2020年01月28日

暖冬について

暖冬が続いている。
気象庁のデータを見てみると、一年のうちいちばん寒いのは12月下旬から2月初旬までの2ヶ月くらいで、1月下旬の今頃は本来なら身も凍えるほどに寒いはずである。
気温で言うと、一日のうちの最高気温でも7〜8度、最低気温が2〜3度くらいが今の時期の相場であるが、最近はずっと最高気温が10度以上の日が続いている。
今月は一日の最高気温12、3度くらいの日が多く、少し前の1月8日は16.3度もあった。
この感じは平年なら3月下旬くらいの気温に相当し「もうすぐ花見」の暖かさである。

しかし調べてみると、この10年くらいはだいたいの冬が暖冬なのである。
だから今さら驚くほどのことでもないのかもしれない。
しかし、わたしが小学生の時分は冬というと強烈に寒くて、耳がしもやけになったり自転車に乗っていて手が凍りそうになるくらいだったり、それはそれは寒かった記憶がある。
それで気象庁データで、今から44年前の1976年の冬を見てみた。
1976年1月の日ごとの気温データを見ると、岡山市は1月25日はマイナス6.3度でこれがいちばんの最低気温。
対して、2020年の1月の最低気温は1日と19日にマイナス0.8度を記録していてこれがいちばん寒い。
この44年の間の最低気温の差が5.5度もある。

まあ後から見てみると1976年は特に寒かった年だったようだが、それでもだいたい岡山市の1月は最低気温は半分以上の日がマイナスになるのが今までのデフォルトだったようである。
しかし2020年1月は昨日までに最低気温マイナスは5日のみ。
しかもマイナスコンマ何度なのでたいして寒くもない。

今年は8月に東京オリンピックがある。
世の中に流布している都市伝説のひとつに、暖冬の年の夏は冷夏になるというのがあるらしい。
ただ最近10年間くらいの冬はほぼ暖冬であるが、だいたいの夏は酷暑猛暑になっている。
やはり、気象データを見ても夏冬通じておしなべて気温が上がっているのは確かなようである。

冬が暖かいと、バイクに乗っている身としては非常にありがたい。
しかし一方で夏の猛暑はバイクには非常に厳しい。
バイクに乗っていると冬の暖かさが体感としてよく分かるわけだが、今年の夏はお願いだから少し涼しくなって欲しいと思う。
posted by ヤス at 08:27| Comment(2) | 徒然なるままに

2020年01月27日

地震予知の嘘

先週の金曜日だったか、政府の地震調査委員会が南海トラフ地震の津波確率というのを発表したようである。
同委員会は今後30年以内に「南海トラフ地震」が発生する確率は広い範囲で26%以上とも発表している。

わたしが若い頃、たぶん30年くらい前に「地震予知は絶対不可能」という話を聞いたことがあった。
その当時から時間が経って、科学技術が進歩して地震予知がいくらか出来るようになったかというと、一部の地震学者はやっぱり不可能だと主張している。

この間YouTubeで久米宏のラジオを聞いていたら東京大学教授のロバート・ゲラーという人が出てきて「地震予知は不可能であり、予知の話は嘘であり、学者連中の予算獲得の方便に過ぎない」という話をしていた。
ゲラー教授の話が嘘である可能性もあるわけであるが、わたし個人としてはゲラーさんは正しいのではないかと考えている。

そう考える根拠は、阪神淡路大震災や東日本大震災、中越沖地震など、大きな被害をもたらした地震がことごとく「予知されていなかった」ことにある。
東日本大震災の際の原発事故を契機に行われた活断層調査でも、日本列島は至る所地震の巣だらけで、いつどこで地震が起きてもおかしくないことがあらためて認識された。

