く世間的に共有されており、A型だからどうだとかいうと、「わかるわかる」と他の人もそれに共感するようにできている。

血液型占いというのは、結局これは人物分析をやりたかったのではなく、その実体は知り合い同士で共感を得るためのコミュニケーションツール以外の何ものでもなかったのだ、と思う。
ところが世の中には人物分析のための血液型占いをいまもってかたくなに信じている人がいて、それも会社の社長とか国会議員とかそれなりの社会的地位にいる人だったりする。
そういう人は、血液型を参考にして社員の処遇や対人関係をやりくりしたりしているのだろう。


ここでもうひとつ思うことは、人間関係とか人物対応とかにおいては根拠のない血液型を使おうが使わなかろうが、結果にそんなに差異はないのではないかという点である。

出典はよく知らないが、フランスとスペインの国境地帯にあるピレネー山脈で遭難した登山隊の話がある。
山中で雪崩にあって装備をあらかた失い、死を覚悟した登山隊の中の一人がポケットから取り出した地図を頼りに、隊長はその地図を懸命に読んで下山ルートを探りそのルートに従って進んでなんとか無事生還するが、帰ってからふとその地図を見たらそれはアルプスの地図だった、というお話。

結局のところ正確な情報をせいいっぱい論理的に解析した上で行動するのと、いいかげんな情報をもとに適当に考えて行動するのとでは、実は得られる結論にほとんど違いはないのではないかということだ。
現実世界の人間の行動では、緻密かつ厳密に論理的な計画はあまり頼りにならなくて、それよりは行動しながらの臨機応変の方が結果に重大な影響を与えうる。

だから血液型で人を判断しようがしまいが、未来の結果にたいした影響はないのだろう。
だとすればなおさら、根拠もなしに人の性格を決めるのはやめた方がいいに違いない。

実際いろいろ人と接していると、ふとした時に当初思っていたのとはずいぶん違うな、と感じることが多々あるものであり、そういう意外性を見つける面白さにとって、根拠なき決めつけほど害悪になるものはないのである、と思う。
posted by ヤス at 09:40| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月12日

人類の基本生態

最近の学説では、ホモ・サピエンスつまり現生人類は基本生態として「一夫一婦制」だったことが有力になっているらしい。
一夫一婦制による子育てがある種のアドバンテージになって、進化競争上有利に働いたということのようだ。

わたしはそれまでは、現生人類もチンパンジー型の「乱婚制」をベースにして子育てをしてきたのではないか、と勝手に思っていたので最近の学説に対する衝撃はかなり大きかった。

一夫一婦制においては、父親も子育てに参加することになるのだろう。
「ネオテニー」的な人類は出生から「成獣化」まで時間がかかり、そのため父親も参加して手厚い子育てをした方が子どもの生存確率が上がるということなのかもしれない。

チンパンジーのような乱婚制だと、子どもは基本的に「父無し子」として生まれるので子育てはもっぱら母子家庭で行われることになる。
一夫多妻制における社会でも、たまにボスザルも手伝ったりするのかもしれないが母親のみによる子育ては乱婚社会と同様だと想像される。

現生人類の基本生態が「一夫一婦制」だとすると、アラブの方の一夫多妻社会はどうなんだ、という話にもなるのだが、あれは人類特有の文化的多様性ということになるのかもしれない。
あるいは最近は(昔からかな)、父親のいない子どもとか、もっと言えば母親も蒸発して両親のいない子どもとかも少数だがいる。
野生状態なら親とはぐれた子どもはそのまま生きて行くことは難しいだろうが、人間の場合、役所とか慈善団体とか親切な他の人がたいていの場合助けてくれる。
フランスとかの場合、20〜30年前と比べるとシングルマザーの比率が急激に増えていて、全体の半分以上がシングルマザー家庭の子どもになっていたりする。

そんなこんなで人類の場合、文明化による文化的多様性とか社会システムによる「子育て支援」の機能も働いて、人類の基本的生態としての一夫一婦制は、もはや野生状態におけるレガシーシステムであって、現代人には必ずしも必須の「生態」とは言えなくなっているような気がする。

