2017年06月25日

ポストトゥルース2

昨日ポストトゥルースについて考えたわけであるが、しかし思いがけず明るい結論が出てきたような気がした。
わたしは今までポストトゥルースの意味として、デマゴーグや撹乱情報によって民主的な政治手続きが阻害されたり無実の個人が貶められる可能性について悲観していた。

ネット時代の発展に伴い世の中に流通する情報量が爆発的に拡大し、かつ情報の発信源がこれまでのようなマスメディアからの一方通行だけではなくて個人からも発信されるようになったことで、情報撹乱の可能性が高まって世界は混乱の度合いを深めていくのではないか、そういう不安がこれまではあったような気がする。

しかし少し考えてみると、まあ当然といえば当然であるが、情報量の拡大や発信源の多様化は悪いことばかりではなくいい面もある。

ネット以前の社会では、我々個人レベルで受け取る情報はテレビや新聞、書籍などがせいぜいであり、何かの疑惑やモヤモヤを突き詰めて解消したいと思ったら、個人で一次情報源に直接の取材活動でも行う他なかった。

それが今では、とりあえず情報量だけは短時間でたくさん集めることができる環境が整っている。
自分の目で確かめる、という意味では直接取材には及ばないが、しかしとりあえず新聞やテレビの報道内容について、ネットで二次情報・三次情報を追いかければそれなりの検証はできる。
ネット上に転がっている、当てになるかどうか分からない断片情報を元に想定される真実を自分の中で再構成する論理的思考力と、「見たくないものも直視できる」強靭な精神力さえあれば、我々は20〜30年前より相当に真実に近づくことが可能になっているのではないか。

世の中にはいろんな人が何かの意図を持って、または無自覚的にあまたのフェイクニュースを流し続けているわけであるが、そういうフェイクだらけの現代ではあるがむしろ昔より真実に近いところにいるのだと思う。

ただ、今はまだここ10年くらいの間に起きた技術的な変化にみんなびっくりしていて、身体が環境に慣れていない。
もうあと10年か20年くらいすると、生まれた時からこういう情報環境だった、という世代が社会の中心に位置するようになってちょっとずつ時代が前へ動き出すのではないか。

そうなることを期待して、少しくたびれたおじさん世代も、「頭の中で真実を再構成できる思考力」と、「見たくないものも直視する精神力」を鍛えないといけないなあ、と思った。
posted by ヤス at 10:03| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月24日

ポストトゥルース時代

少し前から「ポストトゥルース=ポスト真実」という言葉がよく聞かれる。
ちょうど一年前のイギリスのEU離脱国民投票や11月のアメリカ大統領選が、ポストトゥルースの概念が広まる大きな契機となったようである。

以下ウィキペディア情報。
「ポスト」は「後に」「次の」の意味があるが、ポストの後に来る言葉が「過去のもの」という意味になり、それから転じて「重要でない」という意味にもなるらしい。


少し説明が難しいけれど、ポストトゥルースという言葉の意味は、ひとつひとつの事柄の嘘のことを指すというよりは、時代全体としての「真実性のなさ」という「時代の状態」を表す概念であるように思われる。

だから「ポストトゥルース」を自分なりに意訳すると、「まともな真実のない時代」ということになるのだろうと思うのである。

しかし考えてみると、いまだかつて人類社会がまともな真実だけで構成されていた時代というのもなかったような気がする。
よく言われるように、歴史は時の権力によって書き換えられる。
だから歴史資料の解読は、誰が何の目的によって記録したかをよく吟味して読み解く必要がある。
あるいは毛利元就や斎藤道三の例を引くまでもなく、権力闘争や国家間戦争において謀略戦、情報戦はつきものである。
あるいは少し昔のテレビや新聞のニュースの中にも、明らかな間違いや意図的な偽情報が入っていなかったという証拠はどこにもない。

要するにポストトゥルース的な状況は歴史時代を遡る大昔から存在したのである。
それがなぜ今になって「ポストトゥルース」と命名され、明示的に認識される必要があったのか。

