2018年11月15日

外国人労働者について

今日本は少子高齢化がこうしている間にもどんどん進んでいて、それによっていろんな問題が発生しつつある、あるいは現に問題発生しているらしい。
そのひとつが労働力不足である。
特に若い人の世代人口は、数十年前の半分くらいの感じになっていてそもそも絶対数が少ない。
だから今までと同じ感覚で労働者を使っていると、引退する老人に対して新規に職場参加する若者が足りなくなるのは道理である。

そこで最近の日本社会では、海外から出稼ぎ労働者に来てもらって足りない分を補おうという話になっている。
しかし日本は伝統的に外国人の受け入れ(つまり移民だ)に極端に消極的な政策を採ってきた経緯がある。
出稼ぎ労働者はあくまで出稼ぎなので、いつか元の国に帰る。
しかしあんまり長く日本で働いていると、なんだか居心地が良くなっていっそ「移民」しちゃおうかな、とか思わないこともないだろう。
というか、ラフカディオ・ハーンの昔からそういう外人さんは一定数いた。

しかし現代の日本では、基本的には移民は入れない、というのが基本である。
現在国内には250万人くらいの「外国人」が生活しているらしい。
これは最近5年くらいで急増した数字だとかいう。
人数だけでいうと先進国中4番目の数字だそうである。

日本に住む「外国人」でも一定の帰化要件さえ満たせば、たぶん日本人になれる。
たぶんそうなったら晴れて上記の250万人のうちの一人から卒業できるのだろう。(統計的にそういうことなのかな?)
帰化条件には5年以上在住とか安定収入がある事、素行良好な事などがあるらしい。

移民をあまり増やしたくない政府としては、日本に押し寄せる外国人が帰化条件を「満たさないように」一生懸命知恵をしぼることになる。
それで外国からの帰化者が激増しないように上手くコントロールしつつ、しかし産業界の要望に応えて外国人労働力だけは確保したい。
でもやっぱりあんまり日本に移民はして欲しくない。
という矛盾に満ちた気分が、外国人労働者の過酷な扱いを生んでいるように見える。

ただあんまり外国人労働者の受け入れ条件が過酷であると、そのうちだんだん日本に労働者が来なくなるのは間違いない。
少子高齢化は韓国などでも確実に進んでいる。
韓国とかシンガポールとか、アジアの労働力不足の国々で労働力の取り合いになった時、あまり過酷だと日本に人が来なくなる。
もしくは「よその国では雇ってくれないような人」が来るのだろう。

外国人労働力を活用したいならある程度移民の増加も受け入れざるを得ない気がする。
もし移民が嫌なら、外国人労働者に頼らないやり方を考えるしかない。

受け入れるのか受け入れないのか、このあたり今の「日本的なあいまい姿勢」だと、結局良いことにならない気がする。
posted by ヤス at 07:08| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月14日

カショギ氏の事件について

サウジでジャーナリストのカショギ氏という人物が先月はじめに惨殺されたというのがニュースになっている。
このニュースにはいろいろな意味合いがあるのだろう。
親米国であるサウジでの王族関係者(皇太子)による事件という事で、間接的に中東におけるアメリカのポジションに悪影響があるのではないかとか、サウジがメインで資金を出しているソフトバンクの11兆円ファンド事業への影響とかである。
しかしいちばんのニュースバリューは、カショギ氏の殺され方だったのだと思う。
トルコのサウジ総領事館というきわめて公的な建物の中で、生きたまま身体を切断されて殺されたとかいうのが第一報で流れたりしていた。

大昔、たぶん1979年だったと思うが、映画館に「スターウォーズ」を観に行ったら、その時は二本立てでもう一本はホラー映画の「キャリー」だった。
今考えるとものすごい組み合わせである。
「キャリー」はアメリカの超能力を持った少女の物語であるが、映画の最初の方で自動小銃を持って頭にアラブ人のターバンを巻いた集団が遊園地かなんかを襲って血みどろになるシーンがある。