先進国では例外なく少子化が進行して、人類は文明の進行とともに野生状態におけるデフォルトであった一夫一婦制からだんだん離れて行っているようにみえる。

わたしは別に野生状態に戻ろう、ということを言いたいわけではない。
かといって子どもを社会の共有財産として共同して育てよう、とかいうつもりもない。
(これは共産主義のめざしたかたちである)

人類は野生状態における各種の「くびき」からずいぶんと自由になったんだな、ということを思ったまでである。
今後人類の家族のかたちや社会システムはどのように変化していくのか、というのは、わたしが心配してどうにかなるような話でもないが、でもやっぱり野生状態の形態からは離れてどんどん自由になって行くのではないか、などと思った。
posted by ヤス at 14:43| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月11日

人を見る

どこかの病院で看護師の人間が、点滴に消毒液を混入させて患者を殺害していたというのが流れているが、患者を助けるはずの病院で人殺しをする人間が働いていたのはかなりの衝撃だ。
容疑者はすでに自供を始めていて、それによると20人くらいにやったらしい。
しかし別の報道によるとこの病院では過去に不審なかたちで死亡した患者が48人いたとかいないとかいう話もあるらしい。

この事件の真相はよく分からないので以下わたしの想像により、あくまで一般論として考えてみると、全国には多数の病院・医院があって大量の医療従事者が働いているわけで、確率論的に考えればその医療従事者の中に人殺しをするほどに精神を病んだ人間というのも、数人か数十人か知らないがいるのだろうと思う。
それで時々、それらの病んだ人間が事件を起こしてニュースになる。
おそらくは病院で働く医師や看護師やその他の関係者というのは、基本的には全員が使命感を帯びて日夜仕事に励んでいるに違いない。
ただその中に、例外的に病んだのがいて事件を起こし病院全体の信用を貶めることが発生する。

こうなると患者サイドにいる我々としては、この病院にはひょっとしておかしな人が働いていないかとか、かすかな不安が湧き上がらないとも限らない。
そういう時には目の前にいる医者なり看護師なりを見て、この人なら信頼できそうだという自分の感覚に頼る他ない。
まああまりそんな心配をして病院に通っている人はいないような気もするのだが、それはやはり普通の人には「人を見る目」があって、日常生活においては病院で猟奇事件があったという抽象的な情報より、自分の「人を見る目」による直接具体的な情報が優先するという状況があるからに違いないのである。

さらに考えてみると、病院に限らず人を殺したりするようなやばい人間というのはこの世の中には一定数存在していて我々はそのこともよく承知している。
ちなみに日本国内の最近の殺人被害者数は年間400人弱で1990年代の約800人から半分以下に激減している。(人口100万人あたり3人くらいの割合である)

減っているとはいえやばいやつが多いこの世の中で、普通の市民が曲がりなりにも平穏な生活を送れているのは、めいめいが「人を見る目」を働かせて目の前の人間を信頼できる、そのような能力を日々働かせているからこそと思う。(たまに信頼できないやつも出現するが)
そういうことで考えると、目の前の人間を見て信頼できると思えるかは、我々の生活の平穏を保つ上できわめて重要な要素だという気がする。

それは同様に自分自身が他人から見て信頼できる人間に見えるか、という問題でもある。
そんなこんなで、これから鏡を見ながら「信頼されそうな表情」の練習でも始めようかと思っている。
posted by ヤス at 11:26| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年07月10日

汗をかいて水を飲む

わたしは日頃、ドラッグストアで2L入りのペットボトルの水を買って飲む。
毎日まあまあの量を飲んでいると思う。
特に今のような夏場には、よく汗をかくので飲む量が増える。

よく汗をかくのにはそれなりに理由があって、ジョギングをするとか家であまりエアコンをかけないとかいうことで汗腺から吹き出る汗の量が増えている。
マツモトキヨシで買う2Lのペットボトルは値段は70円ほどでたいして高いものではないのだが、それでもよく考えてみると、わざわざ大量の汗をかいてそれを2L当たり約70円のコストを払って補充するのは、なにか無駄なような気がしてきた。

ただ同様に、運動して腹が減って余計にメシを食うとか、あるいは遊び回って散財して、それをいつもより余分に働いて散財分を補填するとかした場合、日本のGDP的には成長方向に向かうことにつながるので、悪いことばかりではないかもしれない。