それは多分、昔と違って偽の真実が、あまり時間をおかずに暴かれる可能性が生じる時代になったからではないか、と思う。
それは、インターネットの時代になったことが原因であることはいうまでもない。

しかしことはそう単純でもないかもしれない。

メジャーなネットニュースのみならず、SNS等を通じても毎日いろんな「事実」がわたしのところに流れて来る。
そういうのには名の知れたジャーナリストや「ちゃんとした」新聞社などの情報もあるし、正体不明の組織や個人からのものもある。

それらの情報は、新聞社のは真実で正体不明の情報源は偽情報とは限らない。
そのどれにも偽情報である可能性があり、いくらかの真実を含んでいる可能性もある。

現代という時代は、おそらくそうやって世の中に無数に流れている情報を拾ってきて、自分なりに事実を再構成する、そういう時代なのではないかと思う。

だから世の中に流れているニュースの数だけの事実がある、というよりはそのニュースを受け止める「受け止め手」の数だけ事実があるのだろう、と思ったりするのである。
posted by ヤス at 09:50| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月23日

無根拠の類型化

何年か前に観たテレビ番組で、何の番組かは忘れたけれど最近よくあるパターンのバラエティ番組だったろう、そこで「血液型占いを信じるか?」という質問を出演者に訊ねる、という場面があった。
出演者の中には東大出身の政治家もおり、ポジション的に「頭が悪い」キャラの現役アイドルもいた。

で、その反応はアイドルは信じないと言い、東大出の政治家は信じると答えた。
この答えを聞いてわたしは少なからず考えるところがあったのである。

血液型占いというのには何の科学的根拠もない。

過去に何人かの研究者がわざわざいくつか実験して、人間の性格や知能と血液型に明確な因果関係のないことは実証済みである。
またわたしの経験の範囲内でも、A型だから真面目で几帳面、O型だから大雑把、とかいうよくある当てはめに該当しない人はたくさんいる。

というか血液型占いの性格の当てはめは、だいたいどんな人にでも当てはまるような「言われてみればそう思える」的な曖昧なものであり、その意味ではこれはまさしく「占い」的である。

しかし血液型占いの信奉者は思いのほか多い。
特に企業経営者とか政治家とか、一般には相応の知性が必要とされる立場の人間にも信奉者が多い。

しかし最近はこれを問題と考える流れも出来ていて、今から10年以上前にはBPOが血液型をネタにした番組づくりについて一定の配慮を求める声明を出したりもしたらしい。
また「ブラハラ=ブラッドタイプハラスメント」という言葉も出来たりして、この10年くらいの間に世間的なブームはかなり収束はしているようだ。

血液型占いを無批判に信じる態度というのは、それをネタに友達同士で楽しくおしゃべりするくらいなら大して害はない。
しかし人間に対する「無根拠の類型化」に何の疑問も持たない姿勢は、人種差別や外国人ヘイトを行う心理と根は同じである。


で、冒頭の東大出の政治家は血液型占いを信じてアイドルは信じない件。
このシーンを観て、わたしは政治家っていうのは本当にろくでもない阿呆ばっかりだなあと思ったのと同時に、学校の勉強は多分おろそかにしているだろう現役アイドルの意外に知性的な面を見たような気がした。

アイドルというのは、人数も多く競争が激しい。
そこで生き残り、キャラを確立して売れるためには相応に合理的な行動と科学的な態度が不可欠である。
だから血液型がどうとかあまり気にしないのだろう。
そこへ行くと政治家にはそういう合理性がほとんど必要ないのかもしれない。

というとこれもアイドルと政治家を無根拠の類型化に当てはめる行為であまり望ましくないだろう。

何にせよ血液型占いのような「便利な道具」で目の前の人間を判断しパターンに当てはめるのは、頭を使わずに分かった気分が味わえるので楽チンで良いが全く知性的ではない。
目の前の人を判断するには、やはり個別の人間ごとに自分の知性と経験をフルに動員し一生懸命考える、というのが唯一の正しい方法だろうと思うのである。
posted by ヤス at 08:01| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月22日