考えてみると、その頃から(というかその以前から)狂信的アラブ主義者とかイスラム過激派とかの危ないイメージが喧伝されていたわけだ。
欧米人は、中世の頃から十字軍などでアラブとは何度も戦っておりたびたび煮え湯を飲まされているので、アラブ人に対する歴史的な怨みのようなものが根深くあるのかもしれない。
またアラブ人自身も砂漠の戦士としての荒々しいところ、ハンムラビ法典以来の「眼には眼を」的な精神が今に引き継がれている部分もあるだろう。

まあどっちにせよカショギ氏の事件は、アラブ人全体としては大きなイメージダウンになるいい迷惑の事件だったということは言えると思う。

その後の報道では、トルコが犯行時の録音を持っていてそれを各国政府に配ったのだという。
録音にはカショギ氏の最後の言葉が「袋を頭から取ってくれ」だった、というのが記録されていたとかいうのもニュースになっていたがどうなのだろう。
また、カショギ氏の遺体は切断され薬品で溶かされて処理されたのだという。
おそらく死因など特定されないように証拠隠滅を図ったのだろう。
そういうことではカショギ氏は殺された後にバラされて薬で溶かされたのではないか、という気もする。

しかしトルコ政府が録音記録を持っているということは、トルコは自国にあるサウジ総領事館に盗聴器を仕掛けていたということになる。
某佐藤優氏によると、どんな国でも自国内にある他国の大使館や領事館に盗聴器を仕掛けるのは「当たり前のこと」らしい。

事実は小説より奇なりで、今後どういう展開になるのかものすごく気になるのである。
posted by ヤス at 09:32| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月13日

消費増税対策の不条理

来年10月にせまる消費税8%から10%への増税に対する「対策」に関するニュースがいろいろと流れている。
今朝も自動車関連の減税を検討中というのが流れていた。
他にも住宅関連の減税なども俎上に上がっているらしい。
さらに、悪評著しい軽減税率などというのもある。

あるいはまた、クレジットカードを使用した時の2%還元なんてのもあった。
これは消費増税のタイミングを利用してキャッシュレス化に後れを取る日本の決済状況をどうにかするため、増税後にクレジットで買い物したら購入金額の2%分をクレジットカードのポイントで還元するものだ。
その2%の還元費用は政府がクレジット会社に補助するらしい。
この構想が10月に公になった時には、クレジットカードを使わない高齢者や低所得層に優しくないとかいう批判の声が巻き起こった。
またクレジット決済を小規模の個人店なんかでも導入しましょう、と言ったって、決済端末やらクレジット会社の決済手数料がかかっておいそれと導入できない。
小規模店がクレジット決済を導入した場合、その決済手数料は一説には4〜7%くらいかかるという。
こういう状況ではお店の方も、ブランド品とかの高額商品を扱っているところ以外は導入がむずかしい。

またそもそも論として、消費税率引き上げに伴う対策は「低所得者の負担感の軽減」が主眼であったはずである。
それがクレジット決済のポイント還元とか住宅・自動車関連の一時的な減税措置とか、早くも方向がずれている。
あるいは還元の方法論もきわめて難解で、実現可能性の薄そうなものばかりである。
こうなると公明党お得意の「商品券配布」が、低所得者対策という意味でも実現可能性という点でもいちばん筋がいいように見える。

ただしいずれの増税対策も、当然であるが実施のためには費用が必要でその原資は税金である。
税金が足らないので増税をするのに、その一方で税金を使って増税対策をする、というのは明らかに無駄である。

税務署やら県や市が徴税コストをかけてせっせと税金を集める。
今考えられている増税対策では、集めた税金の一部を再度膨大な事務コストをかけて納税者にばらまこうというのである。
これは相当に頭の悪い「行って来い」だ。
こういうことを東大出の集まり、エリート集団の財務省がうんうん言いながら考えている。

こういう状況を見ていると何かものすごくシュールな気分になるが、まあこれが政治というものなのかもしれない。
posted by ヤス at 12:16| Comment(3) | 徒然なるままに

2018年11月12日

「早寝早起き」は早寝が9割

昨日の夜、最後に時計を見た時、そのデジタル時計は「00:40」を表示していた。
それで今朝は5時頃に起きてその後軽くジョギングしてきた。
今のところまだそんなに眠くもない。
だがそのうち昼を過ぎたあたり、ちょうどお仕事をしている最中くらいに猛烈に眠くなるような予感がする。

