2019年03月25日

NGT事件と48Gの責任体制

アイドルグループNGT48の山口真帆さん暴行事件をめぐる「第三者委員会」の調査報告に関する記者会見が、3月22日金曜日に行われたらしい。
この会見の途中、会見を観ていたのであろう当事者である山口真帆さんがTwitter会見内容に異議を唱える異例の展開になったのはみなさんご承知のとおりである。

またこれも各方面から指摘されていたことであるが「第三者委員会」の報告は調査をした「第三者」の人々によって行われるべきもので、当事者の一方である運営はそれを横で神妙に聞いている、というのが本来の姿だったはずだ。

それがどういうわけか今回は「第三者委員会」の人は会見に一人も出てこなくて、「調査対象」であるはずの運営が調査結果を報告することになったのは変な感じだった。

といって、3時間近く行われたというこの会見をわたしはすべて観たわけではない。
だからその内容について言及することはできないのであるが、しかし今回の事件を眺めているといろいろな疑問が沸き起こってくる。

まず、NGT48の運営組織の責任体制がものすごく分からない。
事件発生後、NGT運営の「支配人」だった人物が交代して今回の会見にも出たちょび髭のおじさん(もとフジテレビの人らしい)が就任した。
(訂正:事実誤認があった、新支配人は左に居た女性でちょび髭のおじさんはAKS取締役だった)
この支配人交代は誰の権限責任において決まったものなのか。
NGT運営組織による自主的決定なのか、さらに上位にある組織または人物からの「天の声」によるものなのかが報道などを見ても分からない。

軽い気持ちで想像するに、48グループでいちばん偉い人であるのだろう「秋元先生」の鶴の一声によるものではないかというのがまず出てくる。
しかしもう少し頭をひねって考えてみると、48グループにおける地方グループというのは、それぞれにスポンサー企業が付いていているからそのスポンサーの意向によるところが大きいのではないかという想像もある。

たぶんこの問題が泥沼化していることの原因には、そのあたりの責任構造のカオスがあるのではないか。

表向きの印象としては、48グループの意思決定の最大権限者は秋元先生であるように見え、それはたぶん実際もほとんどそのとおりなのだろうけれど、しかし一方で地方グループの運営はスポンサー企業の支援に依存していて、そこにはなかなか切り込みづらい状況があるのではないか。

映画スターウォーズのジョージ・ルーカスは映画製作にスポンサーが付いてそのスポンサーから横ヤリが入るのが嫌で、興行収入で「ルーカスフィルム」を設立し続編を作った。(だったと思う)
その辺を考えると拡大路線をひた走った秋元先生は重要な部分でしくじったのではないか、と勘ぐってしまう。

いずれにせよアイドルグループを運営する以上、今後も大小の事件は発生して社会的に取り上げられ、そのたびに運営は対応しないといけない場面というのが発生するのだろう。
その時に今のままの無責任体制が続いているといろんな意味で危うい。

だから今回を機に組織の責任体制の一本化が進めばいいがなとか思う。(かなり難しそうですが)
posted by ヤス at 07:40| Comment(0) | 徒然なるままに

2019年03月24日

マボロシ概念としての「成功」

先日のイチロー選手の引退会見で、「成功という言葉は嫌い」という話が出ていた。
それでやっぱりイチロー選手も成功という言葉が嫌いなんだなあとあらためて思ったわけだが、世の中には成功という言葉が嫌いと語る人はけっこう多い。
ふと思ったのだが、「成功という言葉が嫌いな人」の出現は、まあまあ最近のことのような気がしたのだがどうなのか。
これはまったく個人的想像だが、世の中に自己啓発本みたいなのがわんさか出て来て、それらの中に「成功哲学」について高らかに謳うような内容のものがたくさん出回るようになって、その反作用としての「成功嫌い」が出現したのではないか、などと思うのである。