クリエイティビティ

AIに対する人間の強みはある種のいい加減さ、予測不可能性である、みたいなことを書いた。
それはただの個人的な思いつきであってちゃんとした確証があるわけではない。
ただよく言われるところの、クリエイティビティは人間だけのもの、というのが、どうもそうではないんじゃないかと思えてしょうがなく、クリエイティビティ以外の強みは何かないかなあと考えたまでである。

クリエイティビティとは「感動を作る能力」であると、とりあえず定義した。
そしてその「感動」というのは、人間だけの専売特許ではないと思うのである。

それは人間だけではなくて、ある程度大脳皮質が発達した高等哺乳類ならそこそこのレベルで持っているものだと思う。

感動というのは、キレイなもの、何かすごいものを見て驚き、かつちょっと恍惚とした気分になる、みたいな感情だと思う。
人間の感情にはそういうプラスの感情以外にも悲しいとか辛いとか恐ろしいとかいうのもある。
あるいは気持ちいいとか嬉しいとかいうこともあるだろう。

そういう感情の「正体」が一体何かということである。
これらのプラスの感情、マイナスの感情は、大脳が発達した高等哺乳類が持つ、ある種の記憶の補助機能なのだろうと思う。


なんかの木に生えている赤い実を食べたら、甘くて美味しくて感動した。
そうしたらその美味しかった感動とともにその「りんご」の赤い色や形をしっかり記憶にとどめておいて、次にりんごを見つけた時に備える。

反対に、黄色と黒のシマシマの猫の大きいやつにある時飛びかかられて間一髪逃げおおせたら、その「虎」の姿を恐怖の感情と一緒にしっかり記憶して、次回シマシマ模様を見かけたら一目散に逃げる。

そういう生存性強化のための記憶の補助装置として「感情」というものがある時生じたのだろうと想像する。
こいう記憶能力はカラスなんかもかなり優れていて、人間の顔もかなり覚えて個人識別できるらしいので、逆にカラスにも「感情」のような機能が備わっているのかもしれない。



とにかくも感情というのはある程度の哺乳類に標準装備の基礎的な機能であり、したがって感情の発動条件はかなりパターン化されている。
だからそれなりの基本知識を学習した人工知能であれば、人間を感動させたり悲しませたりするのに必要な「情報の合成」はお手の物であるに違いない。

実際最近の映画やテレビドラマでは、脚本を分析する専用のソフトがあって、ハリウッドあたりでは脚本をそれらの分析ソフトにかけて修正するというのが当たり前になっているらしい。

そのうち脚本の制作そのものも、あるいは映画監督やプロデューサーの仕事も人工知能に取って代わられることだってありうると予想する。
それどころか、あと数年もすれば映画俳優も全部CGになっていて、それが本物と見分けがつかないということになるだろう。
(すでに部分的には、CGの俳優は当たり前になっている)

そうなると企画・制作・出演が全部AI、という映画も遠からず実現する。
そうなった時の人間の役割が問題であり、ちょっと心配になるわけであるが、長くなったのでまた今度考えることにする。
posted by ヤス at 09:09| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月21日

AIに対する人間の強み

さてAI=人工知能の話も世間的にはいい加減煮詰まってきた感じもあるし、個人的にも若干飽きてきた面もある。
しかしこのところの将棋の藤井聡太四段の活躍で、わたしの中では再び興味が再燃してきた。

実際のところ将棋の世界でもしばらく行われていた「電王戦」、いわゆるAIと人間棋士の対戦は公式戦はもう終わっている。
これはつまりAIと人間の対戦はすでに決着が着いた、AIは人間を明らかに超えてしまったということなのかもしれない。

しかしそこに出てきたのが藤井聡太四段。
まるでAIのようにミスをせず、勝負どころで奇想天外の一手を打って敵を混乱に陥れるその棋風から、あるいは藤井四段ならAIに勝てるのではないか、という声もあるようだ。


究極的に考えると、将棋で人間がAIに敵わないのは確かである。
それは、将棋には論理的なルールがあるからである。
将棋が論理的なゲームである限り論理計算能力が人間よりはるかに高く、多分将来は今よりもっと能力アップするAIが人間に負ける道理はない。

