2018年09月26日

「新潮45」休刊のニュース

「新潮45」が休刊したらしい。
「新潮45」は、最近は部数が低迷していて、日本雑誌協会発表のデータを見るといちばん最近は16,800部になっている。
同じ期間のデータで月刊の「文藝春秋」371,333部は別格としても、同じく2万部前後の低迷組の「中央公論」や「VOICE」なんかと比べてももう一段少ない。

「新潮45」の今回の騒動は、背景に部数低迷があったことは想像に難くない。
部数が減ったので確実な固定客層がつかめそうな「ネトウヨ方向」に大きく舵を切ったのだろう。
それが杉田水脈論文であり、10月号の小川榮太郎などの杉田擁護論文の掲載につながったものと思われる。

「新潮45」の10月号は、何なら買って読んでもいいかと思って本屋を数件覗いてみたが、もはやどこにも10月号は置いてない。
全国の本屋の中には「新潮45」の差別的な編集に抗議して「新潮45」を置かない、もしくは新潮社の本を棚から撤去するとかいうところもあったらしい。
しかしわたしが巡った本屋に「新潮45」が置いてなかった件に関しては、単なる売り切れであったと思われる。

そういう意味では「新潮45」のネトウヨ路線は功を奏したわけであるが、今度は本体の新潮社の書籍が売れなくなるという副作用が生じた、もしくは生じる恐れがある、ということになったのだろう。
だから今回の休刊は、差別的論文に対する批判への反省として休刊したのではなく、多分に販売数量に関する経営的判断に基づくものだろう、という感じがする。

そして8月号の杉田論文から始まった今回の「新潮45」を巡る騒動は、ほぼ確信犯的な炎上事件であったということだ。
そして国会議員の杉田水脈も、「文芸評論家」を名乗る小川榮太郎もまあまあ有名になることはできた。

しかし理不尽な言説で炎上してとりあえず有名になるというのはなんともやりきれない感じがする。
だから小川榮太郎が展開するネトウヨ的論法のあくどさは指摘しておかないといけない。

小川榮太郎が論理展開の土台にしているのは、西欧的人権思想もLGBTの医学的な定義も絶対的に正しいものではない、と否定してみせる部分にある。
これはネトウヨ的思想の基本論法でもある。
絶対的に正しいのか、と問われれば「絶対」ではないと言わざるを得ない。

その部分をわずかな取っ掛かりとして、ホモ・サピエンスの数万年の歴史とか日本における性的文化の伝統などを引き合いに出して「過度な人権擁護」に警鐘を鳴らすというのが小川榮太郎の論法らしい。
それなら小川榮太郎の言う人類の歴史や日本の伝統の言説は絶対に正しいのかよ、と突っ込みたくなる。
それでそう突っ込まれると、もちろん自分の言説も絶対正しいとは言わない、だから大いに議論を戦わせましょうということにする。
そして議論の結論が出るまではLGBT擁護のための法改正は実施すべきでない、とか言う。

ところが現代日本は西欧流の人権主義とか立憲主義を「仮説的前提」として国家を運営している。
小川榮太郎は、実際にLGBTの人々が苦しんでいるからと言って「軽率に」法律をいじるべきでないと主張する。
しかしいかに「仮説的」とはいえ、人権主義は現代日本のスタンダードなのである。
自分たちのアホみたいな主張を通したいならまずネトウヨ思想を日本のスタンダードにしてから言えよ、と思う。
と思ったら、こういう人々は本当にそれをスタンダードにしようとせっせと活動をしているらしい。

ただこういう言説に少なくない日本人が賛意を持っている。
そしてこういう言説の載った雑誌類をせっせと買っている。

日本は何百万人もが死んだ70年前の戦争を経て、ヨーロッパ人の考えた人権思想を取り入れた民主主義国家をつくってきた。
少なくともこの70年、本家の欧米に多少遅れ遅れとは言え人権主義を深めてきたはずなのである。
それをアホみたいな屁理屈で簡単にひっくり返そうとするのはどうにも我慢がならない。