最初に結論を述べておくと、世間一般で言うところの「成功」という概念はほとんど意味のないものであるに違いない。
それは実際にどこかに存在するような気がするけれど、よく探すとどこにもないものである。

うろ覚えで申し訳ないが、天気予報でいうところの「高気圧の定義」は、単純に「まわりより気圧の高いところ」だったような気がするのだが、「成功」というのは考えてみるとそんな「高気圧」に似た感じがしないでもない。

加えて世間一般で言う「成功」には「ゴール」のニュアンスも含まれていると思われる。
これで人生上がり、すべての努力が報われてやれやれ、これからは一生楽して暮らしていける、暗にそういうイメージを持ってみんな「成功」を語っているのではないか。

しかし実際には、「成功のような状態」に到達した人というのはそれまで以上に失敗しやすい状況にハマっていると言えなくもない。
高い地位を得た人は他愛もない醜聞でその地位を追われる、多くの財を積み上げた人というのは同時に失い得る多くのものを抱えた、と見えるのである。
「成功のような状態」に達した人はエントロピーが高い状態にあって極めて不安定なのである。
それは、実際には「失敗の入り口に立った」というのとほぼ同意だと思う。

このようにかえって失敗のとば口に立つようなハラハラドキドキの状況は、一般的な「成功」の概念がその後の安寧な人生を保証するイメージであるとすると、明らかにそれに反するものだ。
つまり一般庶民が憧れるいわゆる「成功」のイメージは、実はマボロシ概念であったことが分かる。

あえて現実的に「成功」を定義するなら、それは多大の苦労の末に新たな試練に直面すること、それでこの新しい試練にどう対処したものかと思い悩んでいる状態、というくらいになるのだろう。

そしてまた、人生においていわゆる「成功」にいちばん近い状態というのは人生が終わる瞬間、つまり死ぬ時じゃないかと思ったりする。
「死」は森羅万象あらゆる難問を解決し、永遠の安寧を与えてくれるという点でもっとも「成功」に近い。

そういう意味ではあまり「成功」はしたくないものだ。
などということを日頃成功に縁のないおじさんとして、思ったりした。
posted by ヤス at 12:44| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月23日

今後30年間に70%の確率で首都圏地震

政府が設置した「地震調査研究推進本部」という組織があるらしい。
今、その地震本部が作成した今後30年間の「地震動予測地図」というのを眺めている。
日本列島の地図に地震(の揺れ)の発生確率ごとに色が着けられていて、それを見ると関東平野一円から神奈川静岡全域、名古屋、三重、和歌山と来て、四国の徳島南部と高知ほぼ全域くらいの地域が「26%以上の確率で震度6以上が発生」を示す濃い赤紫色になっている。

これを見ると瀬戸内海沿岸地域は比較的色が薄い。
しかしその中で岡山市周辺が少し色が濃くなっていて、かつて阪神淡路大震災があった淡路島や神戸市周辺よりも濃い赤紫になっている。

なかでも首都圏では、今後30年間にマグニチュード7程度の直下型の地震が起こる確率が70%と予想されているらしい。
地震本部ではその場合の被害予測も行なっていて、最悪の場合最大2万3千人の死者、61万棟の建物の全壊・消失が想定されているらしい。

無論上記の予想は「最悪の場合」なので、実際に起こってみたらそうでもなかった、ということになるのかもしれない。
首都圏に林立する高層建築はおそらく日本が世界に誇るゼネコン会社が最高の技術を傾けて建築されているのに違いない。
その設計にあたっては十分な安全率も見積もられているだろう。
地下深く複雑に構築された地下鉄網もあらかじめ入念に準備された安全装置が作動して大した被害もなく維持されるのかもしれない。

だからことさらに「近い将来ほぼ確実に大地震が来る」から心配するのも違うような気がする。

30年内に70%という数字は、たぶんわたしが生きているくらいの間に「ほぼ確実に」地震が起こることを示しているのだと思う。
おそらく普通に生活している一般市民にとって、30年以内に70%と言われてもそれはどこか他人事の話にしか感じられない。
そしてそれは、ある程度仕方のないことであるのに違いない。