そういうことで考えると「日本のこの辺で地震が起きる可能性がある」とか言っても必ずしも嘘にはならない。
しかし「この地域は30年以内に26%、こっちは60%」とかいう場合の%はどうやって計算しているのか。
わたしが想像するにあの%は、なんとなくの気分で適当な数字を当てはめているのに過ぎない。
あるいは、地元の有力な議員さんが列島強靱化の予算を取ってくるのに「少し数字を高くしてくれ」と言ってきたらいくらか上乗せする。
おそらくそんな感じで地震の発生確率は決まっている。(と想像する)

地震「予知」学者は、各地域に割り振られた予知確率の数字に、権威ともっともらしさを与える。
その権威ある数字を元に各地域で防災予算のぶんどり合戦が展開される。
学者は防災予算割り振りを側面支援したことのご褒美として100億円単位の研究予算を見返りに受け取る。

しかし実際には、次に日本列島で発生する大型地震がどの地域で起きるのか、まったくもって不明である。
次の地震は予測出来ないので、重点的に防災工事を行うべき地域というのも決めようが無く、予算と工事能力が無尽蔵にあれば日本列島全体をくまなく防災工事すればいいのだろうが、もちろんそういうわけにもいかない。
現実には、各地域で今日明日に地震が起きても慌てないように、避難訓練なり減災訓練なりをやるべきなのだろう。

しかし、なまじ地震予知なんかするもんだから「予知地域」から外れたところは変に安心して地震の準備がおろそかになる。
「地震予知」のもたらす実際的な害悪は、このように地震への備えがおろそかになる地域が出てくることがいちばん大きいと思う。
posted by ヤス at 08:47| Comment(0) | 徒然なるままに

2020年01月26日

マクドナルドのある問題について

この文章を今読んでいるそこのあなたも、年に何回かマクドナルドに行くことはあるだろう。
あるいは月に2、3回の人もいれば、日に何度も行く人もいるかもしれない。
わたしもマクドナルドにたびたび行くのである。
そのマクドナルドについて、この何年か思い悩んでいることがあるので、今日それを告白する。

マクドナルドに行くと、コーヒーだけ頼んだ場合は「直接のお渡しでよろしかったですか?」とか言われてコーヒーの入った紙コップを「トレーに入れずに」そのまま手渡しされたりすることもある。
しかしコーヒーにプラスしてダブチなどを頼むと、その場合は必ずトレーに商品を入れて渡してくれるでしょう。
従来は黒くて「Mマーク」が入ったトレーが主流だったが、最近は緑色の「スマイルマーク」が入ったトレーに取って代わられつつある。
というようなことはどうでもよい。

黒でも緑でもいいが、あのトレーの上にひらりと一枚、ハンバーガーの新商品の写真とかアルバイト大募集の公告とかが印刷してある紙が乗っているでしょう。
今わたしの目の前にあるのは黒いトレーで、黒トレーの上には「ベーコンがアツいぜ!」という勇ましいコピーの入った紙が乗っているのですよ。

さて、ここでやっと今日の本題に入る。
わたしが今日告白したいのは、そのトレーの上に乗っている「紙の向き」についてである。

思い出してみると、マクドナルドのトレーの上の紙は、何十年か前はたぶんなかった。
20年まえか30年前だかに、当時の社長の藤田田が「トレーの上にいろいろとお知らせをする紙を乗せてもいいんじゃないか」と思いついたのかもしれない。
いつの頃からか、マクドナルドのトレーの上にはなにがしかの広告なりお知らせが入った紙が乗るようになった。

その紙が、わたしがトレーを受け取る時、かなりの確率で「あっちを向いている」のである。

ついに言ってしまった。

いや、別にデータを取ったわけではないから「かなりの確率」の部分はややあやしい。
だから今度実際にデータを取ってみようと思う。

あのトレーの上の紙が上を向いているか下を向いているかは「サイコロの確率」的に考えると50:50のはずである。
それが「かなりの確率」で一方向に偏っているのは、あれはたぶんカウンターで商品を準備する時に、スタッフさんが無意識のうちに「正」の方向で紙を置いていて、スタッフさん的には「正」の方向のままお客のこちらにトレーを渡すので、渡されたこちらとしては紙がほぼ常に「逆」の方向を向く。
というようなメカニズムなのではないか。