実際に苦しんでいる人、権利を侵害されている人がいて、それが法律をひとつ変えることでたくさん救えるのなら躊躇せずに法律を変えるべきだろう。
それを人権思想が絶対的に正しいとは限らないから結論が出るまでよく考えるべき、とか言うのはただの嫌がらせ以外の何物でもない。

そういう嫌がらせにはほんとうに腹がたつ。
posted by ヤス at 07:16| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年09月25日

折りたたみ傘について

最近よく雨が降る。
ただ秋口に雨が降るのは毎度のことで、平年降水量の数字を見ると9月の下旬は9月前半や8月後半に比べると、おおよそ倍くらいの雨が降るようである。

それで雨の中を歩くには傘をさす必要がある。
世の中には少々の雨で傘をさすのは面倒臭いというタイプの人もいるようだが、しかし長時間雨に降られる場合、傘はあった方がいい。

というか、わたし自身、かつてはあんまり傘をささないタイプの人間だった。
移動が基本クルマで、クルマを降りて駐車場から目的の建物までダッシュすればよい、と考えれば傘は無くてもなんとかなる。
しかしこの数年はなるべく徒歩移動を心がけるようになり、長時間雨中に晒されることもある。
また1時間ほどと予想される徒歩移動の途中、30分過ぎたところで突然雨が降り出すと後半30分は傘がないとやばい。

だから徒歩移動を継続するうちに、自然と天気予報に注意が向き、また折りたたみ傘を常時カバンに忍ばせるようになった。

傘というのは、駅の忘れ物の代表選手に選ばれるくらい、雨が降っていないとそのありがたみをあまり感じない。
しかしいったん歩いている最中に突然の雨に襲われると、持ってて良かったと心から思う。
そういうもんである。

だから6月の梅雨の時期とか、最近の秋雨の時期とかには傘のありがたみをたびたび感じることになる。
傘には折りたたみでない、ちゃんとした普通の傘もあるけれど、突然の雨に備えてカバンに忍ばせるためには折りたたみであることはもはや必須の要素である。

常にカバンに忍ばせる傘、ということでいうと、その折りたたみ傘はなるべく軽量な方が嬉しい。
わたしは最近まで、この軽量タイプの折りたたみ傘を多用していた。
そういう軽量傘は重量が150gとかとにかく軽い。
しかし骨の本数が5本骨とか少なくて、展開時の直径が90cm以下とか小さいのもやむを得ない。

また頑丈性にもやや問題があって、ちょっと使っているうちにポキっとどこかが折れたりして、あまり長くは使えない。

ことに今年は台風の襲来が激しく、暴風雨の中何回か傘をさして歩いた。
そうすると軽量タイプの折りたたみ傘は、そもそも強風の中では正常な形を維持できないことが多いという問題にも突き当たった。
それで今年は思い切って、8本骨タイプでかつ展開時直径が118cm、普通の傘よりも大きいんじゃないかという折りたたみ傘を大枚3千円で購入した。
この傘は重量が380gほどもあり、そこそこ重いが少々の強風にはビクともしない頑健さを持っている。
また直径が大きいことの快適さは何物にも代えがたい。
展開時大直径は、やはり傘としての本質なのである。

購入比較対象には、12本骨の超頑丈傘550gとか、直径130cmのギネス級大直径傘とかもあった。
検索してみると最近の傘の世界にはそういうヘビー級の猛者がたくさんいて驚いたりもした。
世の中にはほんとうに多くの種類の傘が売られている。
東急ハンズの傘コーナーとか、いろんなのが置いてあって見ているだけで楽しい。

今回はそういうヘビー級は回避した。
やや中途半端な商品選択になったと言われるのかもしれないけれど、当面これで行く。
そして今後はより一層、傘に関する知見を蓄積していきたい。
posted by ヤス at 08:42| Comment(3) | 徒然なるままに