しかし今のところ計算容量の関係で、AIも想定される手筋の全てを網羅しているわけではない。
パターン認識とか過去の棋譜のデータベースを参照して計算をかなりの程度端折っている。
その端折り方こそが将棋ソフトアルゴリズムの肝であり、ちょっと人間的な部分でもあるのだと思う。

このような前提で将棋対戦における人間のAIに対する強みを考えてみると、それは非論理的で想定外の奇手を打てること、なのではないかと思うのである。
ちなみにわたしは将棋は駒の動かし方くらいは分かるが、上級者の対戦を見ても何がどうなっているのかまったく分からない素人である。

だから「奇手が打てるのが人間の強み」なんていうのは素人の妄想に過ぎないのだけれど、調子がいい時の阪神・藤浪の荒れ球に名うての強打者がキリキリ舞いするように、予想外の奇手には人間棋士もAIも混乱するのではないか、という気がしてならない。


AIといえば、将来人間の仕事がAIに奪われるから人間にしかできないことを確立しないといけないという話がある。
人間の強みはクリエイティビティだから、みんな創造的な仕事を磨いた方がいいよ、という理屈になる。

クリエイティビティというのは「感動を生み出す能力」だと思っているのであるが、人間の感動はかなり論理的にプログラムされた定型的パターンであるような気がする、だからクリエイティビティはむしろAIの得意分野なのではないかという気がするのである。

むしろ人間の強みは、ある種のデタラメさ、いい加減さ、藤浪の荒れ球(ただし調子がいい時)のような予測不可能性にこそあるのではないか。
ここから先はまだ考えがまとまっていないので、またよく考えを整理して何か思いついたらまた書くことにする。
posted by ヤス at 10:44| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月20日

マクド、マルウェア感染

マクドナルドが少し大変なことになっている。
いや、ものすごく大変なことになっているのかもしれない。

16日未明に、システム障害が発生したらしい。
dポイントカードと楽天カードが使えなくなった。
しかしわたしは、その時はすでに面倒くさくてdポイントカードを出さなくなっていたので、そこは他人事だった。

それが昨日、1日ぶりにマクドに行ってみたら電子マネーのiDも使えなくなっていた。
昨日のニュースによると、マルウェアの感染による大量のパケットでネットワークがダウンしたということである。

しかもつい先ほど、店の奥の方からこんな声も聞こえてきた。

「ごめん、来月のシフト、手書きでお願いしまーす、ネットが使えないのでー」

だそうである。

多分問題はかなり深刻である。
マクドの場合全国の店舗は本部とネットワークでつながれており、POSレジデータがリアルタイムで本部に流れている。
それで現在の売上情報とか逐一本部で把握できているわけだが、そういうのも多分今はストップしているのだろう。
シフトとか社内メールとかあらゆるネットワークが止まっている。
月末をまたぐと仕入れ請求の管理やFCとの経理上のやりとりなんかも大変そうだ。
その場合、電卓片手に手書きでやることになるのだろうか。

システムのことはよく分からないけれど、PCの場合ならこういう時は電源ボタン長押しで強制終了し、再起動するに限る。
ひょっとしたら近いうちに全店一斉休業してシステムをシャットダウンすることになるのではなかろうか。

なかなか恐ろしい状況である。
マクド的にも当然ながらセキュリティ対策は行なっていただろうが。
マルウェアがどの経路から侵入したのか分からないが、ここはジタバタしないでお店を全休にして、根本的な処置を行った方がいいような気がする。

ネットワークやコンピューターシステムは、今や経営の絶対外せない基礎インフラになっている。
半分病んだ形でなまじ頑張ると、とんでもない二次被害三次被害が発生するリスクだってあると思うのだがどうなのだろう。
posted by ヤス at 09:27| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年06月19日