ただ地震発生が来週のことなのか30年後のことなのかによって、同じ地震でも影響はかなり変わる。

おそらく首都圏地震で最も大きな影響は経済面に出るのだと思う。
2011年に人口の比較的少ない北関東以北を中心に起きた地震津波被害で、日本経済は一時的に大きく落ち込んだ。
また昨年7月の豪雨災害を受けて、主要被災地域だった広島の呉市や倉敷市真備地区などでは1500人とか2千人とかの単位で人口流出が続いている。
被災地域からの転出は一時的な避難もあるだろうが、この機会に危ない地域から永続的に引っ越す人もたぶんたくさんいる。
同じことが、おそらく近未来に発生する首都圏地震でも桁外れの大規模で起きるのだと思う。

東京の大規模被災で一時的にせよ日本経済は大きく落ち込み、一方で復興のために税金が増額されることになるのかもしれない。
また国内の建設能力を被災地域がブラックホールみたいに吸引して、地方の建設工事はふたたび大規模停滞に陥ることもあるだろう。

まあそういう心配ばかり考えていてもしょうがないのも一方の事実ではある。

ただし、わたしは近所で災害を想定した非難があったとか防災マップの説明会があったとかいう話をまったく聞かないのだが、そんなに心配ばかりする必要もないけれど、「形ばかり」のものでもいいので避難経路を示す動画をCMで流すとか、みんなでワイワイニコニコしながら避難訓練するとかいうことがたまにあってもいいのではないか、そういう「形ばかり」の備えがいざという時に案外役に立ったりするのではないか、などと思ったりしている。
posted by ヤス at 10:59| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月22日

未来はいつでも少し明るく見える

イメージトレーニングのやり方が最近少し変わっているらしい、という話を聞いたのはいつ頃だったか。
我々が学生時代に水泳をしていた頃、つまり30年とか35年とか前の「イメージトレーニング」はまだ言葉自体に目新しさがあって、「お前ぼーっとしてないで練習しろや」と先輩に言われた時にも「俺、今頭の中でイメージトレーニングやってるんで」みたいなジョークを言えるくらいな感じに、イメージトレーニングという単語自体に少し力があった。

スポーツにおける「メンタル」の研究は特に海外を中心に確実に進化していたようで、学生だった我々が冗談でしか活用していなかったイメトレはいつの間にか、ちゃんとした選手なら当たり前に取り組む練習メニューの一項目になっていたらしい。

オリンピック金メダリストの北島康介さんだったか、彼らがやっているイメージトレーニングというのは、レース前の召集所で集中して、開場アナウンスでコールされて入場口から出て行って、ジャージを脱いでスタート台をセットして、「テークユアマークス、バン」で水に飛び込む、みたいな感じで始めるのだと思う。
続いて、理想のフォームで泳いでいる自分をイメージしながら、後半の苦しい場面を乗り切ってゴールタッチし、一番になってガッツポーズをする。
イメトレはそこで終わりではなくて、プールから上がって勝利インタビューを受けて表彰式で日の丸が上がるのを眺めている、くらいのところまでイメージするというのを聞いたことがある。

たぶん今の日本代表選手たちは、みんなそんな感じでイメトレをやっているのだと思う。

これも北島さんだったかコーチだったかが言っていたことで、ゴールタッチまでで終わるイメージトレーニングだと、本番のレースの最後の方でどうしても力が抜けるのだそうだ。
本番の最後の最後まで力を振り絞るには、日頃のイメトレでゴールの少し先までイメージするのが大切なのだ、ということらしい。

それでちょっと思い出したのは、オートバイを低速走行させるときは少し遠くに目線をやれという話だ。
低速のバイクで足元ばかり見ていると余計にフラフラする。
それを数メートル先に目線を固定するとびしっと安定する感じになるのは、あれは何なのだろうか。