2018年09月24日

手書き文字のストレス

最近は手で文字を書く、ということがめっきり少なくなった。
だが少なくなったとはいうものの、完全になくなったわけでもない。
クロネコヤマトに荷物を持って行って送り先の宛名を書くときとかは手で書く。
と思っていたら最近は「自宅で送り状発行」とかいうサービスができて、手で書かなくても良くなった。
これで世界から「手書き物件」がひとつ減ってやれやれである。

日常的にキーボードを叩いていると手にペンを持って文字を書くというのがものすごく億劫になる。
まだ紙切れに汚い字でメモをさらさら書く分にはいいのだが、他人が見てちゃんと読めるように書かないといけない物件に関しては、非常に神経がすり減る。
わたしは人からたまに「味のある字ですね」と言われるくらいの悪筆なので、解読可能な文字を書くのはなかなかに体力を消耗するのである。

だから手紙やハガキを出すときも中身も宛名書きも全部「パソコン文字」である。
どっかからFAXが入ってきて「必要事項記入の上返信お願いします」となったらFAX画像にパソコンで文字を打ち込んで返信する。

特に行政関係はやたらと「手書き要請」が多い。
仕事の関係で役所から送られて来る書類は、妙なことに数年前からかなり電子化されて来てはいたのである。
登録してあるわたしのメールアドレス宛にWord書類が添付で送られてきて、そのWord書類にパソコンで字を打ってメールで返す、というパターンがかなり増えていた。
それでもやっぱり「押印の上返信願います」というのはなかなか無くならなかった。
しかし最近はかなり「押印の上」も減って、たぶん押印の必要な書類をなるべく減らす工夫をしているのかなと思っていた。

ところが何かの拍子で、忘れた頃に大量の手書きの必要な書類が送られて来たりするのである。
今までの「電子化の雰囲気」は何だったのだろうと思う。

これはたぶん、セキュリティ管理の問題とか原因はいろいろあるのかもしれない。
あるいは、最近は自衛隊日報とか財務省のメモとか「電子データ」をめぐってゴタゴタがあって、その「対策」として一旦手書き文書に回帰してみました、ということなのかと疑いたくもなる。

本来、情報の電子化という技術の恩恵をもっともたくさん受けるはずである行政文書の世界において、このような退化現象が垣間見えるのは、おそらく行政組織というものが生産性の如何を問わず倒産しない、ということにその原因があるのは言うまでもないだろう。

この手書き書類は、各地から返送された後どういう管理がなされるのか。
おそらくこの文書を役所のデータベースに入力するための派遣の事務員とかが雇われて、その事務員がせっせとパソコンのキーボードを叩くのだろうか。
それとももはやそんなことはやらなくて、ただ紙の束としてでっかいキャビネットかなんかに格納されておしまい、なのだろうか。

そういうことを想像すると、これはもはや新手のテロであると思えなくもない。
この手書き文書のストレスのおかげで、わたしの体重は30グラムくらい減ったのではないかと思う。
posted by ヤス at 11:45| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年09月23日

運転マナーと景気

少し前に岡山県のドライバーはウィンカーを出さないというのがニュースになっていた。
岡山のクルマはマナーが悪いという話は時々聞く。
これって本当だろうか。
岡山県以外の土地でも、あっちこっち走っている時に危ないなあとかマナーが悪いなと思うことはままある。
どこの都道府県でも、やたらスピードを出しているやつとか周りを見ずに運転している人とか、フラフラ挙動不審の動きをしている高齢者ドライバーとかはいる。

特にわたしのような田舎者は、たまに深夜の大阪市内とかを走ると左端の車線にびっしりタクシーが停まっていて、それがたまに急に動き出したりするのでともて走りにくくて怖い。
あるいは立派な新しい幹線国道では、高速道路並みに車の流れが恐ろしく速くて、中には時速150kmも出ているんじゃないかというようなのにびゅんびゅん抜かれてやっぱり怖い。