急がば回れ

今朝、セブンイレブンに寄って、本コーナーでいつものように雑誌類をパラパラ立ち読みした。
その中で、月刊プレジデントをパラパラめくっていたら、先日民進党を離党した長島昭久氏のインタビュー記事があった。
その記事の中の5〜6行くらいしかちゃんと見ていないのだが、その5〜6行の中にこんな趣旨のことが書いてあったと記憶している。


どこの国でも政権交代は10年くらいの周期で起きている。
日本の場合でも、民進党は本当は10年後を目指して腰を据えて取り組んでいかないといけなかったのだ、みたいなことである。


斜め読みで見たので内容を正確に覚えていないが妙に納得した。
わたしは長島昭久という人をよく知らないし、なんならそんなに好きなタイプの政治家でもないのだが、しかしセブンでちら見したその意見はまったく正しいと思った。

それはひとつには、戦後日本では政権交代の仕組みが機能したことがなく、というかその仕組みがまだ存在していないということなのだろう。
ひょっとしたらアメリカやイギリス並みの仕組みが出来るまでに、あと数十年要するのかもしれない。
それは、少し時間はかかるが政権交代の政治土壌が出来始めたということなのか、あるいはせっかくの政権交代の萌芽が途中で摘み取られてしまったということなのか、そこはよく分からない。

おそらくは前者であって欲しいと思うわけだが、しかし確かに今の野党第一党・民進党はやることなすことが短絡的であり過ぎるように見える。
蓮舫氏が代表になったのも、「とりあえず」選挙に強そうというのが主な理由だろう。
しかし今になって見ると、当初の思惑が裏目に出ているようである。

民主主義は多数派形成が正義ではあるが、しかしちゃんとした多数派を構築するには党内における政策的方向を時間がかかってもまとめていく必要がある。
そこのところが民進党はずっと寄せ集めで数のみを目指したために、結果として肝心の数が減っている。

別に民進党が必ず野党第一党である必要はないと思うが、しかし健全な民主主義のためにはちゃんとした野党第一党が必要なこともまた間違いない。



ところで今、中学生棋士の藤井聡太四段が話題だ。
テレビのワイドショーなんかでもバンバンとりあげられている。
そういう番組を観ていると、藤井四段は相手の心理まで見透かした老獪な将棋を打つというのをやっていた。

囲碁でも同じだと思うが、ここで打った手が何手か先でものすごく効いてくる、というのが将棋の醍醐味と思う。
最近の藤井四段の話題で、将棋の勝負における「急がば回れ」的な世界にあらためて気づき、面白いと思った。

ただ「急がば回れ」を勝負の現場で実現するには日々の研究の積み重ねと何より強い精神力が必要だろう。

それで「急がば回れ」というのは、伊達や酔狂で諺になっているのではないのだなあ、と今更ながら思うのである。
posted by ヤス at 14:10| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年06月18日

AKB総選挙、衝撃発表

昨日、恒例のAKB総選挙があった。
今年の総選挙はあらゆる意味で波乱だらけだった。

まず、直前になって激しい雷雨が予想される状況になり、野外でのイベントが中止になったこと。
これについては梅雨時期の沖縄開催がそもそも無謀だったのではないか、などの批判も聞かれた。
ただそういう批判はなんだか後づけの理屈に聞こえる。
若干のリスクを気にせず(気付かずかも)どんどん新しい試みにチャレンジするのはAKBグループらしくて良いと個人的には思う。
このような大規模の野外イベントでは「お天気リスク」というのがあるのだ、ということを今回運営はよく学んだことだろう。
それでいいんじゃないか。

波乱の二つ目。
NGTの荻野由佳が速報1位、最終票数でも5位に入った。
今回NGTは全体的にものすごく票数を伸ばしたようである。
今回から選挙を辞退したゆきりんの票が他のメンバーに流れたのだろうか。
ディープなファンなら何か感ずるところが有るのかもしれないが、わたしには躍進の原因が皆目わからない。
まあそのうち各種の分析記事が出てくることだろう。