昨日劇的な引退試合を行ったイチローはずっと「50歳まで現役を続ける」と言っていた。
彼は少し先の未来に目線を固定することで、結果として今出せる最大限の力を振り絞っていたのかなと思う。

スピードもパワーも要求されるMLBにおける40代50代は、草野球におけるそれとはわけが違う。
それをあの華奢な身体で「50歳まで」って言うのは、周りの人が普通に聞くと、まあ多少の誇張が入っているんだろうと思って当然だと思う。
でもあれはたぶん他人に言っているのではなくてイチローが自分自身に向けて言い聞かせていたことなのだと思った。

まだ実現していない未来というのは、それが明日とか明後日とかの近未来でもよく見えないのは当然だ。
ましてやそれが数年後とか10年後の未来だと、かなりぼやける。
でも人間の性質としてぼやけてしか見えない少し先の未来は、今より多少うすピンクに色がついていて、ちょっと明るい感じに見えるのではないかと思った。

メジャーリーガーが50歳になるというのは絶望以外の何物でもないはずであるのに、それでもなお50歳で現役の未来を思って今の自分を鼓舞するというのは、これはなかなかいい話だなあとあらためて思ったりした。
posted by ヤス at 10:16| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月21日

自由意思の問題

ちっちゃい子供に、「なんでドロボウをしちゃいけないの」とか「なんでヒトゴロシはダメなの」とか訊かれた場合に何と答えるか。
といってもわたしはいまだかつてちっちゃい子供からそんなマセた質問を受けたことはない。
しかしまあもし仮に、たぶん死ぬまでにいちども訊かれることはないかもしれないが、ひとつの想像としてそのような場面を考えてみる。

それで考えられるスタンダードな答えとしては、「法律で決まっているから」とか、「そんなことしたらたくさんの人が悲しむから」とかいうものがあるのかもしれない。

しかしこのような素朴な疑問は、考えれば考えるほどその答え方が難しい。

それでちょっと飛んで結論に行くと、それは「やってはいけない」と最初から決まっているものではない。
だって「やってはいけない」と決めるとして、それは誰が決めるのか。

「法律が決める」という考え方がある。
それは世の中の人の総意で「やってはいけない」と決めましょう、ということだ。
しかし法律でやってはいけないと決めたことなのに、それを破る人々が後を絶たない。
後を絶たないからこそ法律がなんとかかんとか歯止めを掛けて最小限に食い止めている、ともいえる。

法律で「やってはいけない」と決まっているのにドロボウをしたりヒトゴロシをしたりする人が後を絶たないのは、そういうことをする人々の自由意思を止めることは誰にもできないからだ。
その意味において、やってはいけない」ことは実は「やろうと誰でも思えばやれる」ことであることが判明する。

やろうと思えばやれるという意味において、それは「やってはいけない」ことというよりは、「できればやって欲しくない」ことだったことが分かり、一方で本当にやらかす人が時々出現する事実が、現実として目の前にある。

すべては自由意思の問題なのである。

みんながやって欲しくない感じの、ドロボウとかヒトゴロシをやってしまうのもその人の自由意思なら、その同じ自由意思が、場合によってはギリギリのところで犯罪行為回避の選択を取ることだってあるだろう。

たぶん普通の人間は、できれば自分の自由意思で選択をしたくない。
選択には常にリスクがつきまとう。
また何かを選び取るということは、何かを諦めるということでもあるだろう。
感情の絶対値として、選び取るプラスより諦めるマイナスの方がメンタル的に重い。
人間は、決定的な選択を無意識的に回避するものではないだろうか。

だから自分で決めるよりは「法律で決まっている」とか「神様が決めた」とか、誰か自分以外の人が決めてくれた方が気分が楽なのである。
たぶん。

それで結論としては、ちっちゃい子供に「なんでドロボウはいけないの」と訊かれたら、「それはドロボウする前に自分でいろいろ考えて、その考えの結果ドロボウしない方がいいと思うからドロボウしないのだ」と答えるのが真面目な答えであると思った。