だから岡山だけが悪いんじゃなくて、日本国内はどこに行っても似たり寄ったりなのではないかと思う。

それで思い出したのだが、26年前に中国に旅行した時、その当時は中国はまだまだ「発展途上国」の雰囲気が濃厚で、北京市内とかはちょうど大きいビルが次々に建っている頃だった。
その中国旅行で、何回もタクシーや観光バス(といっても普通のワンボックス車とか)や路線バスにも乗った。
ところがそのタクシーやバスは例外なくどれも運転が荒かった。
まず基本的に可能な限りスピードを出そうとする。
これは限られた時間でたくさん走って利潤を追求しようとする資本主義的考えによるものなのか、それとも単に運転手が飛ばしたいだけなのかはよく分からない。

自転車やクルマで溢れる街中でも、道が未舗装の穴だらけの山道だろうが、お構いなしにみんな飛ばしていた。
また車線変更や右左折における挙動の基本は「早い者勝ち」で、少しぼーっとして前に隙間ができるとすぐ他の車が割り込んでくる。
こういう話は、東南アジアとかインドとかでも同じようなことを噂に聞く。

最近は中国も経済発展して、道が良くなり信号とかも整備され取り締まりも強化されて少し違っているのかもしれない。

日本の交通事情は、例えば法定制限速度とか実際の平均走行速度は世界的にはかなり遅い方らしい。
その代わり日本は国土が狭いせいもあるのだろうか、道も狭くて他の先進国と比べると歩行者と自動車の混合交通になっている道が多くて、それが運転しにくさの一因になっているらしい。

それと警察の統計で人口10万人あたりの交通事故死者数推移を見ると、1960年代後半から70年代頭にかけて死ぬ人の割合が高くなっている。
その後オイルショック時期に急に下がっている。
そして次のピークは1990年前後のバブル期で、そこから以降は死亡率の数字は一貫してずっと下がり続けている。
このデータを見ると重大事故の発生確率は明らかに世の中の景気に比例しているようだ。

つまり運転マナーの悪さは、ある程度世の中の景気に左右されているということがあるのかもしれない。
そしてマナーの悪い岡山は実はその分景気がいいということなのかもしれない、とか思ったがまあ違うような気もする。
posted by ヤス at 10:27| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年09月22日

日本人な人について

映画007シリーズの次回作監督に、日系アメリカ人の若手が抜擢されたというのが流れていた。
この報道に違和感を覚えた人は案外多いのではないか。
しかし違和感の中身がすぐに説明できない。
だから少し腕を組んで考えてみた。

ひとつの例として「アメリカ出身の日本人若手映画監督が次回007をやる」のが、アメリカでニュースになりうるかどうか想像した。

たぶんニュースにならない。
少なくとも「アメリカ出身の人」がよその国で活躍することにアメリカでニュースバリューが付くかどうかと言えば、付かないだろう。

しかし、日本においては日本出身者が外国で活躍することにニュースバリューが付く。
これはつまり多くの日本人が「日本出身者(というか括弧付きの「日本人」)」の活躍に注目していることの表れなのだろう。
こういうことの根っこには「単一の日本民族」の感覚があるのだろう。

日本列島で育まれた日本民族という単一のDNAが、外国という大海原に進出する感じ。
こういう感じは多民族国家のアメリカ人とかでは決して感じないだろう。

多民族のアメリカでは「アメリカ民族」みたいなことは言わない。
民族意識は、長年にわたって大規模な民族移動に晒されず「血の交流」が少なかった国家に特有の話である。(ほんとうはそうでもないと思うが)

カズオ・イシグロの時もそうだったが、日本国籍ではないけれど「日本人な人」を応援したくなる風潮が多くの日本大衆にはあるらしい。
逆に最近の、日本国籍ではあるけれど「日本人」的ではない「ハーフ」(ダブルとも言うらしい)の方々の活躍とかに見られる、かすかなとまどいの感じというのもあったりする。

「日本人」の感覚をめぐるそういう些細なぎくしゃくが生じるのは、長年外国を知らずに生きてきた日本大衆にとってはある程度仕方のない話なのかもしれない。
いちいちよその多民族国家と比べてあれこれ文句をつけるのは筋違いかもしれない。