やはり睡眠不足はよくない。
睡眠時間は、7時間くらいは確保した方がいいとかいう。
あのホリエモンも睡眠時間だけは8時間ほどは確保するそうで、また某売れっ子漫画家が言っていたが、本当に忙しい時は徹夜していると回らなくなって朝型の仕事スタイルになるらしい。

世の中的にも最近はちょっとした睡眠ブームだ。
わたしは知らなかったのだが、昨年の流行語大賞でもベストテンに「睡眠負債」という言葉が入っていたり、睡眠メソッドに関する本が相次いで出版されたりしている。

ことほどさように「睡眠」に注目が集まっているのは、現代人がどうしても寝不足になりがちなことがあり、かつその寝不足が、実はかなり健康上も経済的にも損失の元になっているのではないか、という問題があるということなのだろう。

わたしはここしばらく「夜10時前に寝よう」運動を個人的に展開しており、それは7時間眠って朝5時に起きるサイクルをサスティナブルに回すためである。
また、わたしの「めざまし時計」は、もう随分前からリンリン音が鳴る旧世界の方式ではない。
朝5時にスイッチオンするようにタイマーをセットした100W相当の明るいLED電球が、枕元でぴっかり光って、その光の刺激で目が覚めるという近未来的な方式を採っている。
この光による目覚まし方式は、おそらく「音が鳴る」方式より目覚まし効果は高いと感じる。
多少の寝不足でもぱっと目が覚める。
今朝も4時間少々の睡眠時間ながら、ぱっと目が覚めた。

要するに、朝目を覚ます方は、ほぼメソッドが確立しつつある。
しかし単純に早起きするだけでは片手落ちで、きちんとした睡眠時間の量を確保するためには起床時間に対応した就寝時刻もマネジメントする必要があるのは言うまでもない。
つまりちゃんと早寝することが大事だということだ。
ところがこれが難しい。

わたしが昨日「遅寝」をしたのは、夜中にパソコンを(正確にはパソコンに接続したキーボードとマウスを)グリグリいじっていたからである。
まことに、現代社会には「遅寝」を促進する要素は、ネットとかSNSとかたくさんある。

このように、現代において睡眠マネジメントの必要性が切実であるのは、無数にある「遅寝」要素が人々の睡眠時間をガリガリ削っているところに原因がある。
したがってマネジメントの最重要項目はどのようにして「早寝」を継続し、習慣化するかという点にあるのは間違いない。

現代における「早寝早起き」生活の実現は、「早寝」の部分がその99%なのである。
したがって今日の晩は、効果的な「早寝」メソッドを夜遅くまで考えようかと思っている。(なんつってね)
posted by ヤス at 09:31| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月11日

考え過ぎる人のために

考え過ぎは良くない。
心配性の人というのは、あれこれ考えることによって必要な行動に取りかかれない、あるいは心配がストレスの種になる、という点で問題を抱えているように見える。
それは例えばわたし自身がそうである。

わたしは昔から、
「おまえはいつも何も考えてないようで、のんきでいいよなあ」
という種類の指摘を周辺の人々からたびたび受けてきた。

しかしそれは間違いである。
わたしは人一倍の心配性である。
または何か重要な行動の前にあれこれと考える癖が強い。
学生の時の水泳部時代、まだ夏になりきっていない時期にプールに入る前、この水はさぞかし冷たかろうと、身体がまだ水に触れる前にぶるぶる震えたりしていた。
あるいは仕事で営業先に向かう時、お客さんから手酷く断られるシーンが脳内に自然に浮かんできて、足がすくんだ。

こういう風に行動の前にネガティブイメージが浮かんできて行動にブレーキをかけようとするのは、ある種の生物的防衛本能であるように思われる。
防衛本能である、と考えると「考え過ぎること」はあながちすべてが無駄である、と断言できない気もしてくる。