こんなことを書くとわたしはつまらぬことにこだわる神経質なサイコ野郎だと思われるのかもしれない。
だが生きている間にこの問題を世の中に公にしないではいられなかった。
だから今日この問題を思い切って告白出来て、良かったと思う。

posted by ヤス at 11:18| Comment(2) | 徒然なるままに

2020年01月25日

三菱スペースジェット6度目納期延長

三菱の国産ジェット旅客機である「MRJ」あらため「スペースジェット」が、かねてより懸念されていたとおり6度目の納期延長が決まったらしい。
今回の延長で最初の計画で2013年納入予定だったのが、8年延びて来年の2021年納入になった。
三菱スペースジェットは、開発予算も「MRJ」計画スタート時は1500億円程度だったのが現状では6000億円程度に膨らんでいるとされる。
また、開発費のうち経産省が500億円程度を補助している国策事業でもある。

三菱のスペースジェット事業は昨年、幸か不幸かカナダのボンバルディアのリージョナルジェット事業をメンテナンスサービス網ごと590億円で買収した経緯がある。
わたしは、当時「MRJ」だった国産旅客機事業は、このまま行けば袋小路にどん詰まって撤退せざるを得ないのだろうと思っていた。
しかしボンバルディアを買収したことで不安のひとつだったサービス網の問題がひとつ解決し、また買収費用もあらたに発生していよいよ撤退しにくくなった。

ネット情報によると「MRJ」計画時には開発費1800億円程度、事業化後20年で1000機販売するような目論見だったらしい。
また別の情報によるとジェット旅客機の「1機あたりの利益額」は業界平均で4億円程度なのだそうである。
ジェット旅客機といっても超巨大なエアバスA380から50人乗りくらいの小さいのまでさまざまあるが、もし仮に三菱スペースジェットが、1機あたり5億円利益が出たとして、6000億円の開発費用を回収するには単純計算で1200機販売する必要がある。(現在の受注残は確定223機オプション184機)

三菱スペースジェットはただでさえ機体単価がエンブラエルなどのライバルと比べて高く、注文を取るために納入までの間をつなぐ代替機材のリース料を負担したりして余計な経費がかなり掛かっているとも言われる。
ひょっとしたらスペースジェットの1機あたり利益は2億円、3億円、それ以下かもしれない。
もしそうだったら、三菱の旅客機事業は少なくとも今後20年以上赤字を抱えたまま営業を続けることになる。
というのはあくまで不確定情報をもとにした想像だが。

そもそもMRJ事業は2003年に経産省が旗を振って国産旅客機の開発をぶち上げ、三菱がそれに乗って始まったものである。
国が旗を振ってそこに民間企業が乗る構図が、失敗の大きな原因としてあるような気がする。
三菱の旅客機事業は、めでたく来年機体の納入が始まったとしても当分の間赤字のまま走り続けるに違いないのである。(ひょっとしたら永遠に利益が出ない可能性だってあると思う)

この間防衛省が戦闘機F-2の後継機を国産化する方針を打ち出し、初期開発費100億円を予算要求したらしい。
三菱の旅客機開発のもたつきを見ていると、さらに一桁多い開発費が必要なジェット戦闘機の国産開発が上手く行くのか不安しかない。
あるいは次期戦闘機国産化方針は、今後10年くらい三菱グループに戦闘機開発費名目で資金をつぎ込んで、旅客機事業をひそかに側面支援する腹づもりなのではないか、とか勘ぐったりする。

とりあえず、来年の三菱スペースジェットの初納入の日が実際におとずれるのを今から首を長くして待つことにする。
posted by ヤス at 14:15| Comment(0) | 徒然なるままに