普通の「日本人」にとって、よその国で「日本人ぽい人」が活躍していると同胞意識を感じて少し嬉しくなるのは、まあしょうがない。

無意識の感情部分でそう感じてしまうのはしょうがないけれど、ただ、理性の部分では「日本人」という単一民族の概念がほんとうはかなり幻であることは、そろそろ自覚しといた方がいい気がする。
そして実際に現代日本では国際結婚とかも増えて、少しずつ従来の「日本人」の感覚が変化していっているのを、感情的に違和感があるのはしょうがないにしても、理性の力で少しづつ受け入れた方がいい、そういう気がする。
posted by ヤス at 09:39| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年09月21日

即断即決と早とちりの境目

この間、確か9月17日の日にプロ将棋の叡王戦予選があって、例の藤井聡太七段が登場した。
この日藤井七段の対局は2局あって、1局目の小林七段戦で勝ちあがった藤井七段は続いて千葉七段戦に臨んでここでも勝った。
藤井七段は、直前の対局でプロ入り以来2度目の連敗を喫していたということで、この日1局目は初の3連敗か、連敗脱出か、が掛かっていたのだが、こともなげに勝って見せたわけだ。

いや「こともなげに」と書いたけれど、わたしは将棋は駒の動かし方くらいしか分からないので詳しく事態は飲み込めていないのだが、この日の対局はどちらも逆転将棋で、特に1局目の小林七段戦は終盤絶体絶命に陥いる大ピンチだった。
後でYouTubeで確認してそのことを知った。

叡王戦予選は持ち時間各1時間で、1局目で先に時間を使い果たしたのは藤井七段の方。
相手の小林七段は「早指し」の気風で知られる人で、この日も自分の強みを活かして優位の状況で終盤戦に突入した。
ニコニコ動画の中継では、AIが現在の盤面を判断してどっちが有利か「評価値」というのを出す。
対局終盤のある瞬間、AIの評価値差は小林七段絶対有利の3000点超えになった。
しかしある一手をきっかけに数手をかけて評価値がいつの間にかひっくり返り、あっという間に形成逆転して小林七段が投了して藤井七段の勝利。

この対局録画を観ていて思ったのは、小林七段は持ち時間を減らさないように、けっこうパッパッと手を動かしていたのに対し、藤井七段は1分将棋の時間をギリギリまで使って考えていた。
こうなると、時間を数分余らせている小林七段の方が数秒考えるだけで指して、藤井七段は57秒とか58秒とか使って指しているのでその分考える時間は長い。
そういう不思議な逆転現象が起きていて、たぶんそれが災いして、小林七段は藤井七段の逆転技に掛かって負けた。

それで思ったのだけれど、人生には「早とちり」して失敗することがたびたびある。
大きい早とちりから小さい早とちりまでいろいろあるわけだが、一方で、「即断即決」でものごとが上手く運ぶこともたまにあったりする。

上手くいったら「即断即決」で失敗したら「早とちり」。
両者の差はどこらあたりにあるのだろうかと思う。

上の将棋の話でいうと、小林七段のは「早とちり」だったのか。
「即断即決」と「早とちり」の境目というのは、たぶんはっきり一本の境界線が引けるのではなくて、ぼんやりとしたグラデーションになっているのかもしれない。
小林七段だってプロ棋士になるまで、プロ昇格以降の20年間、そしてこの日の対局に向けてと各段階で膨大な努力を積み重ねて来たはずである。
その末の一手が「早とちり」だった、というのは違う気がする。

あるいは情報も十分な準備もない中で「即決」を迫られることも人生では多いわけで、そういう場合は「早とちり」確率がぐっと上がるのだろうか。

ただそういう場合でも、少ない材料を元にお腹にぐっと力を入れて、その瞬間の中で最大限の胆力を吐出して決めることを決めるべきなのだろう。
だから決断の瞬間のお腹の力の入れ具合が「即断即決」と「早とちり」の差なのかな、と今は思ったりしている。
posted by ヤス at 09:18| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年09月20日