一方で、ポジティブでイケイケで考える間も無く身体が動くというタイプの人は、原始時代なら真っ先にライオンやオオカミの餌になるタイプの人類だったのではなかろうか。
そういうポジティブな種類の人類は、文明が十分に発達して弓矢や鉄砲ができてライオンやオオカミの脅威が過去のものになってから発生し始めた新しい人類であるように思われるのである。

つまり、ついネガティブなことを考える人は、より原始的人類の特徴を今に伝える種類の人なのではないか。
いや、もう少し論理の風呂敷を広げてみると、ネガティブに考える人は人類の精強さを根っからは信じていない人、または人類が実は脆弱な存在であることを忘れていない人、つまり母なる自然に対してあくまで謙虚である人類なのではないか、とポジティブに思考変換することもできなくはない。

おおよそ、人間というのは放っておくとあれやこれやいろいろと考えてしまう生き物のようで、しかも同じ考えるなら楽しいことを考えた方がいいのであるが、つい思考が心配の方角に向かう人というのはいる。
まだ事が起こっていないのに、心配だけしてストレスを溜め込むのはまったく無駄であるが、しかしそれは心配性の人にとっては抗いがたい性癖なので、これを自在に制御するのはなかなかむずかしい。
しかし一方で、防衛的に考えることそれ自体はまったく無駄でもないし、たまにであれば考え過ぎることもそんなに悪くないのではないか。

そこで提案であるが、心配性の人は少し考えが過ぎるな、と自覚してきたら散歩かジョギングで身体を動かすのが良い。
精神安定物質のセロトニンが分泌されて心の平静が回復し、血流が筋肉に取られることであまり複雑な思考はできなくなって「無の状態」に少し近づける。

ということで今日はどこかでマラソン大会があるらしい。
30km過ぎて心身ともに無の状態になる人々に、遠くからひそかに声援を送ろうかと思う。
posted by ヤス at 09:32| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月10日

予防的に生きるために

もう10数年前になると思うが、まだ陽が上がる前の真っ暗な朝方、猛烈に歯が痛くて目が覚めたことがあった。
時間は午前3時くらいだったかもしれない。
歯痛というのは、我慢することが相当に難しい種類の痛みである。
その時ももう寝ていられなくて、起きてひとまずパソコンの前に座った。
わたしのうちには置き薬などというのは無い。
とりあえずバファリンでも正露丸でも、なにかしら鎮痛効果のある物質が手元にあれば良かったのだがあいにくと無い。

だからその手の薬を買うため、いちばん近いクスリ屋を探そうと思ってパソコンの電源を入れたのである。

痛みを押してインターネットで調べると、近所で午前9時開店の某ドラッグストアがあってもっとも有望そうだった。
今から5、6時間もこの痛みを鎮痛剤なしのガチで受け止め続けないといけないのか。
そう考えると気も狂いそうだった。
だからうっすら夜が明け始めたときには、矢も盾もたまらずクルマに乗った。
その辺をうろうろしていたら、ひょっとしたら24時間営業の店とか午前7時開店のところとかあるかもしれない。

しかししばらくクルマを走らせたものの、ほとんどのドラッグストアは午前10時開店なのである。
やはり9時開店の店が最有力という状況に変わりはない。
ただ、クルマに乗っていると少しは運転に気を使うので気が紛れた、ということはあったかもしれない。

それで8割方死にかけた状態で当初目をつけていた9時開店の店に行き、この店に売っている最強の鎮痛薬をちょうだい、といってそれを買ったのである。

あの朝の出来事は、今でもかなりはっきり憶えているくらい恐ろしい体験だった。
それ以来かなりこまめに歯を磨くようになった。

最近は定期的に歯医者に通って、歯科衛生士のお姉さんの指導に盲目的に従ってかなりがんばって歯を磨いている。
フロスと歯間歯ブラシとワンタフトタイプ(ブラシが細い筒状になっているアレ)で入念に磨いた後、通常タイプで毛先が細くなったやつでフィニッシュする。
全行程10数分を要するそのような儀式を毎夜毎夜行なっている。

また、どうしても磨き残しが発生しがちな歯の裏側をチェックするために、歯医者さんが使っているような丸いちっちゃいミラーも仕入れた。
このミラーで歯の裏側を見ると、思いのほか磨き残しがあったりして愕然としたりもした。