さらに波乱の三つ目。
これが最大の大波乱だと思うのだが、20位に入ったNMB須藤凛々花の結婚発表。
これにはびっくりした。

わたしの家にはテレビがなく、したがって開票番組をオンタイムで見ることが出来ない。
だから夜の9時過ぎにそろそろ結果が出たかなとネットニュースを見て最初に飛び込んできたのがこれだった。
ぱっと見、記事の意味が飲み込めなくて困惑した。
結婚するって言うのは、ファンのみなさんと結婚する気持ちです、というくらいみなさん大好きですよ、みたいな意味なのかなとまず思った。
しかしどうやらリアルの結婚発表らしい、ということをやっと理解した。

そしてこの衝撃発表に対し、直後のスピーチで19位の峯岸がぼやいたり11位に入った高橋朱里が苦言を呈したりしたらしい。
またOGの大島優子も批判的な反応を示し、さや姉も困惑のようすであるらしい。
何より、この発表に対してファンから「金返せ」的な批判が殺到しているとも言う。
わたしは直接的にそれらの批判を見たわけではないが。

この衝撃事件に関し、わたしは恋愛禁止の掟を守りファンを大切に思う高橋朱里の涙にはかなり同情した。
彼女らが数百人のメンバーがひしめく中、各々地道にファン層の拡大に努力してきた、その集大成の選挙の場でガチの結婚発表とは違和感があり過ぎると最初は感じたのである。

しかし少し考えているうち、最近のSMAP騒動とかその他のタレントの事務所移籍や独立に伴う奴隷的な契約慣習とか、今の芸能界が抱える闇に対し、この衝撃発表は須藤凛々花なりの意見表明だったのではないか、そういう気がしてきた。
まあ本人は直接的にはそういう意識はなかったかもしれない。
が、結果として、これまでは「商品」として消費されてきた「アイドルの女の子」が、事務所やファンに対してイーブンな関係のちゃんとした人格を認められる存在になるために、今回の衝撃発表はいいきっかけになったのではないか。

そういう意味では、かなり違和感はあったけれどこれは必要な違和感であり、結果的に良かったんじゃないか、今はそのように感じているところである。

posted by ヤス at 11:30| Comment(2) | 徒然なるままに

2017年06月17日

ポケコン、Palm、iPhone

今年の2017年1月、iPhoneが登場してから10年経った。
それ以前に「スマートフォン」と言えば、小さいキーボードが付いた黒い携帯電話のBlackBerryのことを指した。
しかしiPhone以降は全面タッチディスプレイのやや大きなカマボコ板みたいのが世の中的にはスマートフォンの共通了解になった。

iPhone以前、やっぱりタッチスクリーンの薄いカマボコ板みたいなPalmという携帯情報端末があった。
調べてみると1996年頃に登場したものらしい。
わたしもPalmの端末を2台とソニー製のCLIEというクローンマシンを1台買って使っていた。

Palm端末などの情報機器を総称して当時はPDAと呼んでいた。
Palm以前にもPDAはあってシャープのザウルスはその代表格であろう。
さらにAppleのNewtonや、さらにその以前にはソニーや富士通なども「手のひらサイズのコンピューター」的なマシンを出していたらしい。

1990年頃の話である。

さらにそれ以前には「ポケットコンピューター」という製品ジャンルがあった。
カシオとシャープが双璧であり、関数電卓とコンピューターの合の子のような感じのマシンが多かったけれど、オプションで超小型の感熱プリンタやテープ式の拡張記憶装置などの周辺ガジェットがたくさん用意されており、オタク心をくすぐるに十分過ぎる状況であった。
わたしはカシオ派で、PB-110とPB-1000というのを買った記憶がある。
1980年台後半の話だ。

あの頃は32KBのメモリが1万円だったか2万円だったかしたと思う。
(「KB」っていうのは「GB」と100万倍差っていうことでいいのだろうか。つうことは、この30年ほどでメモリは100万倍くらいのオーダーで値下がりしたということらしい)

雑誌「ポケコンジャーナル」に掲載されているBASICで書かれたゲームプログラムを2〜3本入力すると、さしものPB-1000の標準搭載のメモリはすぐにいっぱいになったものである。
メモリを増設したいけれど、たかがゲームプログラムを打ち込むのに1万円も支出するのはアホらしい。
だから古いプログラムを上書きして新しいゲームを入れた。