新潮45の右旋回など

最近何かと「新潮45」という雑誌をめぐるニュースが巷に流れている。
きっかけは例のLGBTの「生産性」をめぐる政治家の投稿であった。

「新潮」と言えば、うちにもいろんな作家の新潮文庫が何冊も買って置いてある。
買ってあるだけではなくてもちろんそれなりに読みもした。
文庫本でいうと文春文庫も講談社文庫もハヤカワもカドカワも、それぞれけっこうたくさんうちにあると思うが、しかし文庫本でいうと新潮文庫がたぶんいちばんたくさん置いてある。

かように、わたしにとっては文庫本といえば新潮文庫なのである。
しかしこのたびその新潮社が発行する雑誌が、急速なネトウヨ化の様態を示している。
ネトウヨ化するのは、そちらの方が売れるからだろう。

ネトウヨの対極にはパヨクがいるのだろう。
だいたい雑誌でも新聞でも、最近はネトウヨ化する事例はよく見かけるがパヨク化するというのはあまり聞かない。
これは、左派系論壇というのはそれなりに昔から脈々と続いているのがたくさんあって、したがって言論的に従来中央付近にいた雑誌の旋回方向としては、左旋回するより右旋回した方がよりインパクトが強い、ということなのではないかと勝手に推測している。

わたしは、言論とか論壇とかいうものの基本的な有り様として、サイエンティフィックであること、論理的で科学的であることは最低限確保されているべきではないかと思っている。
ただなんとなく、自分の脳内に浮かんだ心地よい想像に適当に装飾を施して、つまり文章を論文ぽくして、自説を補強する「科学的データのようなもの」を適当にあちこちからつまんできてそれを文章の上にパラパラと振り撒いて一丁上がりとする、そういう文章が論壇誌に立派な論文として投稿されているというのは、これはどういうことなのかと思う。

論壇誌がネトウヨ化するというのは、論壇誌が思索的努力の積み重ねのない文章で埋められるということで、つまり論壇誌ではなくなるということだろう。

小川榮太郎という人がいるそうで、年齢はわたしとたいして違わない。
その人が「新潮45」に論文を投稿したのが世間を騒がせている。


「満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深ろう。再犯を重ねるのはそれが制御不可能な脳由来の症状だという事を意味する。彼らの触る権利を社会は保障すべきでないのか」


この文章は「例えばの極論」として、LGBT擁護への反論の文脈で書かれたもので、小川氏的に必ずしも痴漢犯罪を容認すべきという主張ではないものと想像される。
しかし「例えば」の話としては、これは理屈がかなり飛びすぎていて、ちょっとこの文章の前後の理解も難しい。

たぶんこれは一種の炎上商法である。
「痴漢を容認しろというのか」という批判が来たら「そんなことは言っていない文章をちゃんと全部読め」というパターンのやつなのだろう。
なんだかもういろいろ品がない。

ただツイッターの新潮社公式アカウントが「新潮45」を激しく批判しているらしい。
そこはさすが新潮文庫の新潮社だ。
しかし、最近の世の中はほんとうにいろいろと難しいのである。
posted by ヤス at 08:17| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年09月19日

総裁選後の予想(改憲と消費税)

明日は自民党の総裁選の投票があるらしい。
やる前から早々と結論が出ている、というのが大方の見方のようであるのだが、いろんな報道を見ている限りまあたぶんそうなのだろうと思う。
それで安倍さんの3選目がほぼ決定ということで、その場合の日本の今後3年間がどうなるのかを少々考えようかと思った。