本当に、人間の自由意思はいろいろ重いのである。
posted by ヤス at 14:04| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月20日

人は何のために生きるのか

わたしはいつも、むつかしい顔をしてむつかしいことを考えている。
例えば1行前に書いた「むつかしい」は、ほんとうは「むずかしい」じゃないのかとか。
なんとなく思いつきで「むつかしい」と書いてみたのだが、これはどっちがほんとうなのか。
ネットで調べてみると、古くは「むつかしい」をずっと使っていたという。
それが江戸時代に「むづかしい」と変わり、今日に至って「むずかしい」となったらしい。
「むづかしい」と濁音化するのは関東訛りで、関西では清音、関東では濁音という傾向があるらしい。

というようなことはどうでもいい。

最近考えているむつかしいこと(今日は関西風の清音でいってみる)というのは、例えば「人は何のために生きるのか」とかいうことである。
しかしこの問題については、わたしの中ではすでに結論は出ていて「人は何かするために生まれてきたわけではない」ということだ。
人はただ、たまたま生まれてきたから生きているのに過ぎないということである。
もっと言えば、たまたま生まれてきて、下手をすると死ぬからがんばって生きている。

ときどき「天命」とかいって、「俺はこれをやるために生まれてきたんじゃあなかろうか」みたいな話があるわけであるが、それはもちろんあと付けの理屈である。

人間というのはそもそもメンタル的にもあやふやで、なるべく楽をして生きていたい。
なるべくイージーに「死なない」状態をキープしていたいのが人情だろう。
ほんとうに、「生きる」ということは「死なないようにする」こととまったく同義であるのに間違いない。

多少の語弊を覚悟していうと、おそらく人間、死にかけのときがいちばん生き生きしているような気さえする。

生きた魚を「いけす」に入れたまま飛行機やトラックで長距離輸送する時に、そのままだと長旅のストレスでたくさん死んでしまうという話がある。(ほんとかどうかは知らない)

それで「いけす」に天敵の魚を1匹放り込むと、魚たちは天敵に食べられないように輸送の道中必死に「いけす」の中を逃げ回り、目的地に着いた時にもみんなぴんぴん元気に逃げ回っている。

わたしはこの話がけっこう好きだ。

あえて人間に特権があると考えるなら、「いけす」の魚と違って人間は、そういう自分自身の生きざまをきちんと自覚できることにあるのだろうと思う。
posted by ヤス at 11:36| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月19日

今年の桜開花予想

ちょっと前まであったかくなったな、とか思っていたのに最近なんだか冷える日が多い。
それで、こんなに冷えるんじゃあ桜の開花も遅れたりするのかなと思って調べてみた。

すると株式会社ウェザーマップという「気象予報会社」の開花予想が出てきた。
よくテレビに出ている森田正光などが所属している会社らしい。
そのウェザーマップが推測するところによると、岡山の今年の桜開花は3月27日であるらしい。
気象庁で確認すると岡山の桜開花の平年値は「3月29日」となっている。
であるから今年は平年より2日ほど早いということだ。

こんなに寒いのにいつもより2日早いのか、と少し拍子抜けする気がした。
それで念のために気象庁のサイトで今年3月の気温と平年値を確認した。
すると岡山における今月の気温は、3月1日〜7日頃までは順調に暖かかったようだが8日以降特に最低気温が0℃台に下がったりして(平年の最低気温は3℃以上)、以降今日まで昼間はそこそこ温かいが朝晩冷える感じの天気が続いていることがわかった。

しかし、にもかかわらず桜は平年より2日早く開花するという。
株式会社ウェザーマップでは桜の開花予想にあたって、気温と開花日に関する過去の学術研究を基に、日本全国各地の気温データの推移を統計処理して開花予想を行っているらしいので、まあこの予想はそれなりに当たるのかもしれない。