そんなことはともかく。

ポケコンを駆逐したザウルスやPalmなどの「PDA」は1993年頃に出てきてPalmが生産終了したのが2005年、10年少々がPDAの時代。

そのPDAを駆逐したiPhoneが出たのが10年前だが、iPhoneは若干勢いは落ちがたPalmと違ってまだ寿命が尽きそうな感じではない。

ということはポケコンやPDAはスマホ誕生にあたっての露払い、前兆のようなものであり、スマホこそが真打ち登場、だったのかもしれない、そういう気がする。
またAIや音声認識技術の急速な進化により、スマホがそれらのインターフェイスとしてますます活躍しそうな感じもある。

個人的にいうと、かつてポケコンやPalmに投資した額の何倍(あるいは何十倍か)もiPhoneにはすでに投資していると思う。
逆から見ればスマホはPalmなどに比べても桁違いに大きな経済的価値を生んでいるということになるのだろう。

だからiPhoneはまだ当分は今の調子で生き残っていくのであろう、とどうでもいいけれど思った。
posted by ヤス at 10:47| Comment(0) | 徒然なるままに

2017年06月16日

今年の夏は暑くなりそうだ

この間梅雨入り宣言したと思ったら、途端に雨が降らなくなった。
スマホで向こう一週間の天気予報を見ても、しばらく晴れと曇りのマークが続いている。
連日雨の日が続くといろいろ面倒くさいわけであるが、しかしこの時期に雨が少ないと今後の水の供給が心配になる。

なんでも今年は4月下旬から5月にかけてかなり雨が少なかったらしい。
気象庁のデータによると関東甲信越以西の各都道府県の降水量は、平年比が軒並み30%〜40%台だったようだ。
近所の田んぼも山の方から順番に田植えが進んでいるようだが、水は足りているのかなあとやや心配している。

例年の梅雨は、中国地方では6月7日に梅雨入りして7月21日に明けるそうだ。
で、心配される雨の量であるが、これは予想によると6月中旬以降長雨の傾向が続いて降水量は平年よりやや多めの見込み。
なんでも南の方から暖かく湿った空気が流れ込んでいるらしく、もしこの予想通りならこれからしばらく蒸し暑い日が続く。


さて、話はやや変わる。
以前にも書いたがわたしは今年、昔出場したことがある「2017歴史街道丹後100kmウルトラマラソン」に再び挑戦しようと考えている。
挑戦しようと思っているが、まだエントリーはしていない。
4月に最後のフルマラソンを走り終わって、その後しばらくランニングをサボっていて、やっと一週間ほど前から再度走り始めたところである。

一月以上ランニングをサボっていたために当初2〜3日は膝がガクガクになって先が思いやられた。
しかし数日続けて走るうちに、体が走り方を思い出したらしい。
ゆっくりであれば10km超の距離でも楽に走り終えることができるようになった。
京丹後の100kmは制限時間が14時間である。

前回の出場は10年以上前だったが、13時間40分弱くらいだった。
1kmあたりに直すと8分10秒くらいである。
前回はエイドステーションのたびにバナナを食べながらくくつろぎ、かわいい中学生のボランティアにふくらはぎをモミモミしてもらった。
また後半に入ると登りの坂道は基本歩き、そのうち平らな道でもフラフラ歩くらいまあまあ辛かった。
だが、最後の20kmくらいは止まると足が固まって動かなくなるので、なるべく歩かないように、止まらないように頑張った。

あの過酷な100kmを10歳以上歳とった現状で再び完走するには、それなりにトレーニングを積む必要がある。

特にこれからの暑い季節がどれくらい暑くなるのかはトレーニングに多大の影響を及ぼすであろう。

エントリーの締め切りは7月24日。
まだ定員には達していないようである。
もう少しトレーニングを続けながら様子を見て、大丈夫そうならエントリーしようと思っている、妙に慎重な今日この頃であったりする。
posted by ヤス at 09:49| Comment(2) | 徒然なるままに