まず安倍さんはいよいよ悲願の憲法改正に向けて具体的に動き出すらしい。
それで憲法の改憲原案がもうすぐ出るらしいという報道もあるわけであるが、公明党や維新やその他の改憲派議員などに対する根回しなどもやりながら、来年早々に原案が出てきて予算審議終了後の2019年4月頃から改憲案の審議がいよいよ始まる。(かもしれない)
それでなんやかや審議が半年くらいあって、来年の夏の終わりか秋口くらいに国会可決される。(かもしれない)
改憲案は国会可決されると、来るべき国民投票に向けて周知期間が取られるらしい。
その期間は最短2ヶ月、最長半年である。
そうなると憲法改正の国民投票は、いちばん早いタイミングで来年2019年の12月頃、少し時間がかかると2020年の4月頃とかになる。

ネックになる可能性のあった衆議院任期も、2017年10月に済ませているので、総選挙をするにしても最大4年後の2021年10月まで引っ張ることができるのは好都合である。(たぶん前回選挙はそこを計ったタイミングでやった)

それで問題になるのが消費税である。
現在の予定では2019年10月1日より現在8%の消費税率が10%になることが決まっている。
今回ばかりは必ず上げる、というようなことを財務大臣の麻生さんも再三言っている。
いちおう安倍さんも必ず上げます、みたいなことをどこかで言っていたような気がする。

しかし本当に上げるのだろうか。
わたしは、あまり大した根拠はないが、憲法改正と消費増税は、どっちかをやるならどっちかはやらない、政治的にそういう位置関係に置かれているもののような気がする。
今回の安倍さんは憲法改正が悲願である。
衆議院の総選挙も自民党総裁の任期延長もすべては憲法改正に向けた布石であった。(と思う)
改憲案を国会で通すのは、相手が顔も名前も分かっている国会議員なので比較的話が読みやすいのだろう。

しかし国民投票はどうだろうか。
せっかく改憲案が国会を通っても国民投票で否決されたんじゃあ、悔やんでも悔やみきれない。
おそらくそういう話になる。

だから改憲案が国会に上がったとしたら、その時点で消費増税はもうない、と思って良いのではないか。
そういう気がする。

それでは、もしいろいろ根回しが不調に終わって2021年の総裁任期までに改憲ができない、となったらどうなるのか。

そうなったら消費税は上がるのかもしれない。
まあそれはそれで良い。(軽減税率は考え直して欲しい)

そして自民党総裁任期がもうワンチャン伸びる。
そんな気がする。
まあ大した根拠はないが。
posted by ヤス at 07:39| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年09月18日

バイクは変態の乗り物である

最近バイクに乗っている。
といってももう1年半前からのことである。
その前にも10年くらい前に、知り合いからもらったバイクに1年くらい乗っていた時期があった。
さらにその前は、免許を取ったすぐ後10年間くらい乗っていた。

そういうことでわりかし久しぶりにバイク乗っているわけであるが、バイクというのは運転していると気持ちいい。
逆に言うと、たいへんに気持ちいいからバイクに乗るわけである。
この気持ち良さがないと、バイクというのは夏はひたすら暑く冬は凍るほど寒いだけの、つらい乗り物である。

それでその気持ち良さの中身についていろいろ考えてみた。
最近思うのは、バイクを股にはさんで走っている時の、その「感じ」にまつわる気持ち良さである。

これはバイクに乗る人なら分かる感覚ではなかろうか。
バイクに乗らない人から見ると、タイヤが二つしかなくて、フラフラしていつ倒れるか分からなくてなんだか怖そう、とか言う人もいる。
たしかにバイクはフラフラする。
少し気を抜くと立ちごけしたりする。

しかし同時にバイクというのは意外にフラフラしてくれなかったりする。
倒れて欲しい時にガシッと直立して思い通りに倒れなかったりするのである。
それはバイクがまっすぐ走っている時で、タイヤの回転によるジャイロ効果やらなんやらで、バイクはかなりしっかり安定している。

そういう時に、バイクのタンクの辺りを股で挟んでいると、タンクを通じて「倒れまい」とするバイクの意思が伝わってくる。
こういう時は、挟んだ股を使って左右にバイクを振り回そうとしても、バイクはそれに頑として抵抗している。
その抵抗が股を通じて伝わってくる。