ちなみに桜の「開花」とは、「標本木」で5〜6輪以上の花が開いた状態をいうらしい。
さらに「満開」は標本木で80%以上のつぼみが開いた状態だそうだ。

さらにちなみに、「標本木」とは、気象庁が指定した観測対象の木であるらしい。
これもネットで調べたところ、岡山の標本木は後楽園の中にあるようだ。
ちゃんと木の根っこの方に「植物季節観測用標本 ソメイヨシノ 岡山地方気象台」と書かれた木製の看板が設置されている写真もネット上で発見することができた。(岡山の標本木は「3本ある」という情報もあった)
今度後楽園に行ったら標本木を見つけてみようかと思う。

しかし世の中には、わざわざ専門の役所としての「気象庁」があったり、また気象予報や気象データの配信や気象予報士の派遣業務を行う会社があったり、「気象予報」というものの存在が意外に大きいのに少し驚く。
まあ大昔ならお天気の行方は農作物のできに影響して、飢え死にするかしないかに関わる重要事項だっただろうし、現代でも桜の開花次第でお花見弁当が売れたり売れなかったり、経済現象にわりかしダイレクトに関係するので、お天気の行方はそれなりに重要なのだろう。

ということで今、3月27日に「桜開花予想」とグーグルカレンダーに記録した。
この予想が当たるかはずれるか、少しだけ楽しみにしておく。
posted by ヤス at 13:25| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月18日

出演者逮捕による「いだてん」視聴率への影響

コカイン使用で逮捕されたピール瀧が出演中だったNHK大河ドラマ「いだてん」の視聴率がニュースになっていた。
「いだてん」のこれまでの視聴率は、

初回(1月6日) 15.4%
第2話 12.0%
第3話 13.2%
第4話 11.6%
第5話 10.2%
第6話 9.9%
第7話 9.5%
第8話 9.3%
第9話 9.7%
第10話(3月10日) 8.7%

だったらしい。
それでピエール瀧が逮捕後の回である第11回3月17日放送分の視聴率は10回目と同じく8.7%だったらしい。
わたしが思ったのは、別に「いだてん」がドラマとしてつまらないとか観ている視聴者のレベルがどうとかいう話ではない。(もちろんわたしは「いだてん」を観たことがないのだ)

数字の推移を見る限りピエール瀧の逮捕がおそらく「いだてん」の視聴率に何の影響も与えていないらしいということを思ったのである。
Twitterとかネットニュースとかではかなりの頻度でピエール瀧逮捕関連のトピックが流れてくる。
それでピエール瀧が出演している映画の放送が取りやめになったとか、電気グルーヴや相方の石野卓球のイベントが中止になったとかいうのが流れてくる。

それで、元東京都知事の舛添さんがいいことを言っていた。
「品行方正な芸人に魅力はない。ピエール瀧、新井浩文だから、常人に不可能な創造ができる。道徳が支配する国に芸術や文化は育たない」
ほんとうに、道徳が支配する国というのはテリー・ギリアムの「未来世紀ブラジル」みたいなもんで悲惨なものだと思う。

いいことついでに書いておくと、「芸術は爆発」の岡本太郎もさすがにいいことを言っている。
「ただひたすら人間的に生きる、それがほんとうの芸術だよ」
もしくは、
「人間即芸術。芸術即人間」
だそうである。

岡本太郎の言葉を借りると、文化とか芸術とかいうものは絵を描いたり彫刻を彫ったりすることがそれではなくて、人間が人間として生きていること、つまり「人間性そのもの」のことなのである。

おそらくピエール瀧は、日々面白いことを創造しないといけないプレッシャーとたたかっていて、そのプレッシャーを薬物の快楽で癒やしていたのだろう。(あくまで想像ですが)
それは確かにかなり退廃的であるが同時にひどく人間的で、わたし的には一刀両断に断罪する気になれない。