世の中の人がみんな家でじっとしていると、GDP的に困ることになる。
じっとしているよりは、歩いたり走ったりドライブしたりして、腹を減らし散財して、それを補充するというサイクルを回した方が日本の経済は活性化する。
そうやって考えてみると日本の経済成長は、国民の多くがいかにじっとしていないか、その辺をウロウロして汗をかいているか、いつもより余計に腹を減らしているかということにかかっているのであろう。

最近はガソリンが高い。
ガソリンが高いのでいきおい、車を運転するときになるべく走行距離を減らすことを考えてしまう。
そういうケチ臭いことを考える人間がどれくらいいるかよく知らないが、こうガソリン価格が上昇すると日本全体としての車の走行距離にかなりの影響があることは間違いあるまい。
だが日本経済のためには財布が軽くなるのに臆せず、みんなガンガン走った方がいい。

しかし一方で、人類の活動は地球環境に大きく影響する。
最近はプラスチック製ストローの規制とかが話題になっているが、ストローに限らず、ペットボトルの水をガンガン飲むのだってなにがしか環境に影響があるだろう。
メシをたくさん食えば生態系に影響があり、ガソリンをたくさん燃やせばCO2も排気ガスも出る。
この三段論法をまとめると、人間がガンガン活動すると環境に少なからず負荷がかかるということになる。

人間はじっとしているよりは活動的であった方が精神衛生的に好ましいし、現在の資本主義は成長状態の維持が絶対的な存立条件になっている。
だがそのことが有限な地球環境に大きな負荷をかけている。
そういうことを少し思いながらさきほどコップ一杯の水をぐいと飲み干した。
また2Lのボトルがひとつ空になりそうなので、マツモトキヨシに行かねばと思った。
posted by ヤス at 10:49| Comment(1) | 徒然なるままに

2018年07月09日

リスクの中に住む

塩野七生の著作「ローマ人の物語」に書いていたことで、古代文明都市のローマがテベレ川沿いの「七つの丘」から出来上がったというのをちょっと思い出した。
七つの丘は、文明都市のローマが始まる以前から人が住み始めていたらしいが、都市の成立後はここに神様が祀られたりして象徴的な役割も果たすようになったようである。

ローマの母なる川であるところのテベレ川はぐねぐねといたるところで急なカーブを描きながら地中海に注いでいるわけだが、その蛇行のようすを見るに、たびたび氾濫を起こしてローマ市民を悩ませただろうことが推測される。
この一帯で人が最初に定住を始めたというのが水害の及ばない丘の上だったというのは、そういうテベレ川のリスク対策ということもあったのではないかと勝手に思っている。

人類が猿と違っているポイントはいくつもあると思うが、他の獣などと比べてももっとも違っていることのひとつは「どこにでも住む」ということだと思う。
人類は出身地の暑いところはもちろん、北極圏周辺の極寒の地にも多く分布している。
あるいは現在の日本列島のような、地震や火山活動の盛んな場所でもかまわず住んでいる。
人類が散らばっていった先々で直面するリスクは天候や地質的なもの以外に、ライオンやトラやヒグマやオオカミなどの猛獣類などももちろんある。

人間は技術が進んで、気温の高低に対しては家屋や衣類やエアコンの工夫で乗り切ることができる。
あるいは猛獣などの天敵に対しては、弓矢や鉄砲でいつしか彼らを圧倒できるようになった。
そういうことで、自然状態の人類にくらべると現在の文明下の人類はかなりリスクを少なくして暮らすことができている。

ローマ人も安全な丘の上でずっと暮らしていれば良かったのになあと思ったりするのだけれど、やっぱり文明化が進むうち、川沿いの平地とかにもどんどん建物を建てて生活圏を広げて行く。
たぶんあぶないのは承知の上だ。
そういうリスクのあるところにもどんどん広がって行くのが人類というもののサガであると思う。
というかリスクのない住み場所というのは基本的にはこの世にないので、あんまり気にし過ぎも楽しくないとは思うのだが、その住み場所のリスクのことをいつも頭の片隅に入れて暮らすようにしないといけないのだなあ、と思った。
posted by ヤス at 12:03| Comment(2) | 徒然なるままに