2020年01月24日

論理国語というセンス

「論理国語」というものがあるらしい。
これは2022年から実施予定の新学習指導要領で定められている「国語」の中の新教科であるらしい。
「論理国語」は、2015年にOECDで行われた学習到達度調査で日本の読解力が低下しているのが問題視されて出来たものらしい。
「論理国語」というもの自体は、1年以上前に文科省から世間に出てきてずいぶんと批判もあびたようである。
わたしは、その時にそれらの議論を見たのかもしれないが、あまり覚えていない。
今日になって、ネットニュースの端っこの方にあった「論理国語」の文字が目に入って、その語感になんだか違和感を抱いて、今「論理国語」について何か書こうとしている。

検索して分かったが、新指導要領では国語の選択科目として「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探求」の4つがあるそうだ。
ちなみに必須科目は「現代の国語」「言語文化」。

従来は、必須科目が「国語総合」で選択科目は「国語表現」「現代文A」「現代文B」「古典A」「古典B」だったらしい。
共通一次世代としては、従来の国語科目でさえ、かなり新鮮に見える。
我々の時代は確か、現国と古文と漢文で、古文と漢文が選択だったと記憶している。

つまり大昔の国語の授業はかなり文学に寄っていた。
それが新しい方向としては、文学以外の国語表現一般もより積極的にやっていく向きになっているのだろう。
2022年開始の新指導要領は、その基本方向をさらに進めるものだと感じる。

論理国語は、論理的な文章や実用的な文章を学ぶらしい。
さらにもうひとつの選択科目の国語表現では、「文章と図表と画像などを関係付けながら、企画書や報告書などを作成する」みたいなのをやるらしい。

その基本的方向自体はまあ別にどうでもいいと思う。
ただ何というか、「論理国語」とか「古典探求」とかいう新科目の表現自体が、ものすごく情緒的で雑なネーミングに思える。
それぞれの科目のネーミングが、ディメンションが整合していない感じがものすごく気持ち悪い。
前の2科目が「○○国語」となっている一方で、後の2科目は「表現(する)」とか「探求(する)」がお尻に付いていて、異質に見える。
この異質なものから好きなのを選択しなさいというのは、何というか、ものすごく分かりにくい。

論理方向、実用方向に振っていくなら、文学ベースの国語とは別の教科として「論理学」なり「論理的思考」なりを新設して必須にした方がよほど分かりやすいし、読解力向上の問題意識に忠実だと思う。
新しい4つの選択科目を考えた人は、よほど情緒的な思考傾向の人なのではないか。

たぶん子どもの読解力が低下しているのは、つまるところ周りの親や大人の読解力が低下していることの影響だろうと思う。
周りの大人の言動が、論理を超越した情緒的言動であれば、子どもの言動も論理的で無くなるのは道理である。
その証拠が文科省の国語の新教科のネーミングセンスなのではないか、とか思ったりした。
posted by ヤス at 10:21| Comment(2) | 徒然なるままに

2020年01月23日

信じやすいことを信じる傾向について

人間は基本的に信じたいモノ、コトだけを信じたい生き物であるとほんとうに思う。
まあ世の中にはそれほどまでに、すっきりと飲み込めないモノ、コトがあったりするのだろう。
中世の人は、地球は平らで「地球の果て」の方まで行くと、海が滝のように奈落の底に落ちている端っこに行き着くと信じていた。(この場合の「地球」はすでに「球」ではないけれど)
しかしその千年以上前のギリシャローマ時代とかには、地球はどうやら丸いらしいということが分かっていた。
それで「日陰」の長さを測って地球の直径を推定したりしていた。
しかしその後いろいろあって、地球が丸いわけないじゃん、丸かったら下の方の人が落っこちちゃうじゃん、とかいうことになって、だから絶対地球は平らに違いないということになった。

でもたまに科学的な観測をする人がいたり、水平線がどう見ても丸みを帯びているのが気になったりする人がいて、やっぱり地球は丸いんじゃないか、とか言い出すこともあったろう。
でもそういう人たちは頭のおかしなやつだと難癖つけられたり、虚言で人々を惑わす悪魔だとか断定されて、たまに火あぶりにされたりしたのだと思う。