それはともかく、ピエール瀧が出ていた「いだてん」の視聴率は彼の逮捕によって影響を受けなかったというのはいったいどういうことなのだろう。

大河ドラマを観ている人々はピエール瀧の存在とか、少なくとも観ている最中は全然意識してなかったのだろう。
ニュースとかの騒ぎと、「世の中」(少なくとも大河視聴者の方々)の無関心ぷりのコントラストが、なんだかとても面白いと思ったのだった。
posted by ヤス at 13:41| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月17日

食べ残しは本能の問題

昔の記憶である。
26、7年も前の話であるが比較的はっきり憶えている。
当時「まちおこし」関係の仕事をする会社に所属していたわたしは、島根の山奥にできた小洒落たレストランに会社の人と4、5人連れで行ったことがあった。
島根の山奥の町役場の人と打ち合わせをしていて、今度「三セク」でレストランを作ったという話を聞いた。
ちゃんと修行した若いシェフが切り盛りしているのでぜひ味見しに行ってくれ、おすすめは地元の和牛を使ったビーフシチューだっていう。

それで教えてもらった「三セク」の小洒落たレストランにみんなで行ったわけである。

役場の人のおすすめ通りみんなしてビーフシチューを頼んだ。
もちろん払いは会社の経費だ。
しかし他のみんなは何口か食べて口々に「いまいちだなあ」とか言っている。
わたしは心の中で「まあいうほど不味くもないんじゃないの」と思いながら眼の前の皿で湯気を立てている肉を食らっていた。
しかし驚いたのは、そのうちみんなビーフシチューを食べるのを止めて「なんか別のものを頼もう」とか言い始めたことだ。

それで結局みんなビーフシチューは食べかけのまま放置して、他のものを食べたのだと思う。
わたしはその時内心非常に驚いたのだ。
眼の前にあるのは、曲がりなりにもそれなりのランクの和牛であって、味付けに多少「焦げ臭さ」が混じっているような気がしないでもなかったが、それなりに柔らかくてちゃんと和牛の脂の味もしていたと思う。
また多少不味くとも、栄養摂取という食事の機能面における役割を考えたとき、目の前のやや不味いかもしれないビーフシチューを完食することに十分な意味はある。

ビーフシチューを平然と食べ残せるみんなのメンタルの強さに、ほんとうに驚いた。

わたしは、とにかく目の前に食べ物があったら可食部分は残らず食べる。
茶碗に付いた飯粒、汁椀の底に残った直径1cmの残留汁などが目に入ると、動くものに何でも飛びつくカエルみたいに反射的に果敢に食べに行く。
それは本能に根ざした何かがそうさせているような、自分ではどうしようもない内的衝動によるものだ。
時々、これはちょっと病的かもしれない、とか思うことさえある。

その一方でファミレスとかでちょいと隣の席に目をやると、ほとんど半分以上も食べ残したまま食事を終える人々をたまに見かけて、気の小さいわたしはそのたびに血の気が引く思いがする。

今度国会に「食品ロス削減法案」が提出されるそうで、国民一人あたり年間51kgにものぼるとされるまだ食べられる食品の廃棄を、国連目標に従い半減させることを目指すらしい。

しかし食品ロスの問題は、これはいろいろな意味で「本能に根ざした衝動」が原因であると思う。

恵方巻きやコンビニ弁当の廃棄が減らないのは、これはコンビニという営利組織の本能がそうさせているのである。
だから法律の方も営利組織の本能に作用する対策を打たない限り効果はないだろう。

そして食べる個人の方に目を向けると、美味いものと不味いものが両方眼の前にあったら、不味いものを食べ残してでも美味いものを食べたいと思うのは現代人の「サガ」だろうと思う。
それは人間の情動の問題であって、これを法律で制御するのもけっこうたいへんだと思うのである。