まあこのような涙ぐましい努力の甲斐があって、このところ歯痛と無縁の人生を送ることが出来ている。
今では、そのうち突然歯痛に襲われるのではないか、という種類の恐怖からは自由になったと感じるのは素晴らしいことだ。

歯痛対策だけでなく、それ以外のいろいろな分野でも「予防的である」といいのかもしれない。
しかし「予防的である」ことは、歯磨きの例をひとつ考えても毎日けっこうな重労働が要求される。
それでもなお、事件が発生してから対処するよりは予防的である方が効率的であるには違いない。

重労働である予防的な生き方を継続するコツは「習慣化」だろう。
夜になったら条件反射でいつの間にかゴシゴシ歯を磨いている、そういう夢遊病的状態までいかにして持っていくかが勝負である。

ほんとうに、予防的に、戦略的に人生を過ごすのは、それはそれでたいへんなのである。
posted by ヤス at 11:08| Comment(3) | 徒然なるままに

2018年11月09日

イッテQのやらせについて

人気テレビ番組の日本テレビ「イッテQ」でやらせ疑惑が浮上したらしい。
例によって週刊文春が報じたのが発端である。
東南アジアで、自転車で一本橋を渡る橋祭りが流行していていつも通り宮川大輔がラオスのビエンチャンってところに行って挑戦しました、という内容の番組のやらせだという。
文春記事によると(わたしはその記事を見ていないが)、橋祭りなんて祭りは存在せず、イッテQ側が「コーヒー祭り」が行われている横で勝手に創作したものだったという。

わたしは、イッテQはYouTubeの違法アップロードを2、3回観たことはあると思うし、宮川大輔が水牛に引っ張られて泥だらけになるような回を観たこともあるので、なんとなくだが番組の雰囲気は分かる。

それでこの問題は何が問題なのかを少し考えた。
テレビ番組の制作をめぐっては、しばしば「やらせ」が問題になる。
例えば報道番組などで「こういう事実を報じます」といって報じた内容が捏造であったりしたら、これは非常な大問題であろう。

そういうことがたびたび発生すると、テレビで報道している「事実」は、ほんとうは違うんじゃないか、数字を稼ぐためのやらせなんじゃないか、と視聴者側はいちいち疑いを持って観るようになる。
そうすると、テレビの機能の重要な一部である「事実を報じる」というところが壊れてしまうことになる。
だから「事実を報じています」というスタンスの番組づくりにおいては、あくまでも演出なしで、淡々と事実をベースに番組を制作する努力が必要である。

一方でバラエティ番組の場合はどうなのか。
今回のイッテQ問題では、テレビ側の世界の人々、プロデューサーなりタレントなりには、バラエティに多少の演出は付き物でありそこまで大きく問題にすべきではない、というような意見もあるようだ。
確かに、バラエティ番組の場合は視聴者側もある程度「つくり物」として番組を観ている面はあると思う。
だからイッテQがやらせだったからといって烈火のごとく怒り狂う視聴者というのもほとんどいないに違いない。

イッテQは、面白さを追求するバラエティ番組であり、より面白くするためにドキュメンタリー風の構成にしているのだと思う。
たぶん電波少年的なノリで「これガチでやってます」という体で制作している。
今回問題があるとすれば、ガチでやっている体だったのが、実は土台になるお祭りのところが全部フィクションでした、というのでは視聴者はシラケる、肝心の面白さがなくなることだ。

たぶんネット時代以前のバラエティではこういう過剰演出は普通のことだったのかもしれない。
しかし現代は世の中の人々もフェイクニュースで鍛えられ事実と虚構の「判別スキル」が上がっている。
よほど上手に嘘をつかないとバレる時代なのである、と思う。
だから今回のイッテQやらせ問題は、ドキュメンタリー型バラエティ番組としての自殺行為であって、つまりそれはテレビ業界としての自殺行為でもある。
そういう風に思ったりした。
posted by ヤス at 08:41| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月08日