でも今では地球が平らな板だと思っている人はほとんどいない。
現代人の多くは、万有引力で地表の人々は地球の中心方向に引っ張られて、だから日本にいてもブラジルにいても「下に」落っこちないことを知って安心している。

少なくとも現代における観測事実や科学の論説から論理的に推測するに、地球は平らな板ではなくて球体だと考える方が合理的である。
実際、これまで宇宙に出た宇宙飛行士は地球が角度によっては平らに見えた、とかいう人は一人もいない。

500年くらい昔の人は、地球が丸いと角度によっては落っこちちゃうんじゃないかと心配でしょうがなかったのだと思う。
その心配のレベルは今想像するのはむずかしいが、その当時はそれなりに深刻だったのに違いない。
だから人々の心を安らかにするために、かたくなに地球は平らだと言い続ける必要があった。

結局のところ、人々が信じたいコトだけを信じて、信じるのがむずかしいコトを信じないのは、それを信じた方が気持ちよくて安心であるからだ。
科学的であったり事実に基づいていたりしても、あまりに安心出来なかったり、気持ちがもやもやするような言説は、世の中の人に受けが悪い。

少なくとも現代人は500年前の人類よりずいぶんと科学的になっており、ものごとを合理的にとらえるようになっていると思う。
我々現代人は、現実のなかには「信じにくいけれど認めた方がいい事実」がたくさんあることを500年前の人類よりよく知っているはずである。
それでもやっぱり人間は信じたいモノだけ信じることが圧倒的に多い。

わたしは「占い」とか「血液型性格判断」とかの撲滅運動を個人的にやっているのだけれど(その活動内容は誰も知らないと思うが)、それは占いや血液型判断には何の合理性も科学的思考もないからである。
ただ何となく信じやすいからそれを信じる、というのは人間の精神の健康にきわめてよろしくない。
健康によろしくないどころか、信じやすいことを信じる精神の傾向は、ヘイトスピーチやいじめとかの元になっているのである。

しかしそれでもなお、人間は気が付くと信じやすいことを信じているし、信じにくい事実を無意識に敬遠していることが多いのだと思う。

人間が合理的で科学的であるためには、ある種の精神的修行が必要なのだと思う。
世の中のヘイトやいじめを無くして行くには、日常生活における自分の中の小さな不合理にひとつひとつ向き合っていくようなことがともて大切だと思っている。
そういうことを自分に言い聞かせる、今日この頃であったりする。
posted by ヤス at 14:35| Comment(2) | 徒然なるままに

2020年01月22日

キッチンスケールが壊れたのでAmazonで注文した話

最近、いつも使っていたタニタ製のキッチンスケールが壊れたので、Amazonで新しいキチンスケールを注文した。
新しいキッチンスケールは、従来のタニタ製が最小単位0.5gだったのが、最小単位0.1gまで計測可能である。
その0.1g単位のキッチンスケールが、タニタ製のほぼ半額の1780円で届くので、いい時代になったと思った。
それで少し心配になるのが、1780円とかの単価の商品がいちおう配送料無料で届くのは、運送業者的に大丈夫なのだろうかということだ。

これは以前にもたびたび書いたが、最近のAmazon配送はすっかりクロネコヤマトを見なくなった。
少なくともこの3ヶ月くらいは、まったくヤマトは来ていない。
最近のAmazonの主流はAmazonデリバリープロバイダ=ADPと呼ばれる自社配送網がすっかり主流になっているようだ。
ADP以外でヤマトに代わって増えているのが日本郵政である。
最近は3回配達があったら2回はADP、残りの3分の1が日本郵政という感じである。

昨年の秋頃にヤマトがAmazon向け配送料の大幅値下げをしたとかいうのが経済ニュースにもなっていたが、値下げ提案の努力もむなしく、ヤマトはAmazonの荷物を大半失ってしまったようなのである。