その削減法案に、そういう「本能」に訴えるみたいな視点が入っていればいいがなあ、とちょっと思ったりしたのだった。
posted by ヤス at 13:10| Comment(2) | 徒然なるままに

2019年03月16日

最近の物欲状況について

私ごとですが、最近カメラを買っていない。
もともと貧乏で欲しくても買えない、ということもあるが、しかしそれ以上に「物欲が疼(うず)かない」ことが大きいように思う。

そんな風にくたびれる一方のわたしを尻目に、最近デジタルカメラ業界が活気付いていている。
昨年下旬に一眼レフ業界の二大巨頭であるニコン、キャノンがあいついで「フルサイズ」ミラーレスカメラを発売したことが発端である。
続いてマイクロフォーサーズ陣営のパナソニックも、ライカLマウントのフルサイズミラーレスを発売するに及んで、「ミラーレス」「フルサイズ」をキーワードとする業界戦国時代の火蓋が切られた感がある。

特に、ついこのあいだの3月14日かから販売が開始された軽量フルサイズミラーレスのキャノンEOS RPは岡山のビックカメラにも現物が置いてある。
売り場の棚に鎮座していたRPを触った感じでは、バッテリーやメモリーカード込み485gの軽量ボディは想像以上に軽く、そして小さかった。
値段はAmazonだと現在15.6万円だ。
「驚くほど安い」ということに、業界的にはなっている。
しかしわたしは驚かないし安いとも思わない。
15.6万円は十分に高価な買い物だ。

だいたいうちには年代物の、たぶん2008年発売だったはずのNikon D700がある。
シャッタスピード8千分の1、常用最高感度ISO6400、フルサイズ1200万画素センサー搭載のこの老齢マシンは、バッテリーグリップを付けっぱにしてあることもあって大きく重い。(グリップ込みで重量1キロ以上ある)

しかし上記のスペック数値は現状でも実用にあたってなんの支障もない。
というかD700は重いので最近はほとんど持って出ない。
持って出るのはもっぱら2013年発売のオリンパスE−P5、全備重量420gだ。
E-P5は動画も撮れるし8千分の1秒も切れるし何より軽くて小さくて年寄りに優しい。

そういうことでわたしとしては、古い手持ちのカメラで現在の需要は十分にまかなわれており、最新のフルサイズミラーレスに今ひとつ物欲が傾かないでいる。
ただそのような、「今ひとつ物欲が湧かないなあ」という感情は他の多くの人が抱えているのではないか、と勝手に思ったりする。
今やデジタルカメラは完成の域に達し切っており、多少新技術が搭載されても以前ほどのありがたみを感じない。
5年前や10年前のカメラでも十分な写真が撮れて余りある

むしろ現在はカメラの機械技術によるのではなくて、人間の側の感性や撮影時におけるシャッターを切る野生の感とか、そっちの方が出来上がった写真に大きく影響する時代になっていると思う。
技術革新が一段落してふたたび人間の「腕」が問われる時代が蘇ったのだと考える。

そしてそういう人間の腕が問われる時代には、カメラボディよりレンズが欲しくなるものなのである。
その点、最近のフルサイズ用レンズは「バカ」がふたつみっつ頭に付くほどにバカ高い。
さらにレンズのドンガラも大きくて重い。
これじゃあせっかく最新ボディが画期的に小型化してもあまり意味がない。

そんなこんなでわたしが今唯一物欲をくすぐられているのは「M.ZUIKO DIGITAL ED 30mm F3.5 Macro」、ちっちゃくてイカしたマクロレンズ、ぐっと近づいてボヨヨーンと大きく撮れるレンズだ。
値段も今の世の中ではかなりリーズナブル、Amazonにて28,180円。
誰か親切な人が買ってプレゼントしてくれないかなあ、とか思う。
(色はブラックでお願いします)
posted by ヤス at 11:43| Comment(2) | 徒然なるままに