世の中運に左右される件について

昨日東京医科大の入試のことを書いたが、入試には、当たり前だけれど運というのも大きく作用する。
しっかり勉強したけれど当日あいにく風邪をひいて万全ではなかったとか、あいにくヤマが外れて予想していた得点が取れなかったとか、たまたまその年は受験生のレベルが高かったとか、運の悪いことはいろいろあり得る。
考えてみると、というかわざわざ考えるまでもなく、我々の人生は運によって大きく左右される。

今スポーツ庁長官の鈴木大地、選手時代の鈴木は今ほど愛想が良くなくぶっきらぼうだったけれど、勝利への貪欲さはハンパがなかった。
その鈴木大地(またはそのコーチだったか)が言っていた。

8割くらいの力を出せば金メダル、というくらいの実力をつけないと金メダルは狙えない。

みたいな感じの言葉だったと思う。

これは受験生にもあてはまり、運に左右されるのが嫌なら、多少の不運を跳ね飛ばすくらいの実力をしっかり身につけて試験に臨みましょう、ということは言える。
しかしそうなればそうなったで「じゃあ慶応か東大に志望変更しようかな」みたいな話になりかねない。
試験能力が高まっても、さらに難しいところを狙うんじゃあまた運に左右される。

しかし結局のところ人生におけるチャレンジというのは、そういうことなのかもしれない、とも思う。
大学入試はひとまず置いておくとしても、マラソンでベストタイムを狙うとか高嶺の花のムリ目の彼女にアタックするとか、多くの場合世の中のチャレンジは実力以外に運によって左右される。

将棋の世界でもプロになる最終段階に三段リーグというのがあって、30人以上いる三段棋士がリーグ戦をして、上位2名だけがプロになれる。
しかしなかなかプロ昇格できない人の中にも実力者はいて、長年三段リーグで苦労した挙句、プロになった途端に勝ちまくる人もいる。
たぶんそういう人は、力はあったが運がなかったということなのだろう。
中には力はあるが最後の運がとうとうつかなくてプロになれず、という人もたくさんいるに違いない。

しかし結局のところ世の中とはそういうものなのだと思う。
それは人間の世の中というよりは、野生動物の世界なんかでは実力がどうこうというより運次第で簡単に命を落とす、という点で人間の人生よりはるかに過酷だと思う。
そこへいくと人間の人生は運に左右されるとはいえ、いくらかは本人の意思と努力で運命を左右できる。

しかしやっぱり最終的に運の影響はどこまでもついて回る。
ただ、わずかでも意思と努力でどうにかできる、というのは多少救いがある、と思った。
 
posted by ヤス at 10:12| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月07日

大学入試不正で思ったこと

入試不正が問題になった東京医科大学で、2017年と2018年両年の不正合格者数が約100人に達したのだという。
旺文社の情報サイトに同大学の募集定員が出ていて、それによると毎年200人程度合格者がいる感じになっている。
すると、2年間で合格者数約400人。
この400という「合格者数」に対し、不正に落とされた人が100人というのはいかにも多い。
同大学ではこの100人については希望者には入学を許可する方向だという。
ついでに言うと「間違って」合格にしてしまった在学中の100人はどうするかというと、これは大学の判断で入学させたので「地位剥奪はふさわしくない」というような大学内の意見が、以前のニュースで出ていたらしい。

そりゃあまあそうだろう。

この不正のいちばん問題である点は、女子とか浪人生とか、客観的には医師適正にあまり関係のない属性によって試験点数を操作していたところにある。
しかしもはや、そういう問題の本質に対する個人的興味はあまり残っていない。

それよりも、このニュースでふと思ったのは、試験に合格するってなんなのだろう、ということだ。
試験日程というのは2日か3日かそれ以上あるのか知らないが、たかだか数日間のペーパーテスト(場合によっては面接もあるのかな)で学生の合否を判定する現在主流のやり方は、いかにも機械的で流れ作業的でやっつけ仕事のように見える。

なぜ大学入試が機械的ペーパーテストが主流かというと、これはおそらくだが医師国家試験とかも試験スタイルが大学受験とほぼ同じペーパーテストベースになっているからではないか。
つまり大学入試に強い奴は医師国家試験にも強いに違いない、ということである。
入試でいい成績を上げる人を機械的に入学させる事で国家試験合格率の向上につながる、そういうメカニズムがあるのではないか。(そうなると上記の差別問題にますます?が付くのだが)