ヤマトがAmazonから切られた理由は単純に値段なのだろう。
数年前はヤマトに変わる運送手段が他に無かったのでAmazonとしてはヤマトの言い分をしぶしぶ飲むしかない状況だったが、現在は地道に構築してきた自社配送網がだんだん機能してくるようになって、もはやAmazonに頼る必要が無くなったということなのだろう。

これも以前に書いたが、ヤマトの「高品質宅配サービス」は荷物追跡の仕組みとかお届け日時の事前予約とかずいぶんときめ細かくて素晴らしいが、しかし時代的にそういう「高品質宅配サービス」が無用のものになりつつあるということなのだと思う。
これはかなり恐ろしいことだ。

これまでの日本の常識では、企業は提供するサービスは同じ値段の範囲でなるべくかゆいところにまで手が届く繊細なサービスが是とされてきた。
しかし現在の宅配業務の状況は、そういう高品質サービスは要らないからとにかく安い方がよい、となりつつある。
現状ではまだヤマトの高品質サービスに絶大な信頼を置いている人も多いのだろうが、しかしこの数年でお客さんの側も、あそこまでのサービスは要らないからとにかく安くて期日通りに届けばそれでよい、という人が圧倒的に増えていると思う。

この状況が進むと、ヤマトがこれまで営々と築いてきた追跡システムや顧客の希望日にきっちり届けるシステムが、ただの「高コスト体質」だと一蹴されて、クライアントから毛嫌いされる元になってしまうだろう。(というかすでになっている)

日本人はやたらと高品質のサービスが好きであるが、しかし同時にその高品質が激安で提供されることもまた当たり前だと思っている節がある。
それは労働者としての立場では、毎日安月給で働いて、しかし手抜きもしないで真心を込めて自分は仕事をしている。
だから他の人間や会社が提供する商品やサービスも、自分が労働提供しているものと同等以上に激安でかつ高品質でないと気が済まない、そういう思いがあるのではないか。

高品質にはコストが掛かる。
高コストがいやなら低品質で我慢するしかないし、低品質が嫌ならしっかりお金を払うしかない。
そういう当たり前のことが、いつになったら日本に定着するのか。

Amazonのクロネコヤマト締め出しは、そういう当たり前を日本に定着させる黒船なのかもしれない、とか思うのである。
posted by ヤス at 11:45| Comment(2) | 徒然なるままに

2020年01月21日

好きを仕事にすること

特に最近は、仕事をするなら好きなことを仕事にした方がいい、みたいな話をよく聞く。
なるほど、好きなことを仕事にすると、なにせそれは自分の好きなことであるので給料がもらえるからしょうが無しに働く場合以上のやる気が出てくる。
好きでない人より上手にたくさん仕事ができるようになる。

ただし好きなことを仕事にするのはそんなに簡単でない。
野球が好きな人の場合、プロ野球選手になるのはそんなに簡単ではないが、幸運にもプロ入りしてレギュラーになったり、少なくとも1軍の試合にちょいちょい出るくらいになると、人並み以上の生活はできるのだろう。
プロサッカー選手も野球に近いものがある。
しかしそれ以外のスポーツ競技の場合、それなりの収入が得られるのは上位数人の選手だけということも少なくない。

スポーツを職業にするのは「好き嫌い」が分かりやすいが、他の仕事、例えば銀行の仕事とか市役所の仕事とかは、その仕事が好きだからそれをやる、という人はどれくらい居るのだろうか。
市役所の仕事内容が好きだから市役所に入るという人は、それなりに居るとは思うが、それでもやっぱりプロ野球選手や電車の運転手なんかに比べると少ないような気がする。

思うのは、世の中には面白そうな内容の仕事があって、その内容が好きでたくさん応募してくるものもある一方で、面白みが分かりにくくていまひとつ人気がなく、仕方無しにその仕事に就く人の割合の多い仕事もあると思う。