その抵抗感が、なんだかともて気持ちがいいのである。
ほんの少し変態的な表現になってきたかもしれない。
だが実際のところ、バイクを股にはさんだ時のなんとも言えぬ抵抗感が気持ちいいなあと、最近思ったりする。

しかし一方でバイクというのは、いざコーナリングする時には一転フラっとする。
股に感じていた抵抗がすっと抜ける。
あの、今までガシッとして存在した股の抵抗感がすっと抜ける瞬間もなかなかに気持ち良い。
さらに変態的になって来た。

がしっとした抵抗感をフラっと倒れる感じに転換するには、それなりの操作をバイクに加えるわけであるが、その極意は言葉ではなかなか説明しづらい。
ただそういう極意を駆使する気難しさというのは、可愛いけれど繊細な、そんな女性と対峙する時と同様の緊張感がある。

ひとつ扱いを間違えると血を見るかもしれない。
そんなマゾ的な緊張感があるのも、バイクの気持ち良さの秘密なのだろうと思う。
posted by ヤス at 07:33| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年09月17日

昔の「アトランティスから来た男」を突然思い出した

中学生の頃だったと思うが、アメリカ製テレビドラマの「アトランティスから来た男」というのをNHKでやっていたのをふと思い出した。
わたしは、中学生当時は水泳部だったので夏の間は毎日泳いでいた。
だから当然ながら毎日のように「アトランティスごっこ」をやっていた。
といって「アトランティスごっこ」はただ腕を体の横につけて、ドルフィンキックで潜水するだけのことだったが。

YouTubeで検索してみると「アトランティスから来た男」の、ごく短時間の動画を観ることができる。
例のテーマ曲に合わせて主人公「マーク・ハリス」役のパトリック・ダフィという俳優さんが水中をうねうねとドルフィンキックで泳いでいる。
今あらためて「マーク」のドルフィンキックを見てみると、ちょっと微妙な感じがする。
やっぱり最近のオリンピックに出るような水泳選手のドルフィンキックの水中映像の方が、実際の泳速も速いし、ひざや足首の動きの柔らかさとかを見ても上手であるのは、まあ当たり前である。

わたし的には、このドラマに出てくる潜水艦が好きだった。
球状の船体が4つ繋がっていて、いかにも深く潜れそうな潜水艦だった。
この潜水艦の情報をがんばってネットで調べてみたのだが、何も出てこない。
今にして思うとあの潜水艦、速力とか最大潜航深度とか、動力は原子力か他の未来的な何かなのかとか、その辺の設定はかなりあいまいだったのかもしれない。

ただドラマの中でアトランティスから来た「マーク」が泳ぐのに潜水艦が追いつけない、というシーンがあったと思うので、潜水艦の速力は「マーク」よりは遅かったのだろう。
「マーク」はイルカより速いという設定で、イルカも種類によって泳速がだいぶ違うらしいがいちばん速いシャチが時速80km、船の方式でいくと43ノットくらいの爆速なので、潜水艦が「マーク」に追いつけないのは当たり前である。

ところでアトランティス大陸というのは、紀元前400年頃の人である哲学者プラトンが著書の中で語った伝説の大陸であるらしい。
プラトンの当時からさらに9千年昔の大西洋に謎の大陸があって、そこはポセイドンの末裔が住んでいた。
つまり神様の一族が住んでいて、神様なのでとても優秀で一大文明を築いたのだが、だんだん人間と混血が進んで堕落し、天罰だか何だか知らないが地震と洪水で大西洋の下に沈んだらしい。

だからアトランティス大陸伝説は、ある面人間というもののどうしようもなさを風刺した寓話であるのだろう。

「アトランティスから来た男」の「マーク」は、アトランティス最後の生き残りでとてもピュアな青年ということなのだが、天罰が下るほど堕落したアトランティス人でも、やっぱり現代に生きる人類よりよほど純粋、ということなのかとちょっと思ったりしたけれど、まあどうでもいい話である。
posted by ヤス at 07:57| Comment(2) | 徒然なるままに