しかしそのメカニズムが働くのは、医師とか弁護士とか役所とか、国家試験に合格させるのが主目的の大学だけになるはずだ。
さすがに普通の会社では機械的入社試験だけでなく、面接に小論文とか、あるいは部活動とか社会的活動とかの実績なども加味して総合的に社員を選ぶ。
ペーパーテストだけでは「仕事のできる」人が判別できないからだ。

にもかかわらず大学入試はペーパーベースというのは、企業視点からいうとちょっと困った話なのではないか。
あるいは出身大学は「ペーパーテストのできる人」を判別する参考材料程度ということなのか。

日本の大学の入試も、一次試験と二次試験とかの数日で決めずに、たとえばアメリカの大統領選挙みたいに一年かけて予備試験から地方予選、そしていよいよ本戦トーナメントとかいう感じでエンターテイメント的にやれば楽しいだろうに、と思う。
試験科目も早食い競争とか肝だめしとか、シューティングゲームのスコアとか、社会に出て役立ちそうな種目を入れてオープンにやれば、楽しそうなので今後多少子供が減っても学生が集まるのではないか、と思ったが、たぶんそんな破天荒なことをやる大学はないので残念だ。
 
posted by ヤス at 13:19| Comment(2) | 徒然なるままに

2018年11月06日

人間は必ず間違える

今、2009年の郵便不正事件で冤罪逮捕された、元厚生省事務次官の村木厚子さんの本を読んでいる。
昨日Kindleで買って半分くらい読んだところだ。

おさらいのために郵便不正事件を整理しておく。
これは格安の「心身障害者用低料第三種郵便物」の制度を不正に利用した詐欺犯罪だった。
「凛の会」などの偽装障害者団体が事件を主導し、電器や紳士服小売などのダイレクトメール業務を受注、3140万通を上記第三種郵便物を装って郵便局には格安料金を払い、一方で電器屋や紳士服屋などからは正規の送付料金を受け取ることで37億円以上も不正に利益を上げた事件だったらしい。
この団体に障害者団体である証明を発行したのが厚生労働省だった。
で、その証明書が政治家ルートを通じて「障害保健福祉部企画課長(証明書の発行権限を持つ)」だった村木厚子さんによって不正に発行された、という「犯罪ストーリー」が大阪地検特捜部によって作られて村木さんなど複数の関係者が逮捕された。

結局そのストーリーはただの妄想に過ぎず、それどころかその妄想を正当化するために担当検事によって物的証拠であるフロッピーデータの改ざんが行われたことが明らかになり、逆に大阪地検の検事3人が逮捕される結果となった。

村木さんはこの一件で「未決勾留」で454日間も拘置所に拘禁されることになった。
この事件を通じて日本の行政システム、中でも司法システムのいちじるしい後進性が問題になったわけであるが、その後取り調べの可視化・録音録画などが進んだかというと、いまだに前に改善されていない。

それどころかつい最近では財務省による決済文書の改ざんとか、自衛隊の日報隠蔽、働き方改革法案策定の根拠データ捏造など、行政がらみの「情報操作」がかなり頻繁に噴出するようになっている。

また行政組織だけでなくて、三菱、スズキ、スバルなど自動車会社とか建築業界でもKYBなどのデータ不正操作などもあいついで発生している。

作家の塩野七生は著作「ローマ人の物語」の中で言っている。
「多くの人は見たいものだけを見ようとする」
そこへいくとユリウス・カエサルなどの英雄は、見たくないものも直視した。
だから英雄になった。

これはよく言われる話であるが日本的組織は「間違いに不寛容」過ぎる一面があるのではないか。
多くの行政組織や大企業では「我々は絶対に間違えない」ことを前提にいろんなことが計画される。
ほんとうに必要なのは「嘘に厳格だが間違いには寛容」な態度だ。
人間は必ず間違える。
間違えることを前提とした制度づくり、組織づくりというのはつくづく大事だ、村木さんの本を読んで(まだ半分ですが)そう思った。
posted by ヤス at 10:54| Comment(3) | 徒然なるままに