そういえば、中世ヨーロッパには「死刑執行人」みたいな仕事があって、これは収入はそこそこだったのだろうが職業として非常に人気がなく、したがって世襲で受け継いで細々とやっていたそうだ。
現代でも首切り職人ほどではないにせよ、人気がなくてなり手が少なく、他に仕事がないのでしょうが無しにやっている人が多いような仕事、というのはそれなりにある。

現代は、曾祖父さんの代からうちは八百屋をやっているから長男の俺も八百屋を継ぐ、みたいなことも少なくなって、なおかつ「好きなことを仕事にしたい」と考える人が増えると職業ごとの人気不人気が分かれるということが昔より顕著になっているのではないか。

仕事をする方の立場としては、不覚にもたいして好きでもないことを仕事にした場合、精神の健康を保つには後付けでその仕事を好きになるしかない。
というか世の中的には「好き」を仕事に出来ない人の方が多数派だろうから、職業人の重要な基礎的資質としては「好きでもない仕事を後から好きになる能力」がけっこう重要な気がする。

そしてこれは逆から見ると、人を募集する会社の方も、今から募集する仕事内容の面白さを具体的に認識していてちゃんとプレゼンできるようなところがいい人を採れるということなのだろう。

ただまあ世の中には、逆立ちしてもどうしても好きになれない仕事というのもあるかもしれず、そういう場合はやっぱり転職を考えるべきなのだとも思う。
posted by ヤス at 11:31| Comment(2) | 徒然なるままに

2020年01月20日

センター試験で思ったこと

昨日と一昨日はセンター試験をやっていたらしい。
受験生のみなさんにはご苦労さんでしたと言いたい。
ネットニュースやSNSにセンター試験のことがちらちら上がっていたので、わたしも昔の共通一次試験のことを思い出してしまった。
共通一次試験のことを思い出していて考えるのは、試験本番というのはなんであんなに集中力が発揮出来るのだろうかということだ。

学生時代のわたしの悩みは、そもそものやる気があんまり無いことだったと思う。
それでいつも思っていたのは、テストの時は60分とか90分とかやる気が持続する。
長い問題文を読むのに、普段だったら途中でくじけてぼーっと窓の外を眺めたりするところが、テスト本番中だとかなり集中して読み続けることが出来たように思う。
テストの時というのは、知能指数というか集中力というか、そういうものが普段の1.5倍増しくらいで湧き出てくるような感覚があった。
もし、日常ずっとテストの時のようなやる気と集中力が24時間にわたって持続していたら、ふだんの勉強もはかどって、わたしはとんでもない天才になることが出来たのではないか。
そういうことを時々思っていた。

日頃の受験勉強を集中してやる方法について少しネット検索してみた。
わたしが高校の時分は「ネット」なんてものは無かった。
今の学生なら、日頃の勉強に集中できないとき、ネットで検索して集中の方法を調べることが出来て便利だ。
それで、たまたま出てきたサイトで集中の方法を見てみると、まず焦ってはいけないと書いてある。
尻に火が付いた方がやる気が出るような気もするが、焦るとかえって集中が削がれるそうだ。
気持ちを落ち着けて勉強に取り組むためにも勉強は計画的にやりましょう、とも書いてある。
なるべく具体的な目標を決めて、今日は問題集の何ページまでやるとか決めるらしい。
あと、集中出来る環境を整えようとか書いてある。
携帯電話は目に付かないところに仕舞いましょう。
出来れば勉強中は塾の先生や親に預けて強制的に触れないようにしましょう、とか書いてある。
こういうことは、わたしの時代には無かった問題である。
もしわたしの時代にスマートフォンとかあったら、わたしは一日中スマホをいじり倒してぜんぜん勉強出来なかったかもしれない。

現代っ子には現代っ子なりの試練があるようである。

わたしが調べたネット情報には書いていなかったようだが、数十年生きてやっと分かったのは「とにかく始める」ことが勉強においてもっとも重要だということだ。
どんな作業でもやり始めると、それなりにだんだん興味が湧いてくる部分というのがある。
「やる気」は実際に「やる」ことによってしか生まれない、というのがこの手の話でいちばん説得力があるような気がする。
それと、やる勉強のレベルもやり始めは難しいことをやらないことだ。
最初のうちはすらすら解けるくらいのレベルの問題集をウォーミングアップでやる。
やっているうちに「やる気」が湧いてきたら徐々に難しい問題に移行すると良い。

というようなことを数十年生きてやっと知ったわけだが、知った時にはもうかなり手遅れだったわけである。
「とにかく始める」ことが重要なのはよく分かった。
だが、それじゃあどうすれば「とにかく始める」ことが出来るのかはいまだに知らない。
これを知るためにはもうあと50年くらい掛かるのかもしれない。
人生は一生勉強なのである。
posted by ヤス at 08:32| Comment(2) | 徒然なるままに

2020年01月19日

進次郎育休を取る

小泉進次郎が育休を取るらしい。
ニュースを見ていると、進次郎の育休に批判的な意見が多い。
育休というのは、ある種の有給休暇なのであろう。
そもそもサラリーマンとちがって、国会議員は休みたい時に休める。
少なくとも雲隠れしたい時に雲隠れ出来る。
そんな便利な身分にある人に育休が必要なのかという批判である。

確かにそうだ。
しかしわたしは、別の観点から進次郎の育休に賛同したいと思う。

そもそも夫婦に子どもが出来た時に腹を痛める訳でもない男性に育休は必要なのか、というのが多くの日本人の、特におじさん族の考えの中にあるような気がする。

過去の進次郎の発言を見てみると、育休の取り方として必ずしも一定期間連続で大臣や議員の仕事を休むつもりでもないらしい。
一日の仕事時間の中で30分始業を遅らせるとか、部分的に休んでこれをもって育休にするかも、みたいな話もあったようである。
なんだそれじゃ普通に仕事してるのと変わらないじゃん、と思うのだが、今回の場合「育休を取る」と宣言することこそが肝心であると進次郎は考えているのではないか。

日本の育休の取得率は女性は8〜9割あるのに対し、男性は6%程度で低迷しているらしい。
男性の方も数字はちょっとずつ上昇してはいるようだが、しかし社会の雰囲気として男性が育休を普通に取るということにはまだなっていない。
どこかの会社でどこかの男性社員が「女房が子どもを産んだので育休を取りたい」と言ったとして、職場の中で「なんで男のお前が育休要るんだよ女房が産休取るだろうに」ということになって無言の圧力が働く、それで結局育休を取りそびれる、それが日本社会の実態なのかもしれない。

しかし今ここで進次郎が育休を取る。
少なくとも取るぞと宣言する。
世間の多くが、進次郎のような自由な身分がいちいち育休を取るなと騒ぐ。
世間では「男性に育休が必要ない」という観点ではなく「国会議員に育休は必要ない」という観点で批判をするかもしれない。

でも多くの人(特におじさん)の潜在意識の中には「男に育休は必要ない」という気分がある。
そんな中で進次郎が育休で批判を受ける。
すると「自由に休めるはずの国会議員のクソ進次郎だって育休取ってるのに、俺たちが育休取れないのはなんかおかしい」という気分が子どもが出来た男性たちに広がる。
それで世の男性たち、少なくとも進次郎の身近の環境相あたりで育休を取る男性が少し増える。
そういうことはあるかもしれない。

進次郎は今回の育休宣言で世の中から批判を受けるのは承知の上なのだろう。
というか、批判の声が上がれば上がるほど一方で育休を取る男性が増える可能性も高まる、そんな風に考えているような気がする。

少なくとも、その一点においてわたしは進次郎を支持したい。

進次郎はセクシー発言で批判されたり不倫騒動があったり、環境大臣としての仕事を十分にしているとは言いがたい状況にあるわけだが、彼には親父の代から厚労族的な傾向があったのかもしれず、そういう意味で環境問題より育休問題の方が本人的に得意なのではないか、と思ったりするのである。
posted by ヤス at 09:44| Comment(2) | 徒